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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2014年11月29日土曜日

高倉健さん主演映画「ほたる」を観ました。

今月10日に亡くなられた高倉健さんの追悼番組の中で、主演映画「ほたる」(2001年日本映画)を観ました。

私は過去(若い頃です)映画館で観た健さん主演の映画は、「夜叉」と「ブラックレイン」だけです。その後もテレビで放映された主演映画はほとんど観ず終いで、健さんといえば、寡黙で義理堅い日本男児という印象のみ、それ以下でもそれ以上でもありませんでした。

でも、「ほたる」を観終わって、作品が公開された時代に、もっと早く健さん(というか降旗監督作品を)観ていたら良かったなぁ、という残念な気持ちを覚えました。
健さんは、劇中まったくの自然体にしか見えず、この「ほたる」では、気さくで面倒見の良い老境の漁師であり、長年連れ添った妻への感謝を忘れない優しい夫でありました。

「ほたる」は、今年の初めに大ヒットした映画「永遠の0」を彷彿させる(制作年度から見ればそれは逆になりますが)物語でありましたが、視点が大きく違いました。
「永遠の0」が、現代の若者が、第二次世界大戦末期に日本軍が行った特攻について再考すると同時に、その時代に生きた実の祖父宮部久蔵の生き様(あるいは死に様)と、義理のおじいちゃん大石賢一郎と祖母松乃を加えた三人の深い愛情と献身を辿る物語でありました。

「ほたる」は、昭和を生き抜いて、平成まで生き抜いた元特攻兵士の物語です。
物語は、現代と特攻として出撃する前夜が交差しながら進みます。
そして「永遠の0」が、如何に日本軍が自軍の兵士を粗末に扱ったかという事実に光を当てたのと同様に、「ほたる」では、当時併合していた朝鮮半島の人々までも日本の兵士として特攻に向かわせたという史実に光が当てられていました。

---あらすじです---

主人公山岡秀治には妻知子がいました。二人で桜島を望む小さな港町で漁業をしながら過ごしていました。年老いた二人には子どもがいませんでしたから、一緒に漁業をもりたてる若者たちを本当の子どものように遇していました。
二人はとても強い絆で結ばれていました。二人が出会ったのは、二人にとって大切な人が特攻作戦の為に知覧航空基地を飛び立った、その日の午後でした。
その大切な人は、金山文隆という山岡と同じ学徒出陣の若い兵士で、山岡の上官であると同時に、昵懇の間柄でもありました。そして金山は朝鮮民族の出身でした。
金山は、出撃前夜に山岡ともうひとりの部下であり戦友の藤枝の二人に懇願されて、決して残せない、残らない遺言を語ります。
それは、愛する女性への遺言でした。女性は、名を知子(知さん)といいました。東京の大学に通っていた頃に知り合い相思の間柄となって結婚の約束をしました。もし戦争がなければ、金山(本名キム・ソンジェ)は知さんを故郷釜山に連れて帰り、結婚して穏やかに暮らすつもりでいました。それが戦争によって引き裂かれました。

金山は語ります。
「知さん、ごめんなさい。
自分は死にます。あなたは幸せになって下さい。
自分は、必ず敵の戦艦を沈めます。
でもそれは大日本帝国の為ではなく
愛する祖国朝鮮民族の為、愛する知さんの為です。」

そして山岡の吹くハーモニカの演奏で、「故郷の空」を歌います。

「夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟 たれと遊ぶ」

許嫁の知子さんが知覧に到着したのは、金山が飛び立ったすぐ後でした。
知子さんは、続いて飛び立とうとする航空機の高速回転するプロペラに身を投げて死のうとしますが、山岡が身を挺して止めました。

その後すぐに山岡と藤枝にも特攻の命が下ります。そして二人は同日知覧を飛び立ちました。沖縄までは二時間余りの飛行ですが、日本軍の航空機は、その二時間の飛行さえままならぬものとなっていました。そして藤枝が操縦する航空機がエンジントラブルを起こして離脱しました。その後、敵戦闘機が大挙して現れて、山岡は激しい空中戦に見舞われて、一生は得ましたが沖縄にたどり着く事は叶いませんでした。

