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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2014年12月16日火曜日

NHKわが心の大阪メロディー、観ました。

今晩放送のあった「NHKわが心の大阪メロディー」を観ました。
始まりは法善寺横町から石川さゆりさんが歌う「夫婦善哉」でしたね。
30年ほど前に、横町の一角にあるお寿司屋さんに、同期の宴会場所を探す傍ら立ち寄りました。五人ほどで特上寿司を一つ頼み、ジャンケンして勝ったモンから食べる遊びをしましたが、私ジャンケンで一番最初に負けたのに、さっと手を出しアワビの握りを一飲みしました。ズルをしたのです。でもその晩からお腹を下し、一週間酷い下痢に苦しみました。同席していた友だちからは罰が当たったと笑われたこと思い出します。

「宗右衛門町ブルース」のタイトルを聞いて、宗右衛門町の裏通りにあるシックなラウンジに、初めて先輩に連れていってもらった事を思い出します。それまで大衆酒場や若者の集う酒場しか知らず、初めて大人大人というシックな世界に踏み踏み込みました。でもあの感覚は、やっぱり馴染めませんでした。

そして「大阪で生まれた女」、この歌を生んだBOROさんの歌声で久し振りに聴きました。私、BOROさんの生歌を聴いたことがあります。35年前、金沢の繁華街小立野通りのアーケードに下で、路上ライブをされていたBOROさんに偶然出会したのです。
それからは金沢時代、大阪時代を通じて、スナックに行けば必ずこの歌を歌いました。
「大阪で生まれた女」、今でもこの歌を聴くと胸が熱くなります。

そして最後はドラマ「マッサン」で大ブレークの、エリーことシャーロット・ケイト・フォックスさんが歌うスコットランド民謡"Auld Lang Syne"、日本では「蛍の光」として有名な歌ですね。シャーロットさんの歌声が聴きたくて、実はこの放送を観ていました。劇中でも歌われていましたね。私はニュージーランドの歌姫ヘイリーさんの天使の歌声が大好きですが、初めてシャーロットさんの歌声を聴いた時、同じ感動を覚えました。この人は歌唱も素晴らしい、って感動しました。
でも実は、劇中で歌われていたもう一つの歌"The Water Is Wide"(悲しみの水辺)を期待していました。いつかしっかり、シャーロットさんの歌声で"The Water Is Wide"を聴ける機会を楽しみにしたいと思います。

【The Water is Wide - Hayley Westenra】

【The Water Is Wide(Traditional)with lyrics-Karla Bonoff】


hirobich5922さんという方がYoutubeに歌声をアップされていました。

それからそれから・・・
手前味噌ですが、三年前にアップした絵本朗読「わすれられないおくりもの」でオープニングのBGMとして使わせて頂いたのが、これまた大好きなギター奏者John Christopher Williamsの楽曲"The Water Is Wide (O Waly, Waly)"です。
絵本「わすれられないおくりもの」を初めて手にとって読んだ時、ケルトの世界が広がりました。そしてこの楽曲が、物語に一番しっくりと合う事に気付いたのです。

選挙、行きましたか?

日曜日の選挙、行きましたか?
私は夕方遅くに、家族みんなで行きました。

夜の選挙特番で、あるゲストコメンテーターが「今選挙は、逆桶狭間の戦い」と表現していましたが、言い得て妙、と頷きました。
桶狭間の戦いは、まだ小国の国主であった織田信長が攻め入る今川義元の大軍に対して少数精鋭で本陣に奇襲をかけ、見事義元の首を討ち取って勝利した戦いです。そして織田信長の天下取りへの道が開けました。
かたや今選挙は、前回選挙の敗北から一向に立ち直る気配のない野党を尻目に、安倍晋三総理大臣率いる内閣と与党自民党は、先の内閣改造後に噴出した新大臣の不祥事の責任問題を一掃し、尚且つ閣議決定した重要法案を今後次々に断行するための弾みをつける選挙です。織田信長は、もちろん安倍晋三総理大臣です。そして今回の今川義元は、有象無象の野党というよりも、選挙で選択肢を奪われた国民ではないかと感じます。そしてとにもかくにも安倍晋三総理大臣は、大勝利を収めました。

