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2018年12月14日金曜日

あおり運転事件が抱かせる人間の危機

あおり運転の末に、被害者の運転する車を高速道路の追い越し車線上で停止させ、後続のトラックの追突により死亡させた被告人に対して、懲役18年が言い渡されました。
交通死亡事故の被告人に対する日本の現在の量刑としては非常に重いものですが、それでも被害者の無念、また被害者家族の無念を思うと、やるせない気持ちは晴れません。

今も忘れることのできない事件があります。
2012年4月23日に京都府亀岡市で起こった、未成年者の無免許、無謀運転、居眠り運転が引き起こした交通事故により、登校中の児童、引率の保護者、10名が死傷した事件です。この事件では被告人に対し、
・無免許運転や居眠り運転は危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
・無免許運転にも関わらず被告人の未成年者が無免許運転の常習者で、未熟な運転技能という危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
ことから、危険運転致死傷罪が適用されませんでした。当時、被害者の無念、被害者家族の無念を思い、とてもとてもやるせない気持ちになったことを覚えています。

今回の事件も、その時と同じ気持ちにさせられます。

まず、今回の事件で一番に思うのは、「あおり運転」という言葉の不適当さです。
「あおる」、国語辞書には
・他人を刺激して、激しい行動に駆り立てる。
・おだてたりして、相手がある行動をするように仕向ける。たきつける。扇動する。
と書かれています。
「腹が立ったから」、「生意気だから」、「面白いから」等々の内面から湧き出る感情の赴くままにターゲットとなる人を車を使って襲う行為は、まさに凶暴そのものです。襲った相手を事故の危険にさらし、死の恐怖にさらします。
たとえ何も事故が起こらなかったとしても、誰ひとり死傷者が出なかったとしても、襲った相手には恐怖体験が残ります。それが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こし、日常生活に支障を来すのみならず、将来の希望や夢が絶たれる可能性だってはらみます。

まして今回の事件では、人が死んでいるのです。殺されているのです。
そして今回の事件では、追い越し車線上に停止している車に追突し、二人を殺してしまったトラックの運転手も被害者だと思います。たとえ減刑されたとしても、一生、人を殺してしまった罪を背負い続けなくてはなりません。ということは、被告はもう一人の人生まで奪ってしまった。否、その家族の人生も奪ってしまったことになります。

これは交通死亡事故事件ではありません。これは暴力事件、殺人事件です。
その事を社会に問い、社会で合意形成し、暴力運転者や殺人(もしくは殺人を犯す可能性のある)運転者、ならびに同乗者は殺人同様の厳罰に処す法整備を行わなければならないと思います。
しかし、これは運転者が暴力運転や殺人運転に走らないための理性に訴える抑止力でしかありません。
真の問題は、私達人間が、内なる過敏、過剰、過激な感情を自制できなくなっていることです。そして罰則などの抑止力さえ効かなくなっていることです。
他者を感情の赴くままに攻撃してしまうのは、他者を生きた血の通う人間と認知できないためだと思います。また、他者への愛情が湧いてこない、抱けないためだと思います。

これは人間の危機だと思います。

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