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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2015年5月13日水曜日

次男の仕事始めに、野球の素晴らしさに出会いました。

国恩祭の間、一本松連中と会食していた時にこんな話題が登りました。
連中が勤めている、役所でも、また大手企業でも、入社したばかりの若い人が数年も経たない内に簡単に辞めてしまうと云う話です。早い者なら、入社して一週間も経たぬ間に出社拒否に陥って辞めてしまいます。
大方の退職理由は、「仕事の不満」と「人間関係の不満」です。相談を受ければ納得できる理由もあるでしょうが、多くの場合は「我慢の無さ」と「身勝手さ」が真因である様に思います。

雇用する側にとって、時間と費用を掛けて採用した金の卵の若者を、さあこれから戦力として育てていこうとする矢先に辞められてしまうという事は、採用するのに掛かった時間や費用ばかりか、これからの事業計画まで台無しになってしまうと云うことです。

そして、だからスポーツ経験者、特に野球などの団体スポーツの経験者を優先して採用する傾向にあるという話が出ました。
スポーツ経験者は、体力があり、辛抱強い。また上手くなろうという向上心と上下関係の分別を備えているなど、OJT(オンザジョブトレーニング)を無事に乗り切り、独り立ちしてくれる期待が高いのだと思います。
それに加えて、団体スポーツの経験者は、自分の置かれている立場や役割を理解して、チームの一員としてチームの為に働いてくれるという期待があるのだと思います。

次男が仕事に就いて一ヶ月が経ちました。家族の前では、御多分に洩れず「しんどい」とかブツブツと不満を漏らしもしますが、それでも毎日仕事に出かけています。
そんな次男が、会社でこんな事があったと嬉しそうに話してくれました。
会社の上の人が、次男を知っていると話しかけてきたと云うのです。
その上司の方は、次男が小学生時代の少年野球大会で対戦したチームの監督をされていたそうで、一生懸命に野球をしていた次男の姿を覚えていると話をされたそうです。
次男は、6年生で主将となった少年野球チームがなかなか勝てなずに、いつもプレッシャーを感じていました。それが最後の大会で、チームは一丸となり次男もプレッシャーを感じさせない活躍を初めて見せてくれました。三試合を一人で投げ抜き自責点0、優勝には届きませんでしたが、次男にとっても家族にとっても晴れ晴れしい思い出となったあの試合が、なんと偶然にも、次男の上司の方にとっても懐かしい思い出となっていたというのです。
次男にとって、なんとも照れくさくもあり、また誇らしくもある出会いであったと思います。次男には、こんな貴重な出会いを大切にし、人の温かいまなざしや期待に応えられるように、仕事に精進して欲しいと思います。

そして、あらためて、野球って、野球繋がりって素晴らしいなぁと思います。

2015年5月11日月曜日

野球を撮る!

スポーツをするのにもまた観戦するのにも、とても良い季節がやって来ました。
私はもっぱら観戦です。長らく学生野球の追っ掛けです。
頼まれもしないのに、一試合丸丸写真に撮って、その写真をもとにスコア(写真による試合経過)を起こします。そしてブログで公開する。
私は自分が感動した体験を、咀嚼して一つの物語に仕立て上げ、それを多くの人に読んでもらう、見てもらうことに喜びがあるのだと思います。

私の写真を撮る腕前は、決して上手ではありません。これまで何度も失敗してきました。
思い出す一番古い大失敗は、20歳半ばの出来事です。夏に地元の友だち四人で出雲に海水浴に出かけました。当時はフィルムカメラです。車で出発する直前に36枚撮りフィルムをカメラに装填しました。
夜中に出発し、播但道から中国道に入り、落合インターから一般道に入って、湯原、蒜山、そして大山を巡りながら、朝方米子に到着です。それから松江市内と出雲大社をプチ観光してから出雲近郊の海水浴場に到着しました。砂浜にテントを張って、海水浴、バーベキュー、そして話の尽きない夜を過ごし・・・そして朝を迎えます。
帰り支度を整えて、最後の記念撮影をとカメラを構えシャッターを押しました。でも、フィルムの巻き戻しが始まりません。36枚を超えてもまだ写真が撮れるのです。
「超ラッキー!」と思って、それからも何枚もシャッターを切りました。気付くと目盛りは40枚を超えました。さすがにド阿呆な私でも気付きました。カメラの裏を開きますと、フィルムの先頭が巻き棒に掛かっておらず、空回りしていたのです。写真は一枚も撮れていませんでした。旅の道すがらに皆でポーズを取った記念の写真はすべて幻となりました。
これほどの大失敗は、後にも先にも1回だけですが(1回で十分です!)、撮影時のミスは今も続きます。

