大好きな映画の話、本や朗読の話、また高校野球の試合観戦記、地元播磨の散策記など徒然に書いています。 その他にも、しょうもない昔話やちょっとしたエッセーなども書いています。 本でも読む感覚で読んで頂いて、面白ければ訪問カウンター下にある[G+1]ボタン(Facebookのいいねボタンの様なものです)を押して頂ければ嬉しいです。また、コメントの書き込みも楽しみにしています。
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不寛容にもほどがある!
現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...
2025年6月26日木曜日
個人的なことは政治的なこと
2025年6月24日火曜日
誰か故郷を想わざる
花摘む野辺に 陽は落ちて
みんなで肩を 組みながら
歌を歌った 帰り道
幼なじみの あの友この友
ああ誰か故郷を 想わざる
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
小川の岸で 淋しさに
泣いた涙の 懐かしさ
幼なじみの あの山この川
ああ誰か故郷を 想わざる
都に雨の 降る夜は
涙に胸も 湿りがち
遠く呼ぶのは 誰の声
幼なじみの あの夢この夢
ああ誰か故郷を 想わざる
母が寝たきり状態になってからは、毎朝 母の枕元で般若心経と曹洞宗の経典修証義、そして新約聖書マタイの福音書第4章から第6章を諷誦しました。その後に歌を歌いました。母は歌が好きでしたので、私に取っては懐メロ、母にとっては青春時代の流行歌であったであろう歌を歌いました。特に母に思いを込めて歌った歌があります。それが「誰か故郷を想わざる」でした。
この歌は昭和15年の流行歌です。日本から遠く離れた戦地の兵士の間で、望郷の念に刺さる歌として大ヒットしたそうです。母は15歳でした。飾磨という海ベに近い町で、三男五女の兄弟姉妹の五女として大家族に囲まれ、生涯の友となる女友だちとともに青春時代を過ごしていたのだと思います。その大好きな家族も大好きな友だちも、みんな既に彼岸の向こうに旅立って、母はひとり残されていました。そんな母に、この歌が少しでも慰めになればと思ったのです。
2025年6月23日月曜日
呆けても呆けてもいんだから
梅雨入りで雨模様が続く予報があった中での会葬となりましたが 晴れ女の面目躍如たるものなのでしょうか 空は見事に晴れ渡り 夏空の下で会葬を行う事が出来ました
昨年秋口から発熱などで体調を崩すことが多くなりまして それからは訪問診療や訪問看護のサービスも利用しながら 少しでも長く健康でいてくれるように 介助や見守りを続けてきました しかし老衰により心不全の症状が悪化していき 今年の三月三日を境に完全な寝たきり状態となりました 点滴が出来ない為に 吸い飲み器で誤嚥せぬ様ゆっくりと水分を口から与えることしかできなくなりました そんな家族の無念さや不安は 母が時間を掛けて癒やしてくれたように思います 以後三ヶ月の間 苦しむ素振りは一度もなく 清拭などの介助も効いたのか床擦れなどが悪化することもなく穏やかに生き続けてくれました
亡くなる一週間前から咽下することが難しくなって スポンジで口元を濡らすことしかできなくなりました そんな風にして命が尽きていく姿をゆっくりとしっかりと私たち家族に見せてくれました
そして令和七年六月十四日早朝二時十五分ごろ 水滴が落ちるようにスッと自ら目を閉じ逝きました 享年百一歳の生涯を閉じました
寝たきりになるまでは 如何にかこうにか 椅子に座って食事を食べさせたり テレビを一緒に見る事も出来ました 訪問看護師は母が背もたれに寄りかからず背筋を伸ばして座る姿勢のあまりの良さにいつも感心していました 昨年の秋口のことですが 診療所でレントゲン写真を取った際 母はひとりで感光版を背にして丸椅子に座ったのですが その姿を見ていた看護師たちが 「お地蔵さま」みたいと愛おしく話していたことを思い出します
母の口癖は「呆けても呆けてもいんだから」でした
認知症状が進み 自分がどこにいるのか 回りの者は誰なのか 分からなくなり始めた時は 不安を口にすることもありました でもこの言葉が口癖となってからは 不安な心も安らいだように思います
じゃんけんをすれば後出しで「勝った」とうそぶき 指を折っての足し算には一生懸命考えて答えてくれました 最後の最後まで家族を楽しませてくれた母でした
2025年6月14日土曜日
母郁子が、今朝2時15分頃に永眠しました。
夜半から母が横たわる介護ベッドの側で見守っていた姉は、その瞬間の様子を、水がすっと落ちるが如く、また鹿威しが水が満ちてコツンと切りの良い音を立てるが如く、瞬間にスッと目を閉じ、それに呼応するように、胸のかすかに続いていた揺れも止まったとその情景を描写しました。すぐに家族は銘々の部屋から母が眠る部屋に集まり、姉の描写を聞いて、良い最後の時を、母の旅立ちを感謝し、喜び、安堵しました。
1925年、大正14年7月28日生まれの母郁子は、享年百一歳、満年齢では百歳に一ヶ月ちょっと足らない99歳の大往生を遂げました。
2025年6月13日金曜日
人はパンのみにあらず
2025年6月3日火曜日
齊藤元彦知事の大罪
一人の県職員による齊藤元彦知事に関わる問題・疑惑の外部通報、あわせて県の窓口への公益通報から始まる、兵庫県行政のごたごたは、それを調査して評価した百条委員会、及び兵庫県の第三者委員会が、概ね一部の疑惑をあったと認定したことで、それを受けた齊藤元彦知事がどう身を処するのかを注目していたが、予想通りというか、知事側の弁護士の法解釈を述べて、法律に照らし合わせても判断が分かれるところと他人事の様な感想を述べるに留まり、自分は県民の負託を受けた身分であることを強調し、県政を前に進めるという毎度のフレーズを繰り返すだけでした。
冷静にこの問題・疑惑を眺めてみると、特に通報者を特定するために行った通信の秘匿や個人情報を暴くという行為や、その通報者や知事側と対峙する議員たちの個人情報や真偽不明な疑惑を知事側と通じる県議が秘かに外部の扇動政治家に流して、公共に晒すという行為は、個人の人権を守らず危険に晒す行為であって、これだけでも十分に憲法に違反する大罪だと私は考えます。
そして、もう一つの大罪があると考えます。それは、兵庫県行政に相互不信を蔓延させた上に、県民を大きく分断した事です。
兵庫県の県職員はまるで戦時中の全体主義に統制されているかの様に、密告を恐れて、知事一派に不利な意見を公にすることが出来ないように見えるし、県議に至っては百条委員会の非公開の議論の場での発言が、秘密録音され、切り取られた音声がネットで拡散されて、不特定多数からの誹謗中傷に晒され、一人の議員が自死に至るという最悪の事態までが起きて、議員同士の不信感が蔓延し、議会が機能不全に陥ってしまっているのではと想像します。
