大好きな映画の話、本や朗読の話、また高校野球の試合観戦記、地元播磨の散策記など徒然に書いています。 その他にも、しょうもない昔話やちょっとしたエッセーなども書いています。 本でも読む感覚で読んで頂いて、面白ければ訪問カウンター下にある[G+1]ボタン(Facebookのいいねボタンの様なものです)を押して頂ければ嬉しいです。また、コメントの書き込みも楽しみにしています。
播磨の国ブログ検索
藪の中
先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...
2018年12月24日月曜日
一本松連中の忘年会
発起人はいちゃさんとまんちゃんです。
18:30、まずはどんどんの焼きそばとにくてんで腹を満たし
そして、隣の野路菊に移動してカラオケ大会です。
歌うのは、昭和歌謡、昭和艶歌、昭和フォークソング、唱歌、そして島唄です。
若いときは勢いで歌っていたように思います。でも今は、一人ひとりの歌声と語る歌詞が心の中に深く浸みてきて、なんだかジンとなりました。
病気で闘病中の連中がいます。
遠くの空で、同じ満月を見上げる連中もいます。
ちなみに昨夜の満月、突然にいちゃさんが表に飛び出し、そして一年でもっと高い位置に来る満月を観ようと皆を外に引き出したのです。いちゃさんの腰に手を当て夜空を見上げる姿、写真に残したいほどれ惚れしました。(ベンチャラじゃなくほんまにそう思ったんやで)
カラオケの一曲目、歌いました。「誰か故郷を想わざる」です。
おとつい、テレビで古賀政男さんのドキュメンタリーを観ました。この歌、出した当初はヒットしなかったそうです。それで余ったレコードを戦地の兵隊さんへ送ったところ、歌が誘う望郷の念が兵隊さんの心を打って、そこからじわじわとヒットしたという逸話を知りました。
故郷を想う、地理的だけでなく過去を振り返る事も同じだと思います。
まだ毛が生え揃うか否かの頃からの連中です。若さで脱線してばかりいた頃を想いながら、これまでに出会い今もとても大切に思う友人を思い浮かべならが、唱いました。
そして一本松は、連中のふるさとである事、昨夜、しみじみと思いました。
久し振りに少し飲んだことと、煙草の煙(元喫煙者なので香り嫌いじゃないんです)、そして久し振りに声を張り上げて何曲も唱ったんで、朝起きると喉が無性に痛いです。
天皇陛下、平成最後の誕生日のお言葉
お言葉で語られたメッセージ、大切にしていきたいと思います。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
第二次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉えんを迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵どしています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来じらいこの伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労ねぎらいたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
2018年12月22日土曜日
詩 旅神戸
(訂正 去年でしたね 今年で151年でした m(__)m )
1868年、明治もこの年に始まりました。
神戸には、いつまでも旅情を誘う町で会って欲しいと思います。
2018年もそろそろ終わりを迎えましたが
そういう想いを詩にしてみました。
Google翻訳を使って、分からないながら英語詩を作ってみました。
後はメロディー、作曲の才は全くありませんので
どなたか曲を付けてくれませんか
そして、歌いたいです。
ジャンルは、ボサノバ風
どうでしょう・・・
旅神戸
開港150年
新しい音楽、新しい娯楽
新しい食、新しい出会い
多様な異国の文化がこの町に根付き
その芳しさに魅せられて旅人は神戸に集う
旅船の港
海風には異人の残り香が漂い
水面には異人の名残が漂う
異国への慕情がこの港を染めて
その情緒に魅せられて旅人は神戸に集う
山手の展望
異国の風情を伝える通り
新しく日々変化する通り
夜になれば百万の瞬く光に彩られ
その輝きに魅せられて旅人は神戸に集う
開明の町
共生の町
復興の町
神戸
いつまでも旅人を魅了し続けてと願う
journey kobe
150 years after opening the port.
New music, new entertainment.
New meal, new encounter.
Various foreign cultures take root in this town.
Attracted by its fragrance, travelers gather in Kobe.
A port of a journey.
A scent of foreigners in the sea breeze.