そして終戦の日を迎えます。
山岡は、知子さんを探し、金山のかわりに知子さんを一生守る決心をします。
劇中多くは語られませんでしたが、二人はどうやら子どもを作らない決心もした様子でした。知子さんが病弱であったからでしょうか、それとも金山さんに義理立てをしたからでしょうか、戦後生まれで悠長に生きてきた私にはわかりません。

そしてもうひとり、金山に対して深い思い入れを抱く女性がいました。
戦争当時から知覧で食堂を開き、若き特攻兵士達の最後の母(かあさん)となって親身に世話をした山本富子です。金山は、かあさんに自分の墓標(あるいは遺品)となるべきものを託していました。
金山は、以前かあさんから聞いていた話しを覚えていたのです。
「兵士は、遠き戦場で死んでも、その御霊はほたるとなって墓標に帰ってくる。」

かあさんも長生きしました。平成の世まで生き抜き、でもいつも自分が見送った若き兵士達の事は一時も忘れる事はありませんでした。そして金山についても、いつも心に留めていました。その金山の身内が、いまも釜山にいることを知りました。
でも、かあさんには釜山を訪ねるための時間も体力も、もうありませんでした。
そして山岡に、金山の遺品を釜山に届けてくれるよう頼みます。

知子は、ずいぶん前から透析しなければ生きられない体となっていました。そして山岡は、医者からいよいよ死期が近づいていることを告げられていました。
山岡は、知子の体をいたわり、悩みますが、正直になにもかも知子に話します。

二人は、深い思い入れに感謝する為に、釜山に出かけることにしました。
釜山の山間にある金山の故郷の村では、祭りが執り行われていました。金山(キム・ソンジェ)の一族が揃っていました。
しかし、山岡の訪問は、誰にも歓迎されませんでした。大日本帝国の軍人として特攻で死んだ、という話は、日本に対して悪感情を抱いている人達には到底受け入れられる話ではありませんでした。
それでも山岡は、真摯になって、金山の残した言葉を正確に伝え話します。山岡の姿には、金山に対する感謝と尊敬、そして無念さが溢れていました。最後に山岡が、遺品を取り出しますと、キム・ソンジェの母の妹と名乗る高齢の女性が前に進み出て、遺品を大切に受け取ってくれました。そして知子と山岡を家に招き入れました。

高齢の女性が、一枚の写真を取り出します。
それは日本から届いた、金山と知子が婚約時に撮ったと思われる、むつまじい二人が写った写真でした。そして、姉は
「息子が日本人の嫁を連れて帰るの」と、誰に恥じ入ること無く話していたことを、慈しみの笑顔で知子に話します。

山岡と知子は、キム・ソンジェの先祖が眠る墓をお参りしました。
もう冬が近いというのに
一匹のほたるがどこからか現れました。

---終わり---

昭和は遠くなりました。そして、戦争を経験した父の世代の人達は、身近にはもうひとりもいなくなりました。でも、私は戦友というものを知っています。父が亡くなった時、遠方から二人の戦友が父を送りに来て下さいました。そのお二人は、亡くなるまで母宛に、地産した野菜や果物などを毎年送り届けて下さいました。

そして朝鮮民族の方々との深いわだかまりについて思います。
健さんは劇中で、人間と人間の向き合い方を示してくれていたように思います。
誠実さ、真摯さ、そして感謝と尊敬が、人の心の頑なさを解いてくれるという真理です。

私たち日本人も、戦後から二代三代と世代が移っています。もはや戦争は遠い昔の話、悪しき記憶は薄れ、友好と平和と経済力があれば、世界から信用されると学んできました。ですから、いつまでも過去をほじくり返しては日本を誹謗する、中傷する隣国の行いには辟易します。そして最近では辟易を通り越し、目には目を、という感情まで沸き立ちます。
でも、ほんとうにそれで良いのか?
と、私たちは自問し続けなければいけないと思います。

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