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藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2025年1月1日水曜日

大晦日の病院事情

年末が迫ってきたころ、右眼がごろごろとしだしまして、でも常備の目薬があったのでそれでしのぐ選択をしましたが、間違いでした。大晦日の朝、右眼まぶたは腫れ上がり、左眼までなにやらごろごろしだし、これはエライコッチャと急きょ、ずいぶん昔にお世話になった姫路の休日・夜間急病センターに電話を入れました。でも、まったく電話中で繋がらず、とりあえず妻に運転してもらい急病センターにいくことにしました。

でも、急病センターに着いて唖然としました。駐車場は一杯で、センター外の受付窓口に並ぶ人の列が長蛇となっていました。車の中から施設内部を窺うと、待合と思われる部屋も人の頭が一杯見えました。それでも次々に来院者が車で訪れ、センター外の受付窓口に並ぶ長蛇の列の最後尾に向かっていきます。年末に向かいインフルエンザの罹患者が急激に増えていることは理解していましたが、これはちょっと想像を超えていました。寒風の中で受付をするだけで何時間待たねばならないのか、それに診察の順番が来るのは夕方?という思いがよぎり、診察を受けるのを諦めて、ドラッグストアーを探すことにしました。

大晦日に急病センターを訪れたのは初めての経験でしたが、医療関係者には申し訳ないですが、これは非常事態ではないか、どうにか状況に応じた臨機応変の医療体制の増強などできないものか、と思った次第です。

※2024年第50週(~12/15)
全国、兵庫、50週で最多の大分

私の右眼ですが、ドラッグストアーでものもらい治療の抗菌目薬と貼る眼帯を買って8時間おきぐらいに交換していますが、四回目の交換時、眼帯に血が混じった膿が付いていて、まだまぶだの腫れは治まっていませんが、痒みが軽減してきたように思います。

今の私の顔、眼帯おんじになってます。

百歳の旅人

1925年7月28日生まれの母は、今日で数え年百一歳になりました。次の誕生日を迎えると満年齢でも百歳に到達です。大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生きてきました。

現在は日常生活すべてに介助は必要ですし、認知症状もだいぶ進んでいますが、決まった時間に寝起きし、椅子に座って食事を摂り、オムツ交換も便器に座らせて行えています。作年11月から利用するようになった訪問看護サービスの看護師さんも、とても体の姿勢が良いと感心されていました。訪問看護サービスを利用するようになって、これまで気付けなかった褥瘡の予防や諦めていた手の拘縮がストレッチやマッサージにより改善した等々、今のところ母にとって訪問看護サービスは良いことばかりです。

じゃんけんをすれば、後出しで勝ちを主張するし、両手の指で足し算をすれば全問正解だし、ちょっと頭の回転まで良くなってきた様子で、この調子で体調を崩さなければ、満年齢での百歳到達も夢ではないように思います。

2024年12月24日火曜日

メリークリスマス!

 キリスト教福音派では、クリスマスについて次の様に示していました。

神は不信仰なイスラエルの民に対して、民を加護する契約として律法(十戒)を与えたが、民は律法を守らず、不信仰は止まず、それがために神は数千年の間に幾人もの預言者を通じて救世主を人間の世に使わせて不信仰を裁くと示したが、それでも民の不信仰は止まず、そして遂に世に現れた救世主イエスまで不信仰故に命を奪ってしまいます。

イエスは磔刑に処された日から三日後に弟子たちの前に現れて、私は再びこの世に現れる(再臨)、そして人間の不信仰を裁き(最後の審判)、不信仰な民は地獄送りにし、信仰篤き民は天国に招くであろうと告げて昇天します。

それ故にクリスマスが示すのは、『神の人間に対する至高の愛と、人間の限りない罪深さである。』と説いています。


日本のクリスチャンは人口の約1%(190万人)と云われます。クリスチャンといっても、カトリックもあれば正教もあればプロテスタントもある。そして多種多様なプロテスタントの中の福音派となれば、さらに少数になるでしょう。

しかし、福音派の本場アメリカの福音派クリスチャンは人口の約22%と云われます。

12世紀の十字軍遠征から始まり、宗教戦争、15世紀のコンキスタドーレスによる新大陸での大虐殺、アフリカ・アジアの植民地化奴隷化、そして20世紀の世界大戦にホロコーストという、今日までこの世界の騒乱は欧米のクリスチャンによるものがほとんどです。現在進行形のウクライナ戦争も中東におけるイスラエルの蛮行も同様です。

