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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2015年1月14日水曜日

侮辱と風刺の間

朝日新聞に連載されているコラム”素粒子”は、時々の社会の出来事に対して皮肉や風刺を効かした小気味よい小文として楽しんでいますが、昨日1月13日(火)の素粒子には、不快感を覚えました。

昨日の素粒子(新聞紙面から引用)
1.(便宜的に番号を振りますね)日中韓にそんな日が来るだろうか。独仏首脳が、イスラエルとパレスチナの指導者が隊列を組む姿に目を見張る。
☆
2.欧州の自由と連帯のプラカードの裏側は寛容と多様性のはず。嫌悪や排斥が忍び込む風潮は日本のいまとも似て。
☆
3.少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。
70年前、特攻という人間爆弾に賞賛を送った国があった。

1.は皮肉です。
2.は風刺ですね
では、
3.は・・・
これは暴言です。
70年前、特攻という人間爆弾に賞賛を送った国、はどこの国なのでしょうか?
身勝手な私見です。根拠のない貶めです。酷く腹が立ちました。

イスラム教の風刺画は、自由の証か、はたまた冒涜か、という議論が世界を二分していますが、ニューヨークタイムズ編集主幹の言葉が印象的でした。

「侮辱と風刺の間には境界があり、これらの多くは侮辱だ」
言論に携わるすべての者が、心しなければいけない言葉です。

○○妻、が始まりました

新聞のテレビ蘭を見てますと、「○○妻」というタイトルのドラマがありました。
22時、何気にチャンネルを合わせますと・・・
チャララ、チャララ、(トーンを下げて)チャララ・・・・という不可思議感を誘う音楽が流れます。
あれっ、これって「アンドリューNDR114」のオープニング曲に酷似ではないか!
感嘆し、まったく未知見のドラマでしたが興味が芽生え見ることにしました。

そして観終わって・・・
さくらは、契約妻だって言います。
でも私は違います、言い張ります、これはロボット妻なんだと・・・
柴咲コウは(高性能なメイド)ロボットのウランちゃんで
黒木瞳は、お茶の水博士なんだって思いました
さあ顛末、ゆっくりと楽しんでいきましょう。

2015年1月9日金曜日

鳥谷選手の阪神残留が決まったようです・・・

今ストーブリーグで、阪神ファンにとってようやくホッとできるニュースでした。
鳥谷選手がいなければ、阪神のセンターラインは最悪です。昨年中堅手で活躍した大和選手を遊撃手へコンバートという話もありましたが、これでは昨年までのセンターラインが崩壊です。
まぁこれで守備陣の不安は解消します。
今年阪神は球団創設80周年だそうですが、ようやく昨年レベルの体制は保てそうですね。
でも黒田選手が戻る広島が脅威です。阪神はとかく力のある投手に弱い。
誰がそんな打ち破ってくれるのか?
昨年夏以降に復活を遂げた福留選手に期待です。
今年は外野手のリーダーとした名実共に活躍して欲しい、そう期待します。

まぁちょっと気が早いですが、阪神のオーダーを考えて見たいと思います。
1番 中堅手 大和
2番 二塁手 上本
3番 遊撃手 鳥谷
4番 一塁手 ゴメス
5番 左翼手 マートン
6番 右翼手 福留
7番 三塁手 西岡
8番 捕手 梅野
9番 投手 先発(メッセンジャー、能見、藤浪、岩田、岩貞)
んん・・・やっぱり昨年と代わり映えしませんね・・・
野手では、上本選手と梅野選手が一年間コンスタントに活躍してくれることを期待します。
投手は・・・三番手、四番手、そしてもう一人、彗星の如く活躍してくれる選手が出てくれる事を期待します。

2015年1月8日木曜日

日本語ワープロソフト一太郎

この季節になると、毎年ジャストシステムから一太郎バージョンアップの案内が届きます。一太郎とは、パソコン黎明期からの日本語ワープロ・ソフトウェアの雄です。
今年は、初代一太郎の発売から30周年を迎えるそうです。
そして近日、25代目となる一太郎2015が発売されます。

一太郎には日本語の変換率が優れている日本語入力システム(IME)ATOKが添付します。現在のATOKは一太郎から分離されWindowsのフロントエンドプロセッサーとしてすべてのソフトウェアの日本語入力システムとして利用できますが、何よりも一太郎との親和性が高いのです。また、一太郎には種々の辞書ソフトが添付します。これら一太郎、ATOK、そして辞書ソフトがスムーズに連動し、語彙の用法に詰まること無く、とてもスムーズに文書を作成していく事ができるのです。