よくある失敗の一つは、ホワイトバランスの設定ミスです。
デジタルカメラには、様々な光源の下でも白を白く写す機能(ホワイトバランス)があります。でも光源の設定を間違うと悲惨な写真になってしまいます。前回に室内で写真を撮影し、後日に太陽光の下で野球の試合を撮影したことがありました。ホワイトバランスを白色蛍光灯のままにしていたために、野球の写真はすべて青みがかった暗い写真となりました。

もう一つは、絞り値の設定ミスです。
絞り値(F値)は小さくすると、シャッターの絞りが開きレンズを通過する光量が多くなって画像が明るく見えます。と同時に被写界深度が浅くなってピントが合って見える範囲が狭くなります。
反対に、絞り値を大きくすると、シャッターの絞りが狭くなって光量が少なくなり画像は暗く見え、同時に被写界深度は深くなりピントが合って見える範囲が広くなります。
野球の試合を一日中撮影していると、夕方近くになると太陽光は弱くなり絞り値を小さくして撮影することが多くなります。そして、試合の後で集合写真を撮るような場合、絞り値をそのままにしてズームを広角にして撮影してしまい、集合写真がピンぼけ写真となることが何度かありました。

失敗は、常に気持ちに余裕が無い時にしでかします。たとえば試合開始ぎりぎりに到着して慌てて撮影をした時や、また撮影する時間が限られていてバタバタと撮影をした時にしでかします。
その他には、知人と会話しながら写真を撮ろうなどと器用ぶった時などです。そう言う時は、試合の流れを頭に刻むことも出来ず、途中で諦めて撮影を断念します。

悪いことばかり書いてしまいました。最後に、上手く撮影できた時の事を書いて締めたいと思います。

試合写真を撮影する時は、できれば試合前の守備練習までには球場に入ります。試合が二試合目ならば一試合目に球場入りし(スタンドに陣取って)、余裕を持ってカメラを構える場所を吟味し、そしてカメラの撮影機能をしっかり確認して、当日の撮影状況にあった撮影設定を行います。
そして試合が始まる直前には、出場選手の背番号と打順と守備位置を確認します。
試合が始まれば、まず投手の投球フォームを撮影します。そして打者にカメラを向けて、シャッターを切るタイミングを計り、撮影を開始します。

ここからは野球の知識と観戦経験をフル活用します。
投手が投げて打者が打つ。打てば、野手の動きを見て打球の方向にカメラを振ります。
無死走者無しの内野ゴロなら打球の捕球場面を撮影してから、一塁ベースにカメラを向けて打者走者のアウトセーフ場面を撮影します。
外野に飛んだ打球は、野手陣の動きで打球の方向を確認し、カメラで追います。外野手が打球を押さえたところを撮影し、それから先頭の走者に向けてカメラを振ります。走者無しで長打なら二塁ベースに向けてカメラを向け、走者がいたら本塁にカメラを向けるという具合です。そしてクロスプレーや得点場面を撮影します。

試合中は、常にストライク、ボール、アウトカウントを確認し、そして走者が出たら、走者と守備側の守備体系を確認します。ですから一時だって目を離すことが出来ません。
私の一番の自慢は、集中力と持続力かもしれません。見たいものを全て見る、カメラで撮影できるものは全て撮影し、脳裏に刻められるものは全て刻む。太陽の位置、風の向き、雲の流れ、グラウンドの白線と土と芝の変化、そして選手や応援の表情の変化等々等々。光、色、音、音楽、香り、匂い、皮膚感触等々等々、試合終了が告げられるまでカメラに脳裏に刻み続けるのです。
そして、得難い感動という贈り物を頂いて球場を後にします。