1996年に小選挙区制が導入されて、日本はドラスティックな政権交代が可能な国になりました。しかしそれには切磋琢磨する二大政党が必要です。そして約10年をかけて自民党に対応しうる政党となった民主党が、2009年自民党の大失態があって小選挙区による地滑り的な大勝により政権を奪取しました。
しかし、民主党政権の栄華は長く続きません。インテリ風なリベラリストが、数値目標を全面に押し出したマニフェストを作成するも、行政は笛吹けども踊らずで、絵に描いた餅で何ひとつ実現できず、しかもそれは外交にもおよび、同盟国アメリカはもとより近隣の中国や韓国との関係にも大きな亀裂を生みました。また民主党政権は、2011年に起こった東日本大震災においても、また原子力発電所の重大事故においても、その復旧復興の主体的なリーダーシップを発揮できぬ事を露呈しました。
そして、2012年の総選挙で民主党は地滑り的な大敗を喫し、有象無象の野党へと沈んでいきました。
そして今選挙は、強引な指導力を発揮する与党と有象無象の野党との対決です。選挙結果は、火を見るより明らかで、それが史上最低の投票率(52.66%)を招く結果となりました。

新聞やテレビで発言するジャーナリストは、たとえ選挙する選択肢に限りがあっても、マシな方に一票を投じることが大事、投票することが大事と訴えていました。しかし、選択肢がない状態で選べというのは、まるで強制的に支持を表明せよと言っているのと同じです。また安易に、候補者や政党を、まるで鉛筆を転がすように運に任せて選んでも良いのでしょうか。それで投票率が上がったとしても全く正しくないし、もしも投票率が80%や90%になったとしたら一大事です。恐ろしい事態の始まりです。

既存候補者に対し、また既存政党に対し、”NO!”を突きつける選択肢を設けることが必要です。それが民意を十分に汲み取る選挙の仕組みになると思います。

2014年12月7日日曜日

松陽高校野球部3年生部員お別れ会の写真を頂きました。

現松陽高校野球部父母会副会長の井鳥さんから、
先月24日鹿島殿で開いて頂いた、松陽高校野球部3年生部員お別れ会の写真を頂きました。

3年生部員お別れ会写真フォルダを開きます


3年生部員と父母は、中央の晴れがましいテーブル席に座らせて頂いて、この一年間の思い出を、久し振りに振り返えさせて頂きました。
会の始まりから、同じテーブルに着かれた先生と思い出話に花を咲かせ、また新チームへの思いなども聞かせて頂きました。

会の最後に、写真と音楽で綴った思い出ビデオを観賞しました。
タイトルは「野球が好きだから」
来春卒業を迎える3年生も、新チームの要である2年生、そして次代を受け継ぐ1年生も
いつまでも、素直に「野球が好きだから」と言える人で有り続けて欲しいと思います。

2014年12月2日火曜日

小夏日和

日曜日(11月30日)、小春日和というよりも小夏日和がふさわしい日和に誘われて、新舞子を訪れました。
鳶が気持ちよく気流を漂っていました。
しらさぎは水辺を散歩していました。
晩秋と思えない、汗滲む陽気の中、しばし浜辺を散歩しました。
とても気持ち良かったです。

ノルンから一足早いクリスマスカード 届きました


2014年11月29日土曜日

高倉健さん主演映画「ほたる」を観ました。

今月10日に亡くなられた高倉健さんの追悼番組の中で、主演映画「ほたる」(2001年日本映画)を観ました。

私は過去(若い頃です)映画館で観た健さん主演の映画は、「夜叉」と「ブラックレイン」だけです。その後もテレビで放映された主演映画はほとんど観ず終いで、健さんといえば、寡黙で義理堅い日本男児という印象のみ、それ以下でもそれ以上でもありませんでした。

でも、「ほたる」を観終わって、作品が公開された時代に、もっと早く健さん(というか降旗監督作品を)観ていたら良かったなぁ、という残念な気持ちを覚えました。
健さんは、劇中まったくの自然体にしか見えず、この「ほたる」では、気さくで面倒見の良い老境の漁師であり、長年連れ添った妻への感謝を忘れない優しい夫でありました。

「ほたる」は、今年の初めに大ヒットした映画「永遠の0」を彷彿させる(制作年度から見ればそれは逆になりますが)物語でありましたが、視点が大きく違いました。
「永遠の0」が、現代の若者が、第二次世界大戦末期に日本軍が行った特攻について再考すると同時に、その時代に生きた実の祖父宮部久蔵の生き様(あるいは死に様)と、義理のおじいちゃん大石賢一郎と祖母松乃を加えた三人の深い愛情と献身を辿る物語でありました。