A memory of foreigners on the surface of the water.
A longing to foreign country dyed this harbor.
Attracted by that emotion travelers gather in Kobe.
View from the mountain.
A street that conveys the feelings of a foreign country.
A street that newly changing everyday.
The evening it is colored by the blink of a million.
Attracted by its glow, travelers gather in Kobe.
Civilization town.
Symbiosis town.
Revival town.
Kobe,
I hope to keep captivating travelers forever.
2018年12月14日金曜日
あおり運転事件が抱かせる人間の危機
交通死亡事故の被告人に対する日本の現在の量刑としては非常に重いものですが、それでも被害者の無念、また被害者家族の無念を思うと、やるせない気持ちは晴れません。
今も忘れることのできない事件があります。
2012年4月23日に京都府亀岡市で起こった、未成年者の無免許、無謀運転、居眠り運転が引き起こした交通事故により、登校中の児童、引率の保護者、10名が死傷した事件です。この事件では被告人に対し、
・無免許運転や居眠り運転は危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
・無免許運転にも関わらず被告人の未成年者が無免許運転の常習者で、未熟な運転技能という危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
ことから、危険運転致死傷罪が適用されませんでした。当時、被害者の無念、被害者家族の無念を思い、とてもとてもやるせない気持ちになったことを覚えています。
今回の事件も、その時と同じ気持ちにさせられます。
まず、今回の事件で一番に思うのは、「あおり運転」という言葉の不適当さです。
「あおる」、国語辞書には
・他人を刺激して、激しい行動に駆り立てる。
・おだてたりして、相手がある行動をするように仕向ける。たきつける。扇動する。
と書かれています。
「腹が立ったから」、「生意気だから」、「面白いから」等々の内面から湧き出る感情の赴くままにターゲットとなる人を車を使って襲う行為は、まさに凶暴そのものです。襲った相手を事故の危険にさらし、死の恐怖にさらします。
たとえ何も事故が起こらなかったとしても、誰ひとり死傷者が出なかったとしても、襲った相手には恐怖体験が残ります。それが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こし、日常生活に支障を来すのみならず、将来の希望や夢が絶たれる可能性だってはらみます。
まして今回の事件では、人が死んでいるのです。殺されているのです。
そして今回の事件では、追い越し車線上に停止している車に追突し、二人を殺してしまったトラックの運転手も被害者だと思います。たとえ減刑されたとしても、一生、人を殺してしまった罪を背負い続けなくてはなりません。ということは、被告はもう一人の人生まで奪ってしまった。否、その家族の人生も奪ってしまったことになります。
これは交通死亡事故事件ではありません。これは暴力事件、殺人事件です。
その事を社会に問い、社会で合意形成し、暴力運転者や殺人(もしくは殺人を犯す可能性のある)運転者、ならびに同乗者は殺人同様の厳罰に処す法整備を行わなければならないと思います。
しかし、これは運転者が暴力運転や殺人運転に走らないための理性に訴える抑止力でしかありません。
真の問題は、私達人間が、内なる過敏、過剰、過激な感情を自制できなくなっていることです。そして罰則などの抑止力さえ効かなくなっていることです。
他者を感情の赴くままに攻撃してしまうのは、他者を生きた血の通う人間と認知できないためだと思います。また、他者への愛情が湧いてこない、抱けないためだと思います。