2015年5月10日日曜日

戦争についての話をしよう! その二 「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのでしょう?」

集団的自衛権行使の議論が盛んです。反対論者は、集団的自衛権の行使によって日本は再び戦争ができる国になってしまうとの危惧を表明しています。

日本人のほとんどは、戦争など決してしたくないと思っています。しかし
外国の格言「平和を欲さば、戦への備えをせよ」にあるように、人類の歴史において平和と戦争はいつも表裏一体であった様にも思います。
戦後70年間、日本も陸空海の防備の為に兵器や守備隊のスペシャリスト(自衛隊)を常に鍛えてきました。米国と安全保障条約を結び、冷戦期から世界の警察を自認する米国の兵站を支え、その見返りに米軍の傘に守られても来ました。
でもそれだけが日本が戦後70年間も、まがいなりにも平和を堅持できた理由ではないと思います。

昨今の議論は、これからの日本の安全保障の在り方を問う議論で大変に重要な事と思いますが、でも一方で、これまでと同様、過去の検証をせぬままに、礎を築かぬうちに各位が各々の主張に明け暮れているように思います。それでは空論にしかなりません。

さらにいえば「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのか?」、世界史の中でも有数の平和期の長さを維持できた理由を検証する事は、国際貢献の一助になると思います。世界の人々にとっても「平和」を考える一助になると思います。

日本が、戦争放棄をまがいなりに続けてこれたのは、戦後発令された日本国憲法の定めであると同時に、日本国民が先の戦争で被った苛烈さ、悲惨さを二度と繰り返したくないという思いを強く持っていたからだと思います。
そして日本人は、島国特有の閉鎖した考え方を持つ民族でありながら、他民族に類を見ないほどに、宗教や民族の異なりに寛容な一面を持っています。それは、四季に恵まれると同時に、一年中自然災害と隣り合わせで、尚且つ大陸の様に資源が豊富であったり稔りが続くことがなく、生活を良くするために、何者からでも知識や技術、考え方を学ぼうとする意欲があったからだと思います。教えを請うからには相手は先生です。ですから決して不遜な態度を取らないのです。

そして、「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのか?」の理由は、それこそ千差万別にあると思います。この、理由が千差万別にあったことがまた、平和を堅持できた理由とも思えます。八方美人、余り喩えは宜しくないかもしれませんが、日本人は米国のみに偏重するのではなく、日本人それぞれが自分自身の大義を持って、ロシアと、中国と、韓国と、友好を築こうと働いてきました。また、その他のアジア諸国や、遠く中東やアフリカ、南米にも出向き、その国の人々と協力して、新たな産業振興や資源開発に励んできました。すべてが尊敬できる行動ではなかったかもしれませんが、でも決して武力で他国民を支配しようとはしなかった。それが、この70年間で日本に対する新たな敵意を生まなかった理由だと思います。

ただこれからの安全保障を考える上で、「日本だけの平和」などもうありません。これからはもっともっと友好国と連携して、様々な分野で協力し合って、友好国全体の発展と安全を保障し合わなければなりません。それには武力も必要となるでしょう。
ですから、これから大切なのは「使い方」です。
本当に差し迫った時に、すぐに武力が必要なのか、やはり日本独自で見極めなければなりません。
これまでの紛争を見ると、表の大義は、テロ国家の撲滅であったとしても、裏には資源争奪が隠れていたこともありました。誤った紛争への介入は、意図しない怨みを買うことに繋がる事を、決して忘れてはなりません。
武力行使は、人命に関わる事案のみに限定する、など一定の制限が必要と思います。
そして武力を後ろ盾にして、和平交渉に尽力する、それこそが日本が目指す道でなければいけないと思います。

戦争についての話をしよう! その一 「戦争のやり方が、どうやら変わり始めた様子です。」

兵士は国内の基地から兵器型ドローン(遠隔操作の無人爆撃機やミサイル)を操作して、GPSやムービーカメラで捕捉できるターゲットを破壊、もしくは殺害しに行くのです。オペレーターは、アーケードゲーム場にあるゲーム機のコックピットと変わらぬブースに入って、モニターを見ながらジョイスティックを操作して、作戦を遂行するのです。