「ほたる」は、昭和を生き抜いて、平成まで生き抜いた元特攻兵士の物語です。
物語は、現代と特攻として出撃する前夜が交差しながら進みます。
そして「永遠の0」が、如何に日本軍が自軍の兵士を粗末に扱ったかという事実に光を当てたのと同様に、「ほたる」では、当時併合していた朝鮮半島の人々までも日本の兵士として特攻に向かわせたという史実に光が当てられていました。

---あらすじです---

主人公山岡秀治には妻知子がいました。二人で桜島を望む小さな港町で漁業をしながら過ごしていました。年老いた二人には子どもがいませんでしたから、一緒に漁業をもりたてる若者たちを本当の子どものように遇していました。
二人はとても強い絆で結ばれていました。二人が出会ったのは、二人にとって大切な人が特攻作戦の為に知覧航空基地を飛び立った、その日の午後でした。
その大切な人は、金山文隆という山岡と同じ学徒出陣の若い兵士で、山岡の上官であると同時に、昵懇の間柄でもありました。そして金山は朝鮮民族の出身でした。
金山は、出撃前夜に山岡ともうひとりの部下であり戦友の藤枝の二人に懇願されて、決して残せない、残らない遺言を語ります。
それは、愛する女性への遺言でした。女性は、名を知子(知さん)といいました。東京の大学に通っていた頃に知り合い相思の間柄となって結婚の約束をしました。もし戦争がなければ、金山(本名キム・ソンジェ)は知さんを故郷釜山に連れて帰り、結婚して穏やかに暮らすつもりでいました。それが戦争によって引き裂かれました。

金山は語ります。
「知さん、ごめんなさい。
自分は死にます。あなたは幸せになって下さい。
自分は、必ず敵の戦艦を沈めます。
でもそれは大日本帝国の為ではなく
愛する祖国朝鮮民族の為、愛する知さんの為です。」

そして山岡の吹くハーモニカの演奏で、「故郷の空」を歌います。

「夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟 たれと遊ぶ」

許嫁の知子さんが知覧に到着したのは、金山が飛び立ったすぐ後でした。
知子さんは、続いて飛び立とうとする航空機の高速回転するプロペラに身を投げて死のうとしますが、山岡が身を挺して止めました。

その後すぐに山岡と藤枝にも特攻の命が下ります。そして二人は同日知覧を飛び立ちました。沖縄までは二時間余りの飛行ですが、日本軍の航空機は、その二時間の飛行さえままならぬものとなっていました。そして藤枝が操縦する航空機がエンジントラブルを起こして離脱しました。その後、敵戦闘機が大挙して現れて、山岡は激しい空中戦に見舞われて、一生は得ましたが沖縄にたどり着く事は叶いませんでした。

そして終戦の日を迎えます。
山岡は、知子さんを探し、金山のかわりに知子さんを一生守る決心をします。
劇中多くは語られませんでしたが、二人はどうやら子どもを作らない決心もした様子でした。知子さんが病弱であったからでしょうか、それとも金山さんに義理立てをしたからでしょうか、戦後生まれで悠長に生きてきた私にはわかりません。

そしてもうひとり、金山に対して深い思い入れを抱く女性がいました。
戦争当時から知覧で食堂を開き、若き特攻兵士達の最後の母(かあさん)となって親身に世話をした山本富子です。金山は、かあさんに自分の墓標(あるいは遺品)となるべきものを託していました。
金山は、以前かあさんから聞いていた話しを覚えていたのです。
「兵士は、遠き戦場で死んでも、その御霊はほたるとなって墓標に帰ってくる。」

かあさんも長生きしました。平成の世まで生き抜き、でもいつも自分が見送った若き兵士達の事は一時も忘れる事はありませんでした。そして金山についても、いつも心に留めていました。その金山の身内が、いまも釜山にいることを知りました。
でも、かあさんには釜山を訪ねるための時間も体力も、もうありませんでした。
そして山岡に、金山の遺品を釜山に届けてくれるよう頼みます。

知子は、ずいぶん前から透析しなければ生きられない体となっていました。そして山岡は、医者からいよいよ死期が近づいていることを告げられていました。
山岡は、知子の体をいたわり、悩みますが、正直になにもかも知子に話します。

二人は、深い思い入れに感謝する為に、釜山に出かけることにしました。
釜山の山間にある金山の故郷の村では、祭りが執り行われていました。金山(キム・ソンジェ)の一族が揃っていました。
しかし、山岡の訪問は、誰にも歓迎されませんでした。大日本帝国の軍人として特攻で死んだ、という話は、日本に対して悪感情を抱いている人達には到底受け入れられる話ではありませんでした。
それでも山岡は、真摯になって、金山の残した言葉を正確に伝え話します。山岡の姿には、金山に対する感謝と尊敬、そして無念さが溢れていました。最後に山岡が、遺品を取り出しますと、キム・ソンジェの母の妹と名乗る高齢の女性が前に進み出て、遺品を大切に受け取ってくれました。そして知子と山岡を家に招き入れました。