これは人間の危機だと思います。
2018年12月12日水曜日
「帰ってきたヒトラー」が警報する未来
今年観た映画で、一番に衝撃を受けたのは「帰ってきたヒトラー」(原題 Er ist wieder da 直訳 彼が帰ってきた 2015年ドイツ映画)です。
この映画は、2012年にドイツの作家ティムール・ヴェルメシュが書いた風刺小説を映画化したものです。
1945年4月30日、ベルリンの総統地下壕で自殺したヒトラーが、現代のベルリンで目覚めてから、最初は道化の扱いを受けながらも、ナチズムが崩壊した後の世界の歴史を学び、プロパガンダの新たなツール(テレビ、インターネット、SNS)を学び、そして民の中に静かに潜む不満を学び、過去の失敗を学び・・・
そして満を持して、自分が現代に目覚めた目的、第二の我が闘争ともいえる「帰ってきたヒトラー」というベストセラーを著して、熱狂的な支援者を生み出し、再びナチズムの実現に動き出す端緒までが描かれます。
現代に現れたヒトラーを最初に見出したのは、落ちぶれたテレビ制作のディレクターであるザヴァツキでした。これまでのどんなヒトラーのそっくりさんよりも、どこからみてもヒトラーにしか見えないヒトラーのそっくりさんを、再びテレビ制作の世界に返り咲く野心の道具にしようとしたのです。
しかし、ヒトラーのそっくりさんはザヴァツキの想像を超えて、テレビ番組のスターになりました。物腰に威厳が満ち、卑猥さや卑屈さが微塵もありません。そして、その態で、雄弁で直情的で刺激的な言葉を発言するのです。そして、権力者には容赦がありません。それがテレビのコメディースターであっても、政治家であってもです。でも、町に出れば、市井の人々に同じ目線で語りかけ、彼らの心の中に潜む不満を引き出します。
表面的には満ち足りた現代社会で暮らす、しかし実際には、窮屈感と閉塞感、そして将来への不安に苦しむ若者達に、ヒトラーのそっくりさんは特に受け入れられました。若者達は、ヒトラーをアイコン化し、アイドル化して、ネット社会のスターへと押し上げていきました。
そして、ヒトラーは満を持して、一冊の本を世に出します。その著書「帰ってきたヒトラー」は、現代のドイツ社会で熱狂的に受け入れられて、映画まで作られることになります。
いまでは、ヒトラーのそっくりさんの腰巾着の様な立場となっていたザヴァツキですが、初めてできた恋人がユダヤ人の祖母を持つ混血であることをヒトラーになじられたこと、また恋人の祖母でホロコーストを生き抜いた老婦人がヒトラーのそっくりさんと面会したときに非常に激高したこと、そして自分自身、ヒトラーのそっくりさんと出会ってから感じている得も言われぬ不安の原因を明らかにするために、ヒトラーのそっくりさんが初めてベルリンに出現した時に撮られた映像を見返して、突如現れた光と煙の中からヒトラーが忽然と現れた様を認めます。そして、ヒトラーが本物であることを悟ります。
ザヴァツキはヒトラーを殺しに行きます。
銃を突きつけ、ビルの屋上に誘導し、ヒトラーに銃の照準を合わせます。そして、屋上の縁に上がって不敵に笑うヒトラーの顔面を打ち抜きます。ヒトラーは屋上から落下しました。ザヴァツキは縁に寄り、ヒトラーの最後を見届けようとしますが、地上にヒトラーの亡骸はありません。そして、ザヴァツキが振り返るとヒトラーが目の前に立っています。ヒトラーは言います。
ザヴァツキ君、
私を怪物というのなら、怪物を選んだ国民こそが罰せられるべきではないか。
国民は、ただ非凡なリーダーを選んだだけだ。
国民は、なぜ私を選んだ。心の中で私に共感しているからだ。
私は殺せない。私は、国民の中に存在し続けているからだ。
悪魔を見たザヴァツキは、心が壊れ精神病院に収監されました。
そしてヒトラーは、第一次ナチズムの宣伝大臣であったゲッベルスに代わる、新たなプロパガンダの片腕を見つけ、第二次ナチズムの実現に動き出します。
途中までは、コメディーかミュージックビデオの様な軽快な乗りで、斬新な風刺映画風でしたが、ラストはホラーでした。この映画はまさに、風刺映画というなまやさしいレベルではなく、リアルなホラードキュメンタリーでした。
ヒトラーが劇中で、インタビューする、また激論を交わす政治家やネオナチの運動家は、すべて実在の人物です。そして、ヒトラーを用いた、ユダヤ人を揶揄する際どいジョークも盛りだくさんありました。