昨今の日本のクリスマスの風物詩は、夜空の下、あらゆるものを着飾り輝かすクリスマスイルミネーションにクリスマスツリーでしょうか。そして、子供たちにプレゼントを贈り、家族でクリスマスケーキを食するのが定番の過ごし方です。でもそこにはクリスチャンとしての信仰はほとんどないというのが実情でしょう。そうこうぼんやりしているうちに近い将来、日本もクリスチャンによる戦争に引き込まれることになるかもしれません。それは明日からも知れないのです。クリスチャンでない多くの日本人がクリスチャンの信仰、クリスチャンの野望、クリスチャンの希望、クリスチャンの絶望という夢に、そう他人の夢に巻き込まれてしまう、取り込まれてしまうという白昼夢が現実になるかもしれないということを、このクリスマスの日を切っ掛けにして、少しでも学び、備える準備としなければならないと思います。

2024年12月22日日曜日

クリスマス礼拝への届け物

 今日は母教会でクリスマス礼拝が行われるということで、日頃のお礼をかねて、妻に礼拝後の会食用にとピッツァを教会に持っていってもらいました。

最近、妻が喉荒れ防止にと服用するようになった蜂蜜を利用したお菓子ピッツァと定番のボロネーゼ風煮込みソースピッツァを焼きました。

この冬一番の寒波襲来のため、昨日昼に仕込んだピッツァ生地は超ゆっくりの発酵で、これまでで一番の出来でした。お陰で焼き上がりは周囲の耳がふっくらと膨らみ香ばしい焼きの香り漂うピッツァが出来上がりました。

トッピング:蜂蜜、生ハム、モッツァレラ、
バナナスライス、シナモンパウダー

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」の感想

 Amazonプライムで公開された今年上半期の話題作「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(原題:CIVIL WAR 2024年アメリカ映画)を観ました。

あまりにも真に迫った戦闘シーンの映像の連続で、これはドキュメンタリーではないのかと錯覚を覚えるほどでした。特にラストの大統領拘束のための首都ワシントンでの戦闘シーンの爆音と銃撃音は、きっと映画史に残る戦争の究極のリアリズム表現であったのではと感じています。

しかし、この映画のユニークなところは、アメリカ次期大統領のトランプを彷彿とする、憲法を無視して三期目に突入し、FBIを解体して独裁化に踏み切った大統領に対して、この大統領を排除するために幾つかの州が連邦政府から脱退して反逆軍を立ち上げ、連邦政府と戦争を始めた、南北戦争以来二度目となる内戦にフォーカスを当てたものではなく、学校を出たばかりの戦場カメラマンに憧れるうら若き女性カメラマンが、戦場経験の豊富な記者やカメラマンに随行しながら、いわゆる真の戦争カメラマンへと覚醒するまでが描かれた物語であったことです。

真の戦争カメラマン、私がすぐに連想するその人はロバート・キャパです。22歳のキャパはスペイン内戦に身を投じ、手持ちカメラのライカで、その後のキャパを決定づける一枚の写真を撮りました。「崩れ落ちる兵士」(Falling Soldier)と名付けられたその写真は、頭を撃ち抜かれて後方に崩れ落ちる兵士の、その一瞬を、至近距離にいたキャパがライカのファインダーで捉えシャッターを切り、その一瞬をフィルムの一コマに永遠に封じ込めたものです。キャパはその後も戦場を渡り歩き、戦場のスナップ写真を撮り続けました。そして1954年5月25日に戦場で地雷に接触し爆死しました。

この映画のラストシーンは、まさにキャパの誕生と死がモチーフになっていたのではと私は想像を巡らしました。

カメラのファインダーの魔力なのだと思います。どんな場所にいても、それがどんなに騒々しい場所でも、厳しい山岳の上でも、そして戦場でも、ファインダーを覗いた瞬間、ファインダーの向こうに映る被写体に全集中して、騒音も、寒さ暑さも、そして恐怖さえも消し飛んでしまうんです。そして考えることは、もっと迫りたい、だれも観たことのない角度で迫りたい、描きたい、一瞬を掴みたいと、一線を越えた冒険に身を委ねてしまうんですね。そう神のようになりたいと思ってしまうんですね。その究極が戦場カメラマンなのだと思います。一歩、その道に踏み込んだら最後、我に返った時の恐怖や後悔などで心が押しつぶされながら、病みながら、それでも麻薬のようにファインダーの魔力に抗えずに戻ってしまうんですね。