私は、戦争がどんどんとバーチャル化すれば、兵士は命がけで戦っているという緊迫感や、そして人を殺すという嫌悪感や罪悪感を持たなくなるのでは?という恐れを抱いていました。でも兵器型ドローンのオペレーターとなった兵士を待ち受けていたのは、もっと悲劇的な現実でした。

あるオペレーターは、朝自宅を出て、子どもを学校に送ってから職場(基地)に出勤します。そして本日の作戦指示を受け、無人爆撃機のコックピットに座ります。
本日の作戦は、地球の裏側にいるターゲットとなった人物の殺害です。オペレーターは、無人爆撃機にターゲットの捕捉をプログラミングし、基地からドローンを離陸させます。目的地まではオートパイロットです。オペレーターは数時間のフライトをモニターで監視します。やがてターゲットがモニターに映し出されます。爆撃の開始です。追跡装置付きのミサイルを発射します。ミサイルからの映像がモニターに映ります。ターゲットがぐんぐんと近づいて、そしてタッチダウン、ターゲットが木っ端微塵になる瞬間がモニターに映し出されます。作戦成功です。そして、無人爆撃機を基地まで帰還させ、本日の作戦は終了です。オペレーターは職場(基地)を退出し、子どもを学校に迎えに行って、そして自宅に帰ります。

戦場体験をした兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が、まだまだ控えめですが社会の問題として取り上げられてきました。人道復興支援活動でイラクに派遣された日本の自衛隊員も、帰還後にPTSDを発症し、日常生活に戻ることが出来ずに自殺をされた方が少なからずおられると云います。米国では元兵士の自殺者が日に20名もいるという報告もありました。このことからも、戦場は人間の精神や肉体を蝕んでしまう苛烈な場所だということが分かります。
しかし、兵器型ドローンのオペレーターは、日常生活の中に戦場があるのです。毎日、日常の中の人を殺す戦場と平和な家庭を行き来するのです。それが新たなPTSDを引き起こしているというのです。当たり前です、人間は殺人マシーンではないからです。作戦の中で子どもを巻き沿いにすることもあるでしょう。その後で、我が子に平静に接することなど出来るはずがありません。

戦争は、どんなにやり方が変わろうと、人間の精神や肉体をボロボロにすることを、私たちは肝に銘じ続けなければいけないと思います。

2015年5月7日木曜日

ちなみに前回の奇蹟のカレンダーは?

ちなみに前回の奇蹟のカレンダーとなった年は1192年、
その昔「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」と覚えた年ですね。
姉がスラスラと歌う様に話してくれました。

823年ぶりのカレンダー

姉から良い事を聞きました。
今年の5月は金曜日から始まって、金曜日、土曜日、日曜日が月の内5回巡ってきます。この様なカレンダーとなるのは823年ぶりだというのです。

これを風水では『財布』と云って、とても縁起の良い月、金運が上がる月だというのです。
そして、十人にこの事を伝えると運気が増すのだとも言いました。
そして私は、運良く姉の運気を上げる一人となりました。

それではと、ブログで書くことにしました。
十人にとどまらず、百人、千人、万人がこの記事を読んでくれたなら
私の運気は天井知らず・・・
そんな欲深いことを考えながら、この記事を書いています。

スティーブン・スピルバーグ監督作品「太陽の帝国」を観ました。

1987年のスティーブン・スピルバーグ監督作品「太陽の帝国」(原題:Empire of the Sun)を観ました。

太平洋戦争前夜に上海租界で暮らす裕福な英国人家庭の一人子ジェイミーが主人公の、たとえで云うなら「千と千尋の物語」のような物語でした。

あらすじです

上海で王族の王子の様にしてわがまま三昧に暮らしていたジェイミーですが、日本軍が上海に侵攻した日を境に生活が一変します。
両親と上海を脱出するために港に向かう最中、ジェイミーは群衆の波に呑み込まれて両親とはぐれてしまいます。なんとか郊外にある自宅にたどり着くと、玄関に「日本軍が接収」という張り紙が張られていました。家の中に入ると、家族の姿は無く、台所や寝室が荒らされて、食料や衣服、そして部屋に備え付けられていた家具までが無くなっていました。物音がして廊下に出てみると、中国人のメイドが家具を持ち出そうとしているところでした。声を掛けるとメイドは近づきジェイミーの頬を激しく叩き、そして家具を持って出ていきました。
ジェイミーは、もうここには自分の云うことに従う者、守ってくれる者は誰一人いない事を悟ります。

