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『自殺の練習』という犯罪

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2015年8月6日木曜日

8月6日の記憶

朝、町にサイレンの音が鳴り響きました。その音で気付き、その場で黙祷を捧げました。
70年前の8月6日8時15分、今の私たち同様に日常の忙しさが始まりかけた大勢の人達が暮らす広島の町に、人類史上初めてとなる大量破壊兵器原子爆弾が投下されました。

今朝の天声人語に、次の様な一文がありました。
「歳月は流れ、記憶の継承が問われている。」
そして、朝日新聞が行った被爆者アンケートの結果、被爆体験が次世代に「全く」「あまり」伝わっていないとする回答が5割を超えたと記されていました。

あの日、二十歳であった人は、今日存命であれば九十歳を迎えられています。
あの日、原爆の炸裂をその目で、その体で、受け止められた人達は、
その後、重い原爆症に苦しめられ、また、いわれのない差別を受けられたとも云います。
そして、原爆による被爆体験者は、すでに高齢で十年後二十年後にはひとりとして存命でないかもしれません。
でも、被爆体験の記憶は、被爆体験者の日記や口述筆記の中に有り続けます。
また、原爆の悲劇が生み出した絵画や映画、小説の中に有り続けます。

現代の私たちがやるべき事は、先人達が残した記憶や記録に
自らおもむき、心を澄まして向き合い、じっくりと思案して、先人達の真意を汲み取る行動です。その行動こそが記憶の継承になるのだと思います。

原爆が招く惨劇や、被爆の恐怖を継承する事は、
戦争を憎み、反戦の心を持ち続ける事に繋がります。
私たちは、それを一時も休めてはいけないのだと思います。

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