高齢の女性が、一枚の写真を取り出します。
それは日本から届いた、金山と知子が婚約時に撮ったと思われる、むつまじい二人が写った写真でした。そして、姉は
「息子が日本人の嫁を連れて帰るの」と、誰に恥じ入ること無く話していたことを、慈しみの笑顔で知子に話します。

山岡と知子は、キム・ソンジェの先祖が眠る墓をお参りしました。
もう冬が近いというのに
一匹のほたるがどこからか現れました。

---終わり---

昭和は遠くなりました。そして、戦争を経験した父の世代の人達は、身近にはもうひとりもいなくなりました。でも、私は戦友というものを知っています。父が亡くなった時、遠方から二人の戦友が父を送りに来て下さいました。そのお二人は、亡くなるまで母宛に、地産した野菜や果物などを毎年送り届けて下さいました。

そして朝鮮民族の方々との深いわだかまりについて思います。
健さんは劇中で、人間と人間の向き合い方を示してくれていたように思います。
誠実さ、真摯さ、そして感謝と尊敬が、人の心の頑なさを解いてくれるという真理です。

私たち日本人も、戦後から二代三代と世代が移っています。もはや戦争は遠い昔の話、悪しき記憶は薄れ、友好と平和と経済力があれば、世界から信用されると学んできました。ですから、いつまでも過去をほじくり返しては日本を誹謗する、中傷する隣国の行いには辟易します。そして最近では辟易を通り越し、目には目を、という感情まで沸き立ちます。
でも、ほんとうにそれで良いのか?
と、私たちは自問し続けなければいけないと思います。

2014年11月26日水曜日

医は仁術

総合病院の待合室で会計を待っていたところ、隣にある薬局の窓口でちょっとしたトラブルがありました。
年配の男性が、薬ができるのが遅いと詰め寄っていたのです。20分待っているのに薬ができないと窓口をばんばん叩き、そして担当医師が電話口に出ると、これからも待つのは嫌だから1年分薬を出せ、とせがんでいます。結局、しばらくすると穏便な形でトラブルは収束した様子でした。私を含め、周りにいた一般客(患者等)は、唖然とし、連れ立ってこられていた人は、小声で「順番やからしかたがないやろ」と話していました。

最近ですよね、窓口や薬局がスムーズに回転しだしたのは。以前は、総合病院で診察を受けるのは我慢大会みたいなものでした。診察は数時間待ちが当たり前。診察の順番が回ってきても、まず検査を指示され、長い廊下を行ったり来たり、そしてすべてが終わって数分間の診断を聞いて終わり、いや終わらない、それから会計で待たされ、薬局で待たされ、気付くと一日が終わります。

それが地方でも総合病院がどんどん作られ、病院同士で患者を食うようになった。そして些細なミス(医療ミスでなく、事務上や窓口対応の不備)でも、ネットを通じて一気に流布し、それでバッシングや患者離れを引き起こし、病院経営を危機に陥れるようになった。
だから命を救う病院でさえ、次第に患者を”お客様”と見るようになって、へりくだるようになった。病院の接客業務は、標準マニュアル化が進み、効率化のシステムが導入されて、病院で発生していた待ち行列は、科学的に改善された。しかし、病院への敬意や親しみは薄れて、いつしか患者は20分で不遜な態度を取る”常客”となった。
型にはめるわけでは無いけれど、世の中のビジネス(営利活動)至上主義が招いた変化の一例ではないかと思う。

「医は仁術」いう言葉があります。「医術は単なる技術ではなく、人を救う道である」という意ですね。そして、現在もこれからもそうであるなら、医者は人を救う仁者であるから敬意を払わなければいけないし、病院は医術を行う場所であるから、神聖に過ごさなければいけないと思います。逆説となりますが、私たちが医者や病院に、敬意と尊敬、そして信頼を抱き続けることが、医者や病院を「人を救う道」に揺るぎなく歩ませる「医を生かす」道だと思うのです。これも仁術です。
そして同時に、一種の信仰です。信仰とは、すべてが叶えられることではありません。裏切られても信ずる、成されなくても信ずる、その信心が、大河の一滴となるのです。

大袈裟な話に発展してしまってゴメンなさい・・・
でも病院は、地上で一番、安心、安全な場所であって欲しいです。