県民といえば、明らかに精神医学でいうところの「考えを誘導する」という高等なテクニックによって、思考が「齊藤元彦知事を応援する」に誘導されたのだと考えます。その手法はYouTubeやSNSのメッセージを利用して、通報した職員や知事に対峙する県議の悪評を、不特定多数の人々に際限なく送り続けるというものです。そして、その中に、デマを拡散する者を紛れ込ませて、扇動政治家が大々的に糾弾するキャンペーンを行うのです。それによって人々の潜在意識を刺激し続け、「彼らにとっての都合の良い思考」を人々に植え付けたのだと思います。テレビのニュースや新聞が丹念に調べて記事にしたものを時系列で読み理解すれば、知事側に明らかに不都合があると分かるのですが、そのテレビや新聞までもがネット上でオールドメディアと断罪され、同じように糾弾キャンペーンされるに至り、また長文よりもショートメッセージを好むデジタルネイティブの若者ばかりかデジタルに遅れて参加してきた高齢者までもが、「知事は被害者、可哀想な知事、知事を応援する」という思考に誘導され、一度潜在意識に染み込んだ思考は、対立する思考を受け付けず、それが齊藤元彦知事の再選という結果を招いたのだと考えます。
一言でいえば、非常に悪辣な行為が行われていたと、私は考えます。
但し、既存のマスメディアには十分に反省する点があると考えます。よく音声を変えた県職員のインタビュー音声がニュースなどで流されますが、音声を流すだけで、その音声が語る情報の裏取りがない事です。これでは扇動政治家と同じだと思います。よく「県の中堅や若手の離職の多さ」が語られますが、それが本当ならば、県政にとって大きな損失となるばかりでなく、県民サービスが損なわれる事態が起こるということで、これだけでも知事は辞めなければいけない理由となると考えます。もっと正しく伝えるというジャーナリズムの精神に立ち戻り、しっかりと調査して報道に繋げて欲しいと強く思います。
2025年5月25日日曜日
キリスト教の素朴な疑問
キリスト教の素朴な疑問の一つが、何故に世界宗教へと歩み出したのか、という事です。そこで、あらためて『ヨハネの福音書』から聖書を読み進め、疑問の答えを探すことにしました。
ナザレのイエスは、安息日であっても救いを求めて訪ねてくるユダヤ社会で救われぬ人々を神の業で癒やし、また彼らに福音を宣べ伝えていきました。ユダヤ人社会の権威主義者や厳格な戒律主義者は、このイエスの行為が到底承服できず、恐れ憎しみ、遂には罪を着せローマの総督に訴えて死罪に処すか、或いは暗殺を企てるようになりました。
イエスは前者の策謀により十字架の磔刑に処せられますが、三日目に復活され、イエスが選ばれた使徒の前に現れ、そして使徒たちに精霊のバプテスマを授け、福音を宣べ伝える使命を与えます。また使徒の他に、イエスや使徒を迫害する者の尖兵であったギリシャ語の堪能なサウロ(ギリシャ語ではパウロ)を聖別し、ローマが支配する全域に福音を宣べ伝える使命を与えます。『使徒の働き』は、イエスから福音を宣べ伝える使命を与えられた使徒、そしてパウロの働きの行動記録が記されていました。彼らの艱難は、異邦人からではなく、常に彼らを憎み殺害も辞さないユダヤ人からもたらされたものでした。
使徒の働き10章34
そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりとわかりました。神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を畏れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」
使徒の働き13章46-47
そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神の言葉は、まずあなた方に語られなければならなかったのです。しかし、あなた方はそれを拒んで、自分自身を永遠の命にふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これから異邦人の方へ向かいます。
なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」
使徒の働き28章26-28
『この民のところに行って、告げよ。あなた方は確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見て入るが、決して分からない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、私に癒やされることの無いからである。』
ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。
ローマ人への手紙1章29-32
彼らは、あらゆる不義と悪と貪りと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事を企む者、親に逆らう者、
わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけで無く、それを行う者に心から同意しているのです。
使徒たちやパウロなどイエスから使命を受けた人たちは、常に彼らを迫害するユダヤ人から命を狙われる危険を背にしながら、精霊の見守りによって命が尽きるまで使命を果たしました。それが、イエスの福音が世界に宣べ伝えられ、現在の世界宗教キリスト教の礎となったのだと理解しました。
また、使徒の艱難の記録から、人種でもなく宗教でもなく、権威や自らの主義に固執する者、また欲に支配される者が、この人間世界を危機に陥れる元凶であること、現在にも通じる元凶であることを理解しました。
2025年5月15日木曜日
『人権を尊重する』という事について
ヨハネによる福音書9章41節
イエスは彼らに言われた。「もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪は無かったでしょう。しかし、あなた方は今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなた方の罪は残るのです。」
イエスの時代、ユダヤ人社会では盲人の様な障害を背負って生まれた人たちは、何かしらの罪を神が下した人という罪人扱いを受けていた様子です。その盲人が、イエスの奇蹟の業で眼が見える様になりました。その奇蹟の業が行われたのは安息日でした。安息日はモーセ戒律で一切の労働をしてはならない日と定められていました。
イエスが奇蹟の業で盲人の目を開いたという噂を聞きつけた、ユダヤ人社会の権威主義者や厳格な戒律主義者は、安息日に神の業を行ったと噂されるイエスをユダヤ人社会を乱す不届き者、憎むべきたかり者と見なします。そして、イエスの業で目が開かれた人を教会堂に呼び出し、イエスの業は偽りであったと告白する様に迫ります。しかし、その人は同意せず、イエスの業は本物であると主張したために、教会堂から、ユダヤ人社会から追放されました。
イエスは、追放され途方に暮れていた人の前に現れ、神の力であなたの目を開いたのは私であると告げ、その人はキリストの救済と信仰を信じると告白し、キリスト者となりました。
そして、章の最後の御言葉41節です。