私の一太郎との出会いですが、1990年代の始めに会社で使い始めたDOS版の一太郎です。それまではNECの専用ワークステーションで動く「LANWORD」を使っていましたが、どちらも、操作コマンドが煩雑で、また日本語の変換が非常に悪いために、始めに紙に下書きしてから、清書として印刷するためにのみ使っていたように思います。
そしてWindowsパソコンが発売されるようになりますと、MS-Word+Lotus123のバンドルモデルが主流でしたので必然、ワープロはMS-Wordを使うようになり、一太郎とは疎遠になりました。
でもWS-WordやWindowsに添付されているIMEは、日本語の変換率も操作性も悪く、IMEのみATOKを利用しました。そして使い続けるうちに、そのソフトウェアの進化の素晴らしさを体感し、すっかりファンとなりました。
ビジネスから離れ・・・、ほそぼそとパソコンを利用するようになってから・・・
徒然にブログを書くようになって・・・、再び一太郎に回帰しました。

今ではもう、この一太郎、ATOK、辞書ソフトの魔法のような文書作成トライアングルソフトウェアは私の必須の道具となっています。
そうそうにバージョンアップすることは叶いませんが、今使用しているバーションで、私は十分ありがたく思っています。
案内の冊子に、一太郎の年譜が掲載されていました。2010年に、ソフトウェアとして初めて「情報処理技術遺産」に認定されたとありました。
遅ればせではありますが、おめでとうございます、を贈ります。

表現の自由

表現の自由が脅かされる、そんな事態が世界で起こっています。

一つは、昨年11月に起こったアメリカのソニーピクチャーズへのサイバー攻撃です。
12月に公開予定であった新作映画「The Interview」、現北朝鮮最高指導者である金正恩をアメリカのテレビクルーがCIAの命を受けて暗殺するというコメディーだそうですが、この映画の公開を阻止するために、謎のサイバー攻撃集団「Guardians of Peace」がソニーピクチャーズを攻撃し、コンピュータに保管された映画関係者の個人記録やメール記録、機密データ、新作映画データを盗みます。そしてソニーピクチャーズに対して、世界中に公開されたくなければ映画の公開を中止せよ!と迫ったのです。

そして二つめは、昨日フランスはパリの中心街で起こった風刺週刊紙シャルリー・エブド本社へのマシンガンによる襲撃事件です。イスラム圏の宗教指導者を風刺する漫画を紙面に掲載し、それがテロリストの「預言者を侮辱した仇」として標的にされ、警邏の警察官2名を含む12名の貴い命が奪われました。

表現の自由は、民主主義や自由主義を標榜する国家においては、保証される国民の権利です。ですが、権威主義がまかり通る、或いは宗教のある部分を尖鋭的に掲げる原理主義、或いは全体主義を掲げる国家やそれに準ずる組織においては、表現の自由などありません。それもまた世界の有り様なのだと思います。

今から75年前に、希代の映画人チャールズ・スペンサー・チャップリンは「独裁者」というタイトルの映画を撮りました。ヨーロッパ全土を覆うナチズムを、ペンならぬ映画でその本性を世界に訴えました。チャップリンはナチスに命を狙われる危険を承知で、私財を投じ、ヨーロッパの悲劇を、そしてユダヤの民の悲劇を世界に訴え、またヒットラーやムッソリーニという独裁者を酷く扱き下ろしました。
チャップリンは、独裁者批判を、鮮烈に、また命がけで「表現の自由」を行使したのです。

「表現の自由」は、民主主義や自由主義を勝ち得た中で、獲得した人民の権利です。
ですから身体の自由と同様に決して侵害してはならない、侵害されてはならないものです。
ですから、一人の「表現の自由」を認められた者として、今回の蛮行に対して、最大の抗議を表明します。

ですがまた、行き過ぎた「表現の自由」に対しては警報を鳴らします。
「表現の自由」とは、自らの意見や思想・主張を、何者にも束縛を受けずに表現できるという事ですが、ややもすれば他者への攻撃や中傷、また不快感といった暴力の手段と化します。成熟した民主主義や自由主義社会においては、「いたわり」こそ大事です。自らの権利と同じに他者の権利も守らなければならないのです。それが本来の「表現の自由」ではないかと考えます。

体罰について

体罰が社会問題化して久しいですが、また凄惨な事件が起こりました。
若い親が、乳飲み子を殺すという事件です。
泣き止まないから、罰を下す。
しかし、泣くというのは罪ではありません。
罪は、子を泣かす親にあるのだと思います。

私は、体罰を一括りに「駄目だ!」と云うものではありません。
中学の頃、こんなことがありました。
クラブ活動が終わった後も、遅くまで体育館で遊んでいると
一人の先生がやって来て、
「今度見つけたらどつくぞ!」と口頭で叱られました。
そして先生は笑顔で、生徒を体育館から追い出しました。
それでも性懲りも無く、別の日また体育館で遊んでいると
その先生がやって来て、
「一列に並べ!」と号令をかけ、整列した生徒は一人ずつ思いっきりどつかれました。
生徒には大丈夫も弱虫もいましたが、皆歯を食いしばり鉄拳を受けました。
何故、こんなに素直に生徒は罰を受け入れたのでしょうか?
一つは、先生に信頼があったからです。
生徒を叱る一つにしても、その先生にはめりはりがあった。
一度は許し、しかし二度目は無い事を告げていました。
それから、どつくのにも一人として手加減はありません。
殴られる痛みは、そっくり殴る痛みでもあります。
それを何人もの生徒に行うのです。
そして生徒は、殴られても身から出た錆と分かっているのです。
仲間と痛みを共有するという連帯感もあった様に思います。