食べ物が尽き、ジェイミーは日本軍に占領された上海の市街地に出かけます。
上海の外国人は皆、日本軍に拘束されてひとところに集められていました。ジェイミーは仲間のところに連れて行って貰おうと、日本人の兵隊の前に進み出て「降伏する」と話しかけますが、兵隊は分からない外国語を話す少年を相手にしません。
そこに、同じ外国人の浮浪児の少年が現れてます。ジェイミーは危険を感じ少年から逃げるのですが、スラム街を彷徨ううちに捕まり、危うく身ぐるみを剥がされそうになります。
そこにアメリカ人のフランクが現れて少年を追っ払い、ジェイミーを隠れ家に連れて行きました。隠れ家にはフランクのボス、ベイシーがいました。ベイシーとフランクは上海のスラム街に潜むアメリカ人のごろつきでした。ベイシーは、ジェイミーが金にならないと分かるとジェイミーを売り飛ばそうとします。それを察したジェイミーは、郊外のイギリス人居住区にはごまんと宝があり、僕はその一軒一軒の宝のありかをしっていると話します。
ベイシーはその話に乗って、ジェイミーを連れ英国人居住区に出かけます。ジェイミーの邸宅に灯りが灯っているのが見えました。ジェイミーは灯りが灯る部屋に駆け寄り、大声で「ママ!」と叫びます。中から出てきたのは、日本軍の将校でした。三人は、その場で日本軍の兵隊に捕まり上海の外国人収容所に入れられてしまいました。

それからしばらくして蘇州の外国人収容所に移送されることになりました。
上海から蘇州までの距離は百キロ少しあります。そこまでほとんど飲料水も食料もない状態で歩いて向かうのです。道沿いには水はあります、ですがその水をそのまま飲めば間違いなくコレラを発症してしまいます。そして移送途中、病人や老人、女性や子どもが大勢亡くなりました。ベイシーは、亡くなった人に近づいては衣服や靴、使える物や金目の物をはぎ取っていきました。そしてベイシーはジェイミーに向かって真顔になって「これが生き残る知恵だ」と話し、ジェイミーに新しい名前ジムを与えて仲間に入れます。

蘇州での外国人収容所の生活が始まりました。
収容所は、日本軍の戦闘機部隊の基地に併設されていました。ジムは戦闘機乗りが羽織る革ジャンを羽織って、ベイシーの手先となって働きました。ジムの仕事は、日本軍将校の部屋から盗みをしたり、収容所の中で物々交換をしたりして、ベイシーから頼まれた品物を調達することでした。そしてジムはどんどんと得意満面となって、アメリカ人のごろつきを真似てタバコを吹かし、ごろつきが巣くう男性専用の小屋に出入りする様になりました。

そんなジムにも子どもらしい夢がありました。ジェイミーの頃、戦闘機乗りになるのが夢でした。そして太平洋戦争の始めまで世界で一番優れた戦闘機であった日本の零型戦闘機が大好きでした。その零型戦闘機が、収容所を覆う鉄条網のすぐ向こうに見えるのです。戦闘機乗りは、皆若く、そしてとても礼儀が正しくて、ジムが敬礼すれば、戦闘機乗りも敬礼を返してくれます。とくにジムは戦闘機乗りの中でも一番若い、まだ少年の戦闘機乗りに好感を抱きました。