この御言葉を、私は次の様に受け取りました。
救いを求めて謙虚に悔い改められる者は、救世主(キリスト)の導きによって罪が許され、神の国に入ることが出来るが、しかし、救世主を信じず、敬いもせず、己こそ正しいと主張する傲慢で真実を見出すことが出来ない者は、いつまでも罪人のままで、神の国に入ることが許されない、と。
私たちの今の時代、己が正しいと主張し、デモクラシー下での自由を身勝手な自由と履き違えて、身勝手な行動に走る者、他人をおとしめる者、傷つける者、盗む者、奪う者、欺す者、殺す者、そして、法律でさえ身勝手に解釈して歪めてしまう者等々、傲慢な無法者で溢れかえるようになりました。
残念なことですが、こうなるのは必然であった様に思います。それは、日本だけでなく近代デモクラシーが興った欧米社会も同じで、近代デモクラシーの根幹となる思想『人権を尊重する』の心の教育がおざなりとなって、富を獲得することが最上とする教育に傾斜してきたことが原因だと思っています。
人権を尊重することは神の戒めであり、それを守ることは、自らが心に決めて行う遵守です。しかし富を最上とすることは欲望であり、それに付き従うことは、自らの心を無くす服従でしかありません。
服従に身を任すことは大罪であることを、私たちは自覚し、自戒し、心が救済されるように『人権を尊重する』という思想の遵守に立ち返らなければいけないと強く思います。
2025年5月13日火曜日
NEOエロ・グロ・ナンセンスの時代を迎えて
姪の息子が、この春から法律を学ぶために東京の大学に進みました。
その姪孫が、3月に母郁子(姪孫から見れば曾祖母)を見舞に来てくれたときに、父清造(姪孫から見れば曾祖父)が残した海軍時代の古いアルバムを見せてあげました。姪孫は多少興味があったと見えて、目を輝かせてアルバムのページをめくっていました。また、戦艦が写る写真はスマホで撮し保存していました。
私がアルバムを姪孫に見せたのは、80年前に敗戦で終わった戦争の記憶は、姪孫にも繋がっていることを知ってほしいと思ったからです。アルバムはまるで卒業アルバムの様な体裁で編さんされていて、内一冊の表紙には「上海事変の思い出」と刻印がされていました。父は生きていれば今年110歳になります。姪孫と同じ年齢の頃に海軍に入隊し、呉の学校で兵隊となるべく学び、そして約10年間、日中戦争から太平洋戦争に従軍して、最後は南方の捕虜収容所で終戦を迎え復員しました。父から直接戦争の話を聞いたことはほとんど無いですが、私が十代半ばの頃に国から勲章が贈られてきたことがあり、その時に、艦船からオーストラリア大陸を見たという話を聞きました。体には二箇所銃創の跡がありました。父はどんな思いでこの二十代を生きたのか、今はもう知る術はありませんが、復員後、仕事を始め、家族を持った後も、しばらくは精神的に辛い時期があった様に私は兄(10年前に亡くなった姪孫の祖父)から聞きました。
壺井栄さんの小説「二十四の瞳」では、師範学校を卒業して小学校教諭となった大石久子先生が、受け持った初めての生徒、その十二人の生徒がいよいよ卒業という頃に、五人の男子生徒全員が将来は兵隊さんになると目を輝かせて話すのを暗い表情で見守るシーンが印象的でした。大石先生は、この生徒らの卒業を見送った後、生徒が兵隊に取られるのが辛くて教師を辞めました。そして終戦の後、しばらくして女生徒たちから同窓会に招かれます。大石先生は、そこで四人の男子生徒の戦死を知り、また戦場で視力を奪われ体が不自由となった一人の男子生徒と再会しました。そのシーンもとても心が痛むシーンでした。
戦場で戦う、殺し殺される経験をした人は、きっともれなくPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむことになるのだと思います。それだけではなく、たとえ命拾いしたとしても重度の障害や苛酷な環境下で体を壊し、一生涯苦しまなければならない人も居られます。
戦争の記憶を持つ市井の日本人にとって、また彼等の子どもの時代までは日本人の共通記憶として、戦争に対する嫌悪感は凄まじいものであったと思います。
しかし、戦後三世四世の時代に入り、日本人は嫌悪する戦争の記憶がすっかり薄れ、現在はまるで二十世紀に起こった二つの世界大戦前の、エロ・グロ・ナンセンスの風潮に再び支配されつつある様に感じています。二十世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントも著書『責任と判断』の中で、十九世紀末のヨーロッパも退廃が支配していた旨の記述を残していました。
歴史は繰り返されるといいます。私たち一人一人がしっかりと自己を育まなければ、そして道徳に立ち返らなければ、大きな負の転換が訪れたとき、私たちはいやおうなく自由が奪われ、隷属に陥ってしまいます。その事を、私たちは肝に銘じておかなければならないと思います。
2025年4月26日土曜日
デモクラシーの本質とは何か?
マタイによる福音書6章24節
『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』
日本では民主主義と対訳される近代デモクラシーですが、そのデモクラシーの本質とは何かを、ここ数年考えるようになりました。戦後生まれの私はずっと民主主義とは「平等」そして「自由」が実現された社会の仕組み程度に考えていましたが、いわゆる平成バブルが弾けて以降、日本は徐々に「不平等」で「不自由」な社会へと姿を変えていきました。
私はデモクラシーとは何かを知るために、アメリカの高名な政治学者ロバート・A・ダールが執筆した「デモクラシーとは何か?」というデモクラシーの入門書を読みました。そして、デモクラシーが供えるべき仕組みや手続き、客観的評価指針などを学びました。ダールが掲げた客観的評価指針とは、1941年に世界規模で自由を守る為に設立されたフリーダム・ハウスが評価指針としている「政治的自由」と「市民的自由」です。
フリーダムハウス(Freedom House)
https://freedomhouse.org/report/freedom-world
政治的自由(Political freedom):自由で公正な普通選挙、公職への立候補、政党への参加などを含む政治過程への参加の自由など
市民的自由(Civil liberties):表現・信仰・結社の自由、法の支配、個人の自律など
近代デモクラシーは、18世紀の後半、アメリカ合衆国建国とフランス革命が起点となって始まりました。
デモクラシー(民衆が政治参加する政治体制)が人類史上初めて執り行われたのは、今から2500年前の古代ギリシャ世界の都市国家アテナイです。アテナイも王侯貴族が支配するアリストクラシー(気高き者が政治を支配する政治体制)国家でした。
ギリシャ世界にとって東のペルシャ帝国は大いなる脅威でした。そのペルシャ帝国がギリシャ世界に侵略戦争を仕掛けた時、ギリシャ世界の都市国家はアテナイを盟主とするデロス同盟を締結し一丸となって戦いました。そして、海戦でペルシャの侵攻を食い止めました。この戦争では、自由市民も重装歩兵として戦争に参加するという気高い行為を行い、また海戦が海運を発達させて、海上貿易により自由市民も大いに豊かになったことから、その報いとして自由市民も政治への参加が認められ、アテナイはデモクラシー国家となりました。