体罰は、行う側に真摯さと真心が必要です。
決して矛盾がなく、直球であること、別件を持ち出すこと無く
明らかな罪に対して、受ける側が許容できる罰をすぐに与える。
それが肝なのだと思います。
そして少しでもよこしまな気持ちがあれば
それは体罰なのではなく、罪であることを肝に銘じなければいけません。

公に罪を犯した場合、裁判にて罪の重さが計量され、罪に見合った刑罰が下されます。
刑罰には、
①金品を没収する
②身柄を拘束し、自由を奪う
③身体に苦痛を与える
④精神に苦痛を与える
そして極めつけが
⑤命を奪う
です。
しかし、たとえ公であっても、命を奪う刑罰を行う事には至極慎重です。
それは、たとえ罪人であったとしても、その命は尊いという通念があるからです。

それが親なら、先生などの指導者ならばなおさらです。
罰は、しっかりと計量して行う事
罰は、真摯な気持ちで行う事
罰は、真心を持って行う事
そして、痛みを分かつこと
それ以外は、罪であること
重々肝に銘じなければなりません。

2015年1月7日水曜日

人間の糧

人間が生きてゆく為には、必ず摂らなければならないものがあります。
空気であり、水であり、食物です。
ですが、これだけでは人間は生きられない。

人間は欲深い生き物です。欲を満たさなければ生きてゆけないのです。
欲のため生きている、といっても過言ではないでしょう。
ですから欲を満たさなければならない。
先に述べた食欲、そして性欲、腕力欲、権力欲・・・これだけでは人間と他の動植物との差異は無い。
しかし、人間が人間たらしめる欲があります。それが知識欲です。
これまでの知識を調べて、見つけて、学ぶ
そしてさらに新たな疑問を見つけて
また、調べて、見つけて、学んで、そして考える
その繰り返しで新たな知識を開くのです。

知識欲を広げる為には
知ること
定着させること
そして、伝えること
が必要です。
それを可能とするのが、社会です。
ですから、人間には社会が必要です。

では社会とは何か?
親子関係から始まり
家族という集合を作り
隣近所という小集団を形成し
やがてそれはどんどんと多くなって
やがて学びの場(学校)、糧を得る場(仕事場)
そして守る場(国家)へと広がります。

社会に所属する意義は、先の知識欲を広げる為だけではなく
安心を得るという事だと思います。
では人間にとって至福の安心とは何でしょうか?
それは「信頼される」という事だと思います。

信頼される社会に組している
これこそが、人間の最大の至福です。

信頼を得る為には、個人が費やす時間や努力が必要です。
でも、それだけで信頼は実現できるものでありません。
社会の側に、信頼を育む、信頼を良しとする土壌がなければなりません。

昨今、絆という言葉が大流行です。私たち人間は絆を安易に叫びます。
絆とは、社会の中の人間と人間を結ぶ血脈です。
そして絆は、真に信頼の具現化であるべきものです。

ややもすれば、安易に絆を持とうとします。
親子関係、友だち関係、恋人関係、そして仕事関係もあるでしょう。
しかし、安易に持った絆は、信頼の裏書きが無い事を悟らなければいけません。

信頼の無い絆ほど、不安なものはありません。
不安は、何を呼び込むか?
自分を守るという欲求です。そんな時、人間は暴力性と狡猾性を露わにします。

そしてもう一つは、
性急な信頼への欲求です。大いに自分を欲するものに惹き付けられて、身も心も捧げてしまうのです。たとえ信頼すると叫ぶものが人間で無いとしても、構わないのです。
そしてそれは既に実在します。
ネット社会です。
そしてネット社会に暗躍するものたちです。
最たるものがイスラム国ではないかと思います。

そして気付きます。気付かなければならないのです。
それは、真の信頼が保たれる実社会の再興です。
人間同士が、自他ともに愛し、信頼を育むために我慢し、努力する
そんな社会を実現し、維持し続けることを

現在、罪と罰は人間を吊し上げますが、本来罰は罪に対するものであり、人間に対するものではありません。人間は不完全な生き物です。ですから罪を犯します。罪でなく、人間を見ることです。
人間を見て、できうる限り罪を許して、活かす。そして、絆に見合う者に育て上げることです。
それが信頼を育む、信頼を良しとする土壌なのだと思うのです。

人間を人間たらしめる糧、
それは「信頼されている」という安心です。