ジムの住み処は、英国人が家族で入る小屋の、ある中年夫婦のベットの隣にありました。小さなスペースで、そこに小さなベットがあり、お気に入りの写真や雑誌、そして大切な零型戦闘機のオモチャが置いてありました。
小屋には間仕切りがあるわけで無く、プライバシーを守る事など一切できません。ある夜、ジムが小さなベットで寝転んでいると、夫婦が夜の営みを始めます。夫婦のベットとの間にはボロ布一枚しかありません。その布の破れからちらちらと見える光景にジムは釘付けとなりました。その時です、閃光が闇夜を切り裂きました。上海辺りで連合軍の空襲が始まったのです。その光は夫婦のベットまで届き、男がジムを睨み付けているのがはっきりと見えました。
翌日、ベイシーのところに行くと、ベイシーは水鳥を生け捕る仕掛けを作っていました。そして、この仕掛けで収容所を覆う鉄条網の外の湿地にいる水鳥を生け捕るのだと云います。でも、もしお前が代わりに水鳥を生け捕りにしてきたら俺の右腕としてここに住まわせてやるとも云いました。
ジムはこの提案を受けて、日本軍の兵隊の緩い監視の目を潜り、水鳥を生け捕りするために鉄条網の外に出ました。しかし運悪く、規律の緩みを叱りに来た将校に脱出の痕跡を見つけられます。将校は銃剣を構えて湿地に入り、脱出兵を追います。脱出兵は見つけられたその場で射殺されるのです。
そして将校がジムの目と鼻の先まで近づいた時、あの戦闘機乗りの少年が将校を呼び止てました。ジムは間一髪で命拾いしたのです。戦闘機乗りの少年は、機転を利かしてジムを救ったのでした。
そしてジムは、ジェイミーの片腕としてごろつきが巣くう小屋に住むことになりました。

1945年に入ると、いよいよ日本の敗色が色濃くなってきました。
収容所の隣にある滑走路にはもう数機の零型戦闘機しかありません。そして今日、また3名の戦闘機乗りが上官と水杯を酌み交わし、大空の向こう死出の旅路に向かいます。
厳かな儀礼を見つめていたジムは、思わず賛美歌を歌い出します。ジムはまだジェイミーであった頃、教会の合唱団に入って賛美歌を歌っていたのです。ジムの歌声は、まるで天使の様に清らかで、その歌声は滑走路の戦闘機乗りへ、また収容所内の日本軍将校へ、そして収容されている多くの外国人へ届きます。

そして零型戦闘機は飛び立ちました。ジムが戦闘機の行方を見守っていると、突然火を出して爆発しました。見上げるとアメリカ軍の最新鋭戦闘機P51の来襲です。P51は古ぼけた零型戦闘機をたたき落とし、日本軍の建物に次々と爆弾を落とします。
収容所の外国人は皆、空襲の巻き添えを喰らわぬ様にと、そこいら中で右往左往逃げ惑います。ですがジムは、P51の雄姿を間近で観ようと廃墟となったビルの屋上に駆け上がります。無謀な行動に出たジムを連れ戻そうと、収容所で医者をしている一人のイギリス人男性が危険を顧みず後を追います。男性に抱きすくめられて、ジムは初めて父親というものの逞しさを思い出します。

P51の空襲が止み、ごろつきの巣くう小屋に戻ると、ベイシーがいませんでした。ベイシーは空襲の混乱に乗じて、ジムを残し収容所を脱走してしまったのです。ジムはまた一人になりました。
ジムは、もと居た英国人の家族棟に戻りました。隣の中年女性が、ジムのベットを整えて、そしてジムを優しく抱きかかえてくれました。ジムは初めて母親というものの慈しみを思い出します。

翌朝、日本軍はこの蘇州の基地を捨て移動する事になりました。収容所に囚われの外国人達は、また過酷な移動を強いられます。
そしてジムは、収容所から出て行く最中、あの戦闘機乗りの少年がたった1人で大空の死出の旅地に向かうところを目撃します。でも零型戦闘機は、故障して飛び立つことが出来ません。少年兵は操縦席で泣き崩れていました。
その夜、ジムは隣の中年女性と示し合わせて死んだふりをして、隊列から抜け出しました。
翌朝起きると、女性は死んでいました。ジムが呆然としていると、東の海の向こうで閃光が走ります。ジムは女性の魂が空に登っていくのだと思いました。

ジムは、飲まず食わずの状態で蘇州の収容所があった廃墟に舞い戻ってきました。
そこには、あの少年兵がたった一人残っていました。少年兵は、持っていた果物をジムに授けました。ジムが果物の皮を剥くのに難儀していると、少年兵は持っていた剣で果物を裂いてくれました。
その時です。薄汚れた車に乗った一団が現れました。ベイシーの一味でした。ベイシーの手下の一人が、剣を持った日本兵を拳銃で撃ち殺しました。
少年兵の血潮がジムに降りかかります。少年兵は絶命しました。ジムは、狂った様に少年兵を殺した男に殴りかかりました。ベイシーの取りなしで、その場は収まりましたが、その後すぐ、ベイシーの一味はジムを残し去って行きました。ジムはまた一人になりました。