しかし、アテナイのデモクラシーは長くは続きませんでした。アテナイは慢心し、ギリシャ世界の富や文化をアテナイに集中させようとしたために、他の都市国家はアテナイから離反し、あらたにスパルタを盟主とするペロポネソス同盟を締結して、アテナイと戦争を繰り広げることになりました。この30年にも及ぶペロポネソス戦争は、アテナイの躓きから終焉を迎えることになります。
アテナイには、少年の頃に美少年として男性の寵愛を受け、大人となってからはオリンピック競技の戦車競走の勝者として名を馳せ、市民からも人気の高い貴族出身の若き将軍アルキビアデスがいました。このアルキビアデスが、戦争の方針を議論し決定する市民集会で、無謀なシチリア遠征を主張し、アルキビアデスの煽動的な発言に熱狂した市民はシチリア遠征を決定します。このシチリア遠征でアテナイは大敗し、多数の戦艦と兵士を失うことになり、降伏に至ることになりました。
アルキビアデスは戦車競技に熱中するあまりに散財し、借金で首が回らなくなっていました。その借金を解消するためにアルキビアデスはスパルタに寝返ることにしたのです。この愚か者の煽動によって愚かな人々が支配する国が衰退したことによって、デモクラシーは、近代まで「愚衆政治」の象徴と見なされ続けてきました。
古代ギリシャ世界の衰退の後、現在のヨーロッパ全域、地中海周辺のアフリカ、そして中東までも支配したのは都市国家ローマです。ローマは皇帝を擁し、強大な武力で勢力範囲を拡大して行きました。ローマもギリシャ世界と同様に、多神教の国家で、他宗教にも寛容でした。そのため支配地の土着の信仰も許しました。その一つが、アブラハムを父とするイスラエルの子孫の国ユダヤ国の信仰です。ユダヤの民は唯一神ヤハウェを篤く信仰しました。2000年前、このユダヤ国でイエスが誕生し、宗教指導者や国の指導者の腐敗に抗い、神の元では人間は平等であると説き、虐げられていた人々に、あなた達こそ神の国に迎えられるという救いを与える布教活動を始めました。
このイエスの教義を広める活動は、イエスの死後も使徒と呼ばれる弟子たちから、ローマの支配地全土に宣べ伝えられたことから、イエスの教義であるキリスト教の信仰者はローマ全土に広がりました。このことに脅威を感じたローマの指導者は、キリスト教を禁教にし、キリスト教徒を迫害しますが、信仰者の拡大は止める事が出来ず、遂にキリスト教を容認し、392年にはキリスト教をローマの国教と定めるに至りました。そしてローマに法王庁が設置され、以後、皇帝や王の権威は、神の司である法王が授与する慣例が作られました。
ローマ帝国は、西と東に分裂し、東ローマ帝国はコンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)に皇帝府とあたらしく正教会を設置し、正教会は、1054年にローマ教会と正式に分裂して東方正教会として独自の発展を遂げることになります。
キリスト教は、近代まで皇帝や王に権威を授与する教会の権威の源としての役割を果たしますが、教会の絶大な権威のもとで蔓延る不正に、抗議の声を上げたマルティン・ルターの様な宗教改革者が現れ、ローマを本山とするカトリック信者から、抗議者(プロテスタント)と敵視され、以降、近代デモクラシーが興るまで、プロテスタントは迫害を受け続けることになります。しかし、法王や皇帝、王の権威ではなく、聖書に向き合い信仰を育むというプロテスタントたちの信仰は、商人や社会の進歩と調和を願う人々の中で浸透していき、18世紀に、イギリスからピューリタン(イギリス国教に対するプロテスタント)が新大陸アメリカに逃れて新国家アメリカ合衆国を建国し、フランスでは民衆革命によって王制が倒され、民衆が政治参加する政治体制デモクラシーが再び始まることになります。
但し、古代のデモクラシーとは大きな違いがあります。それは、近代デモクラシーは聖書に向き合うキリスト教徒が、デモクラシーの勃興に深く関わっていたという事です。
そこで冒頭のマタイによる福音書6章24節の御言葉です。
『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』
近代デモクラシーを牽引した人々は、聖書の信仰に篤い人々でした。彼等は神に仕えていました。神の戒めは絶対でした。彼等は神に誓い、神の戒めに沿う法、自らが従う、そして子々孫々に至るまで従うように法を定めました。その評価指針が「政治的自由」と「市民的自由」でした。
私は、このマタイによる福音書6章24節の御言葉に触れ、キリスト教が近代まで皇帝や王の権威の源とされていたように、近代デモクラシーを永代に渡って守り続けるために整備されたデモクラシーの法律は、キリスト教が源になっていると気付いたのです。
しかし、近現代になっても利己主義的な戦争は止まず、他宗教との軋轢や争いも止まず、しかも、戦争は軍需産業という産業に活気を与え、莫大な富を生み出す源泉になっています。富に仕えることになれば、神への仕えが疎かになってしまいます。
そして、富に仕える人間が、神の擁護者を騙り振る舞います。彼等は自ら利益となる主張を大声で発信し、人々を煽動します。そして多くのキリスト教の信者が、煽動政治家(デマゴーグ)を熱烈に支持しています。それは、近代デモクラシーが愚衆政治に変貌していく有り様で、非常に憤りを覚えます。
追伸。
民主主義は、明治期にデモクラシーが日本語として翻訳されたものですが、先に述べたように、その本質には大きな隔たりがあると思います。
キリスト教の信仰が礎となるヨーロッパのデモクラシーは、本来は信仰の対象である神と個人との契約です。信仰の篤さが法への忠誠の源です。そして、キリスト教の本分は「他者を愛せよ」です。
翻って日本は、80年前まで、天皇を頂点とする忠孝が最も重んじられた国です。そして民主主義は、上意下達で国民は教育されました。ですから、「政治的自由」は仕組みとしてはあっても、お上(役人や政治家)に依存する体質は変わらず、投票行動すら積極的になれないのです。また、「市民的自由」といっても、義務教育から上意下達の教育、暗記教育を強いられて、答えのない問題に対応する力が極めて弱いのだと思います。それもそういう物言わず従う国民を製造してきた為政者の計らいなのだと私は思います。
1000年前、日本には仏教が伝来しました。仏教の祖である釈迦の教義は、「自未得度先度他」、自分が悟りを得ていない状態でも、まずは他者を悟りに導く、つまり利他、他者を救済することが最も徳の高い行為であるとする教義です。しかし、明治期には仏教も一時期禁教扱いとされ、いまでは仏教といえば、お葬式、先祖供養のためのものでしかありません。
しかし、学び直すことで、きっと私たちは変われると思います。そういう希望は私は、抱き続けます。
2025年4月23日水曜日
ライヤーハウス