作者は、第二次世界大戦が終わって、そして冷戦が終わって、ようやく訪れた平和や繁栄の礎となってきたデモクラシーという政治体制に、ほころびが生じ始めていることに警報を鳴らします。それは、デモクラシーの理想を強迫的に進める理想主義者の指導者に対する疲弊、そして重圧が国民に蔓延しつつあるからです。
ナチズムの全否定、
シオニズム、そしてユダヤ人に対する批判のタブー、
国家の利益よりも欧州連合の利益優先、
人道的な難民や移民の大量受け入れ、
等々です。
ドイツと同じくデモクラシーと自由貿易の先進国であったはずの、アメリカ、イギリス、フランスまでが急激に保護主義や民族主義に傾倒し始めています。
そして、全体主義で一度衰退した国家である中国、ロシアが独裁国家となって再び台頭し、世界中に力を誇示し始めています。
世界のそこかしこで、デモクラシー、自由な競争、人権の尊重、人権を守るための言論の自由が、厳しく統制され始めています。
そして国民は、大衆の耳に心地よい言葉を発する、大胆で強いリーダーに惹かれるようになりました。その人物が、平時では到底承服できないほどに破廉恥な人物であってもです。
破廉恥で、大胆で強いリーダーは、プロパガンダを駆使します。そして国民を扇動します。彼らが国民を掌握するテキストは、ヒトラーでありナチズムです。
ヒトラーは死なず、ナチズムは死なず、いずれ再び台頭することに作者は、警報を鳴らしています。
2018年12月11日火曜日
いちゃさんから『小さな手袋』朗読の感想が届きました。
悲しいでもなく、苦しいでもなく、辛いでもない、
やるせない・・・気持ち、
『小さな手袋』は、本当にこの一言に凝縮された気持ちにさせられる物語でした。
この物語は、小学生の女の子シホちゃんのお父さんのまなざしで描かれた物語だと思います。
私は、幼さの残る夢見がちの少女から、悲しい出来事を経験して、少し感傷的な少女へと成長する娘を、心が傷付かないか心配し、また、そんなに急いで大人に成長しなくてもと戸惑いを覚えながら見守る父の心情に共感し、そして胸に切ない痛みを覚えました。
でも、父のまなざしから「やるせない」はどうしても繋がらないのです。
「やるせない」は、登場人物の父の位置よりもさらに遠く、そう、この物語全体を俯瞰できる、読者の立場だから受け取れた気持ちだと思います。
繰り返すことになりますが、この物語は昭和40年から50年辺りの、私が子供であったころが描かれているように思います。その時代の味わいがあるのです。
昭和20年に戦争が敗戦という結果で終わりました。多くの人が戦地で亡くなり、また国内でも空襲や、ライフラインの欠乏から、多くの人が亡くなりました。それでも、10年が経ち、20年が経ち、直接には戦争を経験していない若い世代が、日本の戦後復興の担い手となっていました。
それは、日本の家族の形が変わっていく時代でもありました。
親子三代は当たり前、場合によれば四代の大家族が、同じ屋根の下で、代々の仕事を繋いでいた、それが戦前の日本の、多くの地方で見られた家族の形でありました。
しかし、戦後、復興の最中、多くの産業が集約された都市部に、全国から人が集められました。都市部の近郊は宅地がどんどんと拓かれて核家族用の新興住宅がどんどんと作られました。
でも、大家族では当たり前にあった、子が親を介護する、大親が孫の世話をする、という機会はどんどんと廃れていきました。
そういう時代背景の中で、子供にとって、それが親族であっても無くても、子供を慕い、愛情も持って接してくれて、楽しいお話しや、知らなかった事を話してくれる、そして作ってくれる、与えてくれる、おじいさんやおばあさんは、良き妖精、魔法使い、と思っても不思議ではありません。
そしてまた、おじいさんやおばあさんというのは、一番始めに別れることとなる、そして死という想像出来ない恐ろしい世界を身近に感じさせる存在でもあったように思います。
私は、この物語の最後の方で、看護婦である中年の修道女が語った一言
「そう。宮下さんは、もう大連へ帰ってしまったんですよ。昔の大連にね。」
が心に残りました。
小学六年生に成長したシホちゃんが、二年半ぶりに妖精のおばあちゃんに会いたいと思った時、それはもう叶わなくなっていました。