幾日経ったでしょうか、しばらくして、空から大きな荷物が何個も何個もパラシュートで降って来ました。中には、食料や医薬品などが一杯入っています。それはまるで、創世記の中で神が荒野にパンを降らせた様な光景でした。ジムは天国に来た様な面持ちになりました。それに続いて、アメリカ兵がやって来ました。ジムは「降伏」を願い出ました。

修道院には、戦争で親と離ればなれになった沢山の子供たちが集められていました。ジムもその中にいました。
ある日、美しく着飾ったご婦人達や皺一つ無い背広を着込んだ紳士達が修道院を訪れます。自分たちの子どもを探しに来たのです。そして面会し、次々に親子の対面が果たされます。
ジェイミーの両親も来ていました。でもあんなに無邪気であったジェイミーはここにいませんでした。またジムも両親の事を、まるで覚えていませんでした。すれ違いになろうしたその時です、母親がジムを見つけます。母親にとって、ジムはまるで知らない子の様にも見えましたが、ジェイミーの面影を見て取りました。母親はジムに近づきます。ジムは、その女性の髪にそして頬に手を当てます。ジェイミーであった頃の記憶がボンヤリと浮かんできます。母親はジムをゆっくると抱きすくめます。でもジムの目には戸惑いしかありませんでした。もう無邪気な少年ジェイミーはどこにもいませんでした。

end


少年は、両親と別れ別れになって別世界に迷い込み、そこで別の名前が与えられ、別の人間となって生きていく事を強いられます。なんとなく「千と千尋の神隠し」を連想してしまいました。でも「千と千尋の神隠し」は、わがままな女の子が神々の湯屋に迷い込み、そこで苦労もしたけれど仲間に一杯愛された。それで女の子は、優しくしっかりとした女の子に成長しました。
しかしジェイミーの場合はどうでしょうか?
ジェイミーはもし戦争が起こらなければ、何の疑念も持たずに父親の遺産をすべて引き継いで、表向き華麗な上流階級の紳士となって、外国人を顎で使い、社交という欺瞞と策謀の世界で生きていく事になったでしょう。しかし、ジェイミーは彼が住んでいた世界とはまるで異なる別世界を彷徨うことになりました。ジェイミーは生き抜くために、名前を変え別人となって、強い者にへつらい、盗みをし、嘘をつくことを学びます。そして彼がジェイミーとして生きていた世界が、実は欺瞞と策謀の世界であったことを身をもって知りました。しかし、そんなジェイミーを一時無邪気な子どもに戻してくれる者がいました。
日本人の少年兵でした。少年兵は、ただ飛ぶことに憧れてそこにいました。ジェイミーには彼がとても眩しく見えていたことでしょう。そんな少年兵にも死出の旅地が命じられ、でもしかし彼は翼が折られ飛ぶことも叶わなかった、そんな悲しい出来事もジェイミーは目撃します。それはジェイミーにとって子ども時代を繋ぐ糸が途切れた瞬間であった様に思います。それはジェイミーがすっかりジムに変身を遂げた瞬間であった様に思います。

"grow up"、英語に「大人になる」という言葉がありますが、スピルバーグはこの映画で、一人の少年が急いで大人になる姿、少年の”growing up”を描いたのだと思います。
スピルバーグはこの映画で、『戦争』が、少年を戦地へと駆り立て、また欺瞞と策謀の大人へと成長させる姿を、淡々としたタッチで描いていた様に思います。そしてまた、たとえ戦争がなくても、大人になるということの一つの意味を皮肉を込めて描いていた様に思います。

タイトルの「太陽の帝国」について、
ジムは、中年の女性の死を知った朝、東の海で輝く閃光を目撃します。それは長崎で炸裂した原子爆弾の光でありました。日本軍は、その東の海から進軍してきました。
その時、ジムにとって日本はまさに「太陽の帝国」と映ったことと思います。
それがタイトルとなったのではと思いました。
とてもシニカルなタイトルだと思います。