二期目となったアメリカのトランプ大統領が、対外だけでなく国内に向けても、先人たちが長い時間を費やして整備してきたデモクラシーの社会システムを、まるで復讐でもするかのように身勝手な大統領令を乱発して壊してゆく様を見ていると、現実的な恐ろしさを超えて、まるで軽薄なB級映画を見せられている様な気持ちになってきます。
一期目の時に感じたのは、まるで映画「G.I.ジョー(G.I.Joe: The Rise of Cobra)」の世界観が現実になったんだ、という事でした。ホワイトハウスの屋上に星条旗ではなくコブラ旗(もしくはトランプ旗)が掲げられていないか確認しました。笑い
そして二期目のトランプ大統領が大統領令を乱発している様は、まるで「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」に登場した、自由で闊達なホグワーツの精神を、統制と萎縮で縛るために尋問官令を乱発したドローレス・アンブリッジに見えてきます。
そして、トランプの様なデモクラシーを破壊しかねない人物が行政権を支配した時の安全装置として、残りの立法権を司る連邦議会と司法権を司る連邦最高裁には大統領令を違憲と判断して無効化できる権限が与えられているのにも拘わらず、それを行使もせずに沈黙を決め込み、更には、トランプ同様に何の見識もない人物が政府トップに任命されて、下品さをまき散らす様を見ていると、アンゼルセン童話の「裸の王様」の世界観が現実になったんだ、という気持ちになります。ホワイトハウスがライアーのハウスになっていないか確認しました。笑い
山辺の斜面に生える野の草
2025年4月19日土曜日
悪い奴ほどよく眠る
今年65歳となる私が観てきた数多くの映画作品の中で、一番痛快であった映画は何か?と問われれば、迷いなく黒澤明監督作品の時代劇「椿三十郎」(1962年)を上げるでしょう。では一番唖然とさせられた映画は何か?と問われれば、昨日までならM・ナイト・シャラマン監督作品のホラー「シックス・センス」(1999年)を上げていたと思います。でも今は、迷いなく、先ほど(プレミアムシネマの録画)で観た、またまた黒澤明監督作品のクライムサスペンス「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)を上げます。
これ以上無いほどに、ラストシーンで唖然というか、愕然とさせられました。ん・・・違うなぁ、この気持ち、今の世にも変わらず蔓延る社会悪の底知れぬおぞましさに対して抗った人間の末路を見せつけられた気持ちを表す言葉が見つかりません・・・
ただ、特にこれからの混迷の時代を長く生きることになる若者には是非観てほしいと思います。自分事として観てほしい、そしてあなたの心に深く問い掛けてほしいと思います。あなたならどうするのかを。
2025年4月16日水曜日
娘が駆け足帰省しました。
先週金曜日夜、娘が駆け足帰省したかと思えば、土日は高校来の親友とこれまた駆け足出雲ドライブに出かけ、月曜日の午前中には東京へ帰っていきました。
ただ私としては、初めて口にすることになる美味な珍しい東京のお菓子にありつけ、且つ、出雲の美味な珍しいクラフトビールにありつけ、有り難い帰省となりました。
おばあさんの顔も見て「百歳か元気でいいよ(いるんやでのさくら言葉)」と言い、姫路駅での見送りの際には「おとうさんも元気でいいよ」と握手して行きました。さっぱりした態度に、娘なのに何故か男前やなと感心した次第です。
月曜日の朝、日笠山に桜見物に出かけた娘が、キツツキ科のコゲラを見つけスマホで撮影したものをLINEで送ってくれました。
その画像、記念にここに貼り付けておきます。
2025年4月10日木曜日
地震のあとで After the Quake
村上春樹さんの短編小説集「神の子どもたちはみな踊る After the Quake」の六編から四編をドラマ化したNHK「After the Quake 地震のあとで」が始まりましたね。
第一話の「UFOが釧路に降りる」は、1995年の阪神大震災直後と小説と同じ時代設定で、物語の進行も小説の進行通りでした。主人公が始まりも終わりもはっきりしない不条理な世界に迷い込んでしまうという春樹ワールドを感じ取ることが出来ました。
以後のドラマは時代設定が令和、つまり今の時代に設定されていて、どの様に今と春樹ワールドが融合するのか楽しみであり不安でもあります。
小説も読むと、私はドラマ化されなかった「蜂蜜パイ」に、物語として惹かれました。
物語のヒロイン小夜子が18歳の時に発した言葉
『何かをわかっているということと、それを目に見えるかたちに変えていけるということは、また別の話なのね。そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど』
そして、主人公淳平が36歳の時に発する言葉
『これまでとは違う小説を書こう、夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかり抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を』
に、私はもしかしたら春樹さんの私小説、なんて想像を巡らしました。
それとともに、不安に晒され続けている幾万の人々に向けた、春樹さんのラブレターの様にも感じた次第です。
のんさん(本名能年玲奈さん)がカエル役(声優)で声だけですが出演されるそうですが、それも大いに楽しみです。小説とは異なる結末を期待したです。
2025年3月6日木曜日
奇妙な時間を過ごしています。
現在絶賛再放送中の朝ドラ『カーネーション』の主人公糸子さんと同じ(といっても12歳若いのですが)、大正生まれで、洋裁が得意であった母ですが、この月曜日の朝から急に座って食事が取れなくなって、熱も39度に迫る発熱が出、とりあえず手元にある解熱剤と抗生物質を服用させてから訪問看護の看護婦さんに状況を連絡しました。
看護婦さんは昼過ぎ訪問され、訪問医療の医師の指示で採血されました。その結果が翌朝でました。心不全マーカーといわれるBNP値(平常時は20以下)が5000以上になっていて、心不全の末期状態、いわゆる老衰の看取りの段階になってしまっているとの事でした。
年が明けてから、2月までに数度発熱症状を起こしていました。原因として室内熱中症や誤嚥性肺炎が考えられました。誤嚥性肺炎による発熱時は、血中酸素濃度も90を切る状態で一時は危険な状態になりましたが、その時は、点滴が快方に導いてくれました。しかし、この度は点滴が使えません。心臓にこれ以上負担が掛けられないからです。
日曜日の夜までのように、椅子に座って口から食物や水分を与えることも叶わなくなって、月曜日、火曜日、水曜日の午前中までは、ただそばで見守るしか出来ない有様でした。
でも水曜日に看護師さんが訪問され、室温も蒲団の暖房も厚手の衣服も体熱を逃がさないようになっているため、室温を下げましょう、蒲団の暖房は止めましょう、衣服も軽装にしましょうと勧められ、以降はその指導に沿うようにしました。また、横になっている状態での吸い飲み器を使っての水分補給の仕方と、ベッド上でのおしめ交換の仕方を妻と二人で教わりました。