妖精のおばあちゃん、宮下さんは亡くなったわけではないけれど、特にこの一年でボケが進んで、もう看護する、介護する病院の人たちのことさえ分からなくなっていました。
看護婦の修道女は、シホちゃんが記憶している優しい、そしてシホちゃんをとても慕っていた宮下さんは、もういないことを話しました。そして、もしかしたら、宮下さんの心は、遠い昔の、遠い国の、大連に行ってしまったのかも知れないと話しました。
この下り、実際に高齢の母と暮らしていて、もしかしたらと感じることがあります。
ある日の朝、母は「お父さん、今日はしんどいから学校を休まして」と私の顔を見て言いました。その時、母の心は子供時代にいたように思いました。私は母方のお祖父さんを知りません。私が生まれたときには既に亡くなっていたからです。でも、もしかしたら、私にはお祖父さんの面影があるのか、と少し嬉しく思いました。
ある日の朝、母は寝言で、伸ちゃんの着替えをしないと、と話していました。伸ちゃんとは、母とそう年の離れていない姪っ子の長男である伸一君のことだとすぐに理解しました。母は兄弟姉妹の一番上の姉と二十近く歳が離れていました。そして、その姉の長女、姪っ子とはまるで仲の良い姉妹の様にして子供時代を過ごしていました。そして伸ちゃんと私は同い年です。この朝母は、母の里で、共に小さな布団で寝かしつけていた私と伸ちゃんをあやしていたのかもしれません。それで、このように話したんだと思います。
ある夜、母はひとりであるはずの部屋の中で、大きな声で話しを始めました。部屋を覗くと、私にではなく、別の方向を向いて、会話をしているようなのです。母に尋ねると、〇〇が来ているから、御茶でも出してあげてと言いました。
初めて、その現場を見た時は、少しぞっとしたことを覚えています。でも、いまでは、私がいない時間、私がいない時代、私がいない場所と母の心は繋がっていて、二つの世界をなんの違和感もなく自由に往き来しているのだろうと思い、楽しい気分になって見守っています。
歳を取って、どんどんと物忘れが烈しくなって、そういう風になって家族に迷惑を掛けてしまうこと、ひとりになってしまうこと、孤独になってしまうこと、そんな風になっていくことを私達は恐れています。
認知症になること、痴呆になること、恐れています。
でも、もしかしたら、私達の心は、その時、時間を超える能力が目覚めるのかも知れません。死の世界とは、過去、現在、未来を自由に往き来できる世界だとイギリスの作家J・B・プリーストリーは、著書「人間と時間」の中で語っています。
※マシスンの純愛ファンタジー後編 『奇蹟の輝き』(What Dreams May Come)記事参照
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2012/04/what-dreams-may-come.html
死が身近になったとき、人は死後の能力が与えらるのかも知れません。過去の時間に旅をしたり、もしかしたら未来の世界まで垣間見ているのかもしれません。もし、家族がそうなったとき、寄り添い、家族の心が見聞きしていることを心で感じる事ができれば、とても素晴らしいと思います。
2018年12月9日日曜日
内海隆一郎作『小さな手袋』を朗読しました。
調べてみると、中学二年の教科書に掲載されている短編小説だということが分かりました。
また、インターネット上に、全文が掲載されていましたので、そちらを元にテキストを起こして、朗読しました。
http://kuge.town-web.net/201313Nihongo/130218.htm
http://kuge.town-web.net/201313Nihongo/130225.htm
物語が描く時代は、ちょうど私の子供時代の様に思います。昭和40年から昭和50年あたりです。当時は、いまのようにどこにでも総合病院があるなんて時代ではなく、町に町医者があったらいいほうで、また重い病気に掛かれば町外れの療養所に収容される、という様な時代であった様に思います。
そんな時代に、想像の翼を広げて過ごしていた少女が、悲しい出来事によって、これも大人の階段というのでしょうね。幼い少女が、少しセンチメンタルな少女へと成長する姿が、その父のまなざしで描かれていました。
読み終えて、キュッと胸が熱くなる物語でした。