その後、三日ぶりに吸い飲み器で、栄養補給飲料エンシュアリキッドを白湯で薄めて飲ませてみました。顔が横向きの状態で、上になった口元に吸い口を充てて、気持ち一滴ずつ口中に注ぐ気持ちで、時間を掛けて行いました。きっと半分以上は口から漏れて下でカバーしていたタオルやナプキンが受け止めることになったでしょうが、それでも一回につき100ccは飲ませることができました。そして夜には熱も36度台まで下がり、以降は解熱剤等の服用に頼らず、36度台をキープし続けています。水分補給も木曜日の昼過ぎまでに5回ほど行いました。母はベッドで横になり、じっとしていますが、声かけすると、遅れて短く返答をしてくれます。まだまだ頭はしっかりしている様子です。昨日は兄の長男が久しぶりに見舞いに来ました。小さい頃は母とも同居しており、一番気心の知れた孫でして、手を握ったらしっかり握り返したと話していました。
本当に妙な気持ちです。もしかしたら以前の様に快方してくれるのではないか、ベッドに寝たままだけど、気持ちは伝わるし、少ないけれど水分や栄養補給もできる、このまま続ければもしかしたら・・・、という期待もわき上がってくるのですが、現実的にはいつ息が止まってもおかしくない状況であるとの現実からも目を背けることは出来ません。
妙な気持ちで母の側に付き添います。母もずいぶん前までは日々行としてお経を上げていましたので、いまは母の枕元で般若心経や修証義を読誦します。般若心経は生死の境なく歩み続ける人への応援歌と私は理解しています。
キリスト者の妻は、愛情込めて、キリストを信じ受け入れることを母に語ってくれていました。信仰に篤き者には天国の門が開かれるからです。一応私も洗礼を受けた者として、その様子を感謝の気持ちを持って見守りました。
この先のこと、この数日のことは、一体どうなるか分かりません。ですが、この奇妙な時間がもう少し続いてくれる事を願って、いま過ごしています。
追伸
誤嚥性肺炎で体調を崩したときには、春の桜を見に行こう、そして母よりも八つ若い子どもの頃姉妹の様にして育った姪の認知症状が進んだという知らせがあったので見舞いに行こう、それを励ましの言葉として、そして、それが励ましとなって母は快方したと思っていて、それだけは実現させてあげたかったです。
それだけが、唯一の心残りになっています。
それと、7月28日で満年齢が百に到達するので、それも叶えてほしかったです。
まだ、どうなるか分かりませんが・・・
2025年2月2日日曜日
映画「正体」を観て、自由と人権について考えました。
信じたかったんです、この世界を。
正しいってことを、正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって。
外に出てから、生まれて初めて仕事をして、生まれて初めて、お酒を飲んで、友だちができて、人を好きになりました。生きてて良かったって思いました。
そして、もっと生きたいって思いました。
最近の多くの、市井の人が突然に人権を奪われる、踏みにじられる、という出来事を観る度に、私たち一人ひとりに保証されているという自由と人権を根幹とするデモクラシーが、根底から揺らいできているという実感を覚えます。と同時に、根幹である自由と人権とはいったい何かを、私たち一人ひとりが自らの事として真剣に考え直さなければいけないと考えるようになりました。
昨日観た映画「正体」は、自由と人権について考える、とても素晴らしい映像作品でありました。
映画「正体」には本当に心が揺さぶられました。感動しました。その中でも、私が特に救われ、感動したのが冒頭の言葉です。この言葉は、18歳で死刑囚の身に落とされ、三年後に脱獄し、三年間逃亡生活を送った後、再び逮捕され、刑務所に戻された主人公の青年が、最初から青年を犯人と決めつけて執拗に追い詰めてきた刑事の面会に応じ、刑事の「どうして逃げたんだ?」という問い掛けに対して答えた、青年の信条でありました。
https://movies.shochiku.co.jp/shotai-movie/
日本において、そして多くのデモクラシー、民主制を憲法で定める国では、国民一人ひとりに自由と人権が保証されることになっています。
ただ自由ひとつとっても、言論の自由を盾にとり、確証もなにもないのに、誰かを傷つける言動や、誰かに憎しみを植え付ける言動、そしてたとえ確証があったとしても過度に傷つけない配慮やおもいやり、同情心というものが欠ける言動が、今のこの世界には充満して、とても住み辛いものにしています。
そして人権ですら、権力を持つ側が、人権を理由に、盾にして、真実を隠蔽し、本当に人権侵害を受けている人の人権を守らず、その声さえ封じてしまうという疑いの事件を、私たちは何度も目にしてきたのに、真実には決して辿り着けずに、疑いのまま忘れ去れていく様に慣れすぎて、自分自身、人権意識が希薄になってきている様で恐ろしくなります。
私たちの自由と人権は何が問題であるのか?それは「誰の」という対象が曖昧であることだと思います。
当然に、私たちは「私の」自由、「私の」人権と考えます。国という概念のものが、その国民一人ひとりに保証しているのだから、私が「私の」権利として主張することに何ら不都合はないものと考えます。が、その保証されている自由や人権が、他の人と対立した場合には不都合なことが起こります。対立する者同士が、不毛な主張に終始することになれば、やがてそこには亀裂や分断が生じ、対立する者への憎悪が掻き立てられる事になります。
近代デモクラシーが形成されるまでに、この対立や憎しみが、人々を殺し合いに向かわせました。その最たるものが戦争です。それを避けるために、歴史上の賢者は、「寛容になること」を争う人々に説き、また「利己ではなく利他」に尽くす事で、人々の間に平安がもたらされる事を説いてきました。
この「寛容」や「利他」を前提として自由と人権を考えれば、その対象は「私の」ではなく「他者の」ということになる筈です。全ての人が「他者の」自由と人権を尊重するという考えに立てば、それは翻って、「私」以外の全ての人が「私の」自由と人権を尊重してくれるということになります。つまり、私が「他者」を尊重することは、巡り巡って、他者が「私」を尊重してくれることに繋がるのです。こんな世界なら私たちは安心して暮らす事が出来るでしょう。
この様な「寛容」や「利他」の精神は、幼子の時から精神が育まれる年齢を通じて、あらゆる教育の現場で、いつ如何なるところでも、時間を要して、時には厳しく教育する、諭すことが必要でしょう。そして、大人となってからも常に再考する、学び直すこともこれからは必要とすべきでしょう。
「寛容」と「利他」の精神が、少しでも疎かになれば、それがほころびとなって、いつでも私たちの世界が、他者の自由と人権を蔑ろにする、延いては私の自由と人権が蔑ろにされる世界に陥ってしまうことを、私たちは一生肝に銘じておかなければいけないのだと思います。
正しいってことを、正しいって主張すれば、信じてくれる人がいる。
そんな世界に、私たちはこの世界を作り直す必要があるのだと思います。
P.S.
この映画には光と闇が描かれます。光は、風前のともしびであったり、理不尽な逆風に晒されていたり、まだ灯ったばかりの弱々しい光でありました。しかし、光は決して消える事なく、暖かく、心を解かし、人々に希望を気付かせてくれました。
しかし闇には救いがありませんでした。人違いで痴漢の罪を着せられた人を、正義を盾にして悪口雑言の限りを尽くす市井の人、少年法改正で18歳から極刑に処せることになったことを国民に知らしめるための生け贄として主人公の青年に白羽の歯を立てた警察官僚、そして官僚の指示に絶対服従で青年をターミネーターの如く追い詰める刑事、そして公共事業を食い物にして立場の弱い労働者の労働力を搾取し続ける現場監督、見ていて吐き気を催しました。彼ら闇に巣くう者たちは、裁かれる事はありません。それは翻って云えば、彼らの心が救われる事が無いということです。
素晴らしい俳優たちが、そしてこの映画作りに関わった人々全員が、映像の妙、光と影の妙、立ち位置の妙、そして会話劇の妙、全身全霊で演じられる妙で、堪能させてくれました。
どうぞ、多くの人々に、小学生や中学生ならば家族とともに、中学生以上なら、家族や大事な友だちとでも又ひとりでも、絶対に見てほしい映画作品だと思います。
そして、自由と人権について、自らのこととして考えてみてほしいと思います。
2025年1月28日火曜日
もうすぐ七歳
来月2月18日(火)で7歳になります。
猫族は人間よりも5~6倍老化スピードが速いと云われます。
どす黒いもの
昨日1月27日の国際ニュースで、
アウシュビッツ強制収容所が連合軍の一翼であったロシア軍に解放されて80年目を迎え、アウシュビッツ強制収容所で虐殺された約100万人と云われるユダヤ人、そしてロマ人、性的マイノリティーの人々、ナチスに抵抗した人々の追悼祈念式典が行われたことを知りました。
母と同じ年のアウシュビッツを生き延びた99歳のユダヤ人男性が、ヨーロッパ各国で再び他者への寛容さが失われつつある現状に懸念を示し、特に若者たちに対して「人種や宗教、性的な嗜好の違いへの不寛容や敵意の現れ」に注意するよう訴え、ホロコーストの歴史を繰り返さないためにも、差別を煽る主張には賛同せず、許さないでほしいと訴えていたことが印象的でした。
その同日、日本では昨年末雑誌記事で明るみに出たテレビのトップタレントの一人であった人物によるフジテレビの女性アナウンサーへの性暴力に、局ぐるみで関与した疑いを向けられているフジテレビ、並びにフジメディアホールディングスの会長、副会長が、400名の記者、カメラマンを迎えて10時間を超える釈明会見を行いました。
会見の冒頭、一連の騒動の責任をとる形でフジテレビの社長と会長の二人が本日付で辞任したことを報告しました。そして、ジャニーズ性加害問題の釈明会見でも兵庫県知事の告発された諸問題への釈明会見でも見られた、核心部はすべて第三者委員会の調査に委ねているという他人事の様な答弁に終始し、保身と被害者感情を逆撫でする様な答弁を繰り返すばかりでした。
会見の視聴の最中、私は、もしもハンナ・アーレントがこの会見を見たとしたら、どんな感想を洩らしただろうと想像を巡らしました。
ハンナ・アーレントとは、ナチズムが吹き荒れたヨーロッパからアメリカに亡命したドイツ人政治哲学者です。彼女は、1961年にエルサレムで開かれたアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、こんなにも凡庸なナチスの小役人が、600万人とも云われるヨーロッパのユダヤ人を絶滅収容所送りにする輸送の陣頭指揮を執っていたことを知り、愕然とし、「悪の凡庸さ」という概念を記しました。
私は、言葉も不明瞭で、緊張で手が震え、声がうわずる、そして自己保身の発言に終始する辞任したばかりの元社長や元会長を眺めながら、「悪の凡庸さ」という言葉を思い浮かべていました。が、その彼らの様子を注意深く見ていると、それは「悪の凡庸さ」では片付けられない、更にどす黒いものを感じてきました。
アイヒマンは、ナチスドイツ敗戦直後に行方をくらまし、15年近く逃亡しました。しかしモサドの執拗な追跡によって1960年にアルゼンチンで身柄を拘束され、1961年にエルサレムで「人道に対する罪」等15の犯罪の罪で裁判に掛けられました。彼は防弾硝子の透明な箱の中で、自ら「命令されたから行った」と弁明しました。怨みや憎しみの視線を浴びるアイヒマンの写真からは、悔恨の欠片さえ私は見つけることが出来ませんでした。
アイヒマンの身になって想像すれば、もはや孤立無援で、死の足音しか聞こえなかったのではと思います。傍観者にでもならなければ正気を保つ事が出来なかったのではと思います。
翻って、昨日の壇上の人々は、凡庸に振る舞うことで、厳しい追及に耐えきる事で、決して公に出来ない、隠し通さなければならない、守り通さなければならない、人物?もしくは事柄?への忠誠心、未だ活性化した忠誠心を感じるのです。これが私が感じたどす黒いものの正体です。
彼らにとって、会社を潰しても守らなければならない、千万という従業員、関係した人々の人生を台無しにしても守らなければならない、どす黒いものに、光を当て、駆除しなければ、このデモクラシーを標榜する日本自体が早晩滅んでしまうだろうと思います。
2025年1月16日木曜日
震災の記憶
2020年1月に放映されたNHKドラマ「心の傷を癒やすということ」、兵庫県南部地震から30年を迎える今年1月、深夜帯でしたが再放送されたので録画をして観ました。
柄本佑さんが演じる主人公安さんが語った印象的な言葉を書き留めます。
一つめは、第3話の終盤、2000年5月、再建された西市民病院に精神科神経科医長として赴任することになった安医師が、神戸大学医学部付属病院勤務時に研修医として安医師のもとで学び、震災時は安医師と共に被災者の心のケアに奮闘された、そして現在、仕事に行き詰まっていた北林医師に、この病院でまた一緒に働こうと声を掛け、そして「心のケア」とは何かという常々考え続けている自問について話をした、その言葉です。
「僕なぁ、心のケアってなんやろってずーっと考えているんやけど
もしかしたら、一人ひとりが尊重される社会を作るっいうことちゃうかなって
それやりたいんやぁ」
そして二つめは、最終話の第4話、検査した時にはもう手の施しようがない末期癌であった安医師は自宅での終末医療を選択し、愛する家族との大切な晩秋の一日を過ごす中で、身重の妻が落ち葉拾いをする姿を目で追いながら、車椅子を押してくれる母に語った「心のケア」とはの自問の答えの言葉です。
「あぁ、心のケアってなにか解った
誰も独りぼっちにさせへんってことや」
このドラマには、震災によって家族や家や仕事という生き甲斐を奪われ、不安や喪失や悲しみを抱えた上に、それでも弱音を吐けない、迷惑を掛けられないという呪縛の重圧に押しつぶされそうな人々の、一人ひとりの物語が描かれていました。それらは、当時のニュース映像や写真だけでは残せない、一人ひとりの個人的な震災の記憶でした。
明日の震災30年後の1月17日を迎えるにあたり、「震災の記憶」を、これからどう語り継いでいけば良いのかという課題を取り上げた番組がありました。教え子にどのように震災の記憶を教えていけばいいのか、辛い震災の記憶を抱える小学校教師のドキュメンタリーも観ました。
私は次の様に思います。
ヒントは、80年前の8月6日にご自身も広島で原子爆弾により被爆者となった教育者、長田新教授が、6年後の1951年に出版された「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」という題名の作文集です。
長田新教授は、復興が進む広島市の小学生、中学生、高校生そして大学生に作文用紙を配布して、一人ひとりの被災時の記憶、物語を執筆してくれるよう依頼しました。そして集まった作文を編纂して、この本を作られました。
私は、この本に二つの意義を感じています。
一つは、何十人もの年齢も性別も境遇も異なる子供たちの被災の記憶や物語を読み進めることで、私がそうであったように、読者に、当時の広島市の生々しい光景を想像させることが出来ると思うからです。人間というのは、当時は冷静ではいられなかったとしても、数年の月日が、少しは冷静に、客観的に自分の記憶を振り返られるのだと思います。情報が正確で順序立てた筋道で綴られた物語は、読者の理解を促進します。
そして二つめは、手記を書くことで、程度のほどは分かりませんが、各々の中で、一つの区切りとなって、前に進む切っ掛けとなることを期待できるのではと思うのです。
多様な数多くの手記を残すということは、被災者にとっても、そしてその記憶を継承する者にとっても、大事なことではないかと思うのです。
そして、その手記をテキストにして、教師も生徒も関係なく、大人も子供も関係なく、みんなで読み、それぞれの感想を披露しあい、どうすればいいのかを共に考えるのが大事なのだと思います。その考える時間を共有することが、私たちにはとても大事なのだと思います。
明日で、兵庫県南部地震から30年です。丁度、私の娘のように、あの日0歳であった幼児も、今は30歳です。記憶の残る人ならば、全く風化することなく記憶を持ち続けていることだと思います。あの日以降に生まれて震災教育に触れた人も含めたいと思います。みんなで30年まえの記憶、震災の記憶、震災教育の記憶、そして各々の物語を、手記に綴って、それを一冊の本、今ならば、誰でもアクセス出来る震災の記憶データベースを構築して、後世に残すのは、とても意義のあることではないかと思います。
2025年1月13日月曜日
「こころ旅」フォーエバー
昨年11月14日に、視聴者が手紙で綴った心の風景を目指して自転車で旅をするNHKの看板番組を背負ってきた俳優の火野正平さんが亡くなられました。
2024年秋の「こころ旅」は、番組に復帰するためにリハビリを続ける火野正平さんを待って、ゲスト走者の俳優陣が毎週の旅のバトンを繋いでいました。
私は11月26日から始まる317週目三重県の旅が、とても印象的なものになりました。この週の放送は、この番組には珍しく実際の撮影日が画面に映っていました。その週は火野正平さんが亡くなられた週でした。きっと番組制作スタッフの思い入れがあったのだと思います。そしてゲスト走者はこの秋二回目の登場となる女火野正平を自認して朗らかに旅をする田中美佐子さんでした。
11月12日に目的地としたのは三重県鈴鹿市の「長太の大楠」でした。この地の広大な田畑を見守るように立つ大楠を心の風景と刻む81歳の方から、この大楠に雷が落ちて大きな被害を受けたことを人伝に知り心配しているという便りを受けての自転車旅でした。
本当に遠くからでも視認できるほどの大楠でした。傷んだ老木の大樹は、それでも今もこころの風景を見守っている姿を見せてくれていました。
https://www.nhk.jp/p/kokorotabi/ts/PKRKV54PVL/episode/te/BG7KXWYJY8/
そして11月14日の目的地は南伊勢町の「南島大橋」でした。50年前に結婚した妻とずっと大切にしてきたこころの風景を、50年前の事故で車椅子生活となってもずっと側で支えてくれた妻への感謝をこめた便りを受けての自転車旅でした。この日は雨でしたね。靄で煙る風景の中を走った田中美佐子さんが目的地に辿り着いて手紙を再読する姿が印象的でした。この時、田中さんは涙を堪えている様子でした。そして「しっかりと読まなきゃ・・・」という言葉を洩らされました。もしかしたら、ここに訃報が届いたのか、そう思いました。雨に煙る美しい峡谷の風景が、何とも言葉にならないほどに切なく思われました。
https://www.nhk.jp/p/kokorotabi/ts/PKRKV54PVL/episode/te/PV1RPMQ69N/
「こころ旅」、2025年春も、継続されることが発表されましたね。
引き続き、楽しみにしています。春は兵庫も走るそうな、身近な風景がでると嬉しいなと期待しています。
2025年1月1日水曜日
大晦日の病院事情
年末が迫ってきたころ、右眼がごろごろとしだしまして、でも常備の目薬があったのでそれでしのぐ選択をしましたが、間違いでした。大晦日の朝、右眼まぶたは腫れ上がり、左眼までなにやらごろごろしだし、これはエライコッチャと急きょ、ずいぶん昔にお世話になった姫路の休日・夜間急病センターに電話を入れました。でも、まったく電話中で繋がらず、とりあえず妻に運転してもらい急病センターにいくことにしました。
でも、急病センターに着いて唖然としました。駐車場は一杯で、センター外の受付窓口に並ぶ人の列が長蛇となっていました。車の中から施設内部を窺うと、待合と思われる部屋も人の頭が一杯見えました。それでも次々に来院者が車で訪れ、センター外の受付窓口に並ぶ長蛇の列の最後尾に向かっていきます。年末に向かいインフルエンザの罹患者が急激に増えていることは理解していましたが、これはちょっと想像を超えていました。寒風の中で受付をするだけで何時間待たねばならないのか、それに診察の順番が来るのは夕方?という思いがよぎり、診察を受けるのを諦めて、ドラッグストアーを探すことにしました。
大晦日に急病センターを訪れたのは初めての経験でしたが、医療関係者には申し訳ないですが、これは非常事態ではないか、どうにか状況に応じた臨機応変の医療体制の増強などできないものか、と思った次第です。
全国、兵庫、50週で最多の大分
私の右眼ですが、ドラッグストアーでものもらい治療の抗菌目薬と貼る眼帯を買って8時間おきぐらいに交換していますが、四回目の交換時、眼帯に血が混じった膿が付いていて、まだまぶだの腫れは治まっていませんが、痒みが軽減してきたように思います。
今の私の顔、眼帯おんじになってます。
百歳の旅人
1925年7月28日生まれの母は、今日で数え年百一歳になりました。次の誕生日を迎えると満年齢でも百歳に到達です。大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生きてきました。
現在は日常生活すべてに介助は必要ですし、認知症状もだいぶ進んでいますが、決まった時間に寝起きし、椅子に座って食事を摂り、オムツ交換も便器に座らせて行えています。作年11月から利用するようになった訪問看護サービスの看護師さんも、とても体の姿勢が良いと感心されていました。訪問看護サービスを利用するようになって、これまで気付けなかった褥瘡の予防や諦めていた手の拘縮がストレッチやマッサージにより改善した等々、今のところ母にとって訪問看護サービスは良いことばかりです。
じゃんけんをすれば、後出しで勝ちを主張するし、両手の指で足し算をすれば全問正解だし、ちょっと頭の回転まで良くなってきた様子で、この調子で体調を崩さなければ、満年齢での百歳到達も夢ではないように思います。