この映画は、そういうファインダーの魔力に取り憑かれた人間が描かれた、珠玉の映画だと私は思います。

2024年12月7日土曜日

福音について

 福音とは、ユダヤ属州国の為政者や宗教指導者の企みによって磔刑に処される直前に、イエス様が弟子たちを集めて説教された再臨を告げるメッセージのことだと思います。

福音のメッセージは、現在の私たちも聖書に編纂された4つの福音書によって、知ること、学ぶことが出来ます。


先日、私がずいぶん昔に洗礼を受けた教会の現在の牧師が、福音について話された礼拝説教の音声データをメールで送って下さいました。それは、日々の妻との何気ない会話の中で、何故にパレスチナへの無慈悲な侵攻を止めないイスラエルをアメリカは支持し続けるのだろうか、という私ふぜいのどうしようもない憤りの疑問を妻が気に留めてくれていて、妻が通う日曜礼拝のある日の牧師の説教が、私の憤りの疑問に応えてくれそうな内容であったことから、牧師に相談し、その日の礼拝説教の音声データを私宛てに送って頂けることになったのです。


私の拙い理解です。

メッセージは、マタイ福音書24章32節の「いちじくの木からこの教訓を学びなさい。」から始まる福音についての聖書の御言葉の学びでありました。

32節続き、33節「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことが分かる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」。いちじくの木はイスラエルの民を象徴していると云います。

そして、36節「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と、福音が成就するその日、その時は、天の父であられる主の御心だけにあることが語られています。

しかし、34節、35節「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」

そして、37節「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」

39節「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気づかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」

42節「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」と戒めのメッセージが続きます。


また挿話で、現在のイスラエルについて話されました。

西暦のはじめのころに起こった二度のユダヤ戦争によって、殺され、神殿を破壊され、エルサレムから追放されたイスラエルの民は世界中に離散することになったけれど、イスラエルの民の神への信仰と絆は強く、様々な患難にも信仰を守り耐え忍んで来ました。そして19世紀末にシオニズム運動(目的はユダヤ教徒のパレスチナへの帰還と祖国の再興)が始まり、西欧諸国で金融業などで巨万の富を築き、巨大な力を手にした人々の後援によって、帰還事業は進み、イスラエルの民はパレスチナの土地を原住民から買いあさり入植地を拡げていき、遂に第二次世界大戦の戦勝国を母胎とする国連の承認によって、1948年にパレスチナの地にイスラエル国が建国されました。それは、キリスト教プロテスタントの福音派の人々に、「いちじくの木の教訓」を呼び覚ますことになったようです。

しかし、パレスチナの地を追われた原住民や周辺の非ユダヤ教、非キリスト教の国々の人々、アラブの人々は一方的なイスラエル建国に反対し、イスラエルとの戦争を始めました。しかし、劣勢と思われたイスラエルは、その戦争に勝ち続け、支配地を拡げていきました。それは福音派の人々を活気づかせることになったようです。

また別の挿話では、「666」の数字にまつわる陰謀の話もありました。

聖書では、「7」は完全数とみなされ、完全数が3つ並んだ「777」は三位一体の神を現すと考えられています。しかし、「6」は完全数に1つ足らない数字で、不完全な数字であり、「666」は神になろうとしているが、決して神になれない存在を指すと考えられています。

この「666」という数字が、現在私たちの商習慣に欠かせないものとなったバーコードに隠されているというもので、神になれない存在、つまり悪魔が私たち人間を支配するために私たち人間の世界にバーコードを浸透させているという陰謀です。この様な陰謀論も、福音派の人々には、再臨の前に起こると告げられた不信仰者が一掃される大艱難の印しと捉えられているようです。


繰り返しますが、マタイ福音書24章36節「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と、福音が成就するその日、その時は、天の父であられる主の御心だけにあることが語られています。

御使いたちにも、イエス様ご自身も知らない事を、私たちが知る由など有り得ないという事です。

そして42節「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」と戒めのメッセージが続きます。だから私たち人間に出来ることは、神様の御心に適う者として日々を過ごすことであり、不信仰に陥ってはならないと戒められているのだと思います。

私は、説教の挿話から、今の世に広がる乱れ、陰謀、そして戦争は、ノアの時代の大洪水と同じ私たちの大艱難の始まりという盲信的な人間が想像する期待や恐怖であって、惑わされずに生きていけたらと思いました。


以上が私の拙き理解の全てです。

そして、何故アメリカがイスラエルの支援を止めないのか、という憤りの疑問については、次のように理解しました。

その前に、何故にこの様な疑問を抱いたかと云いますと、古いアメリカ映画「紳士協定」の記憶が未だ鮮明であったからです。この映画では、第二次世界大戦後までアメリカ社会にあった反ユダヤ主義、ユダヤ人排斥感情が赤裸々に描かれていました。それは、ポグロムやホロコーストの様な苛烈なユダヤ人殲滅という強権が動いたものではなく、アメリカ人の多くのキリスト教徒の心の中にある、根深いユダヤ教徒への嫌悪感が作り出した社会の雰囲気であったように思います。しかし、それでもアメリカ社会の様々な場面で差別され、ユダヤ教徒というだけで、進学の機会も就職の機会も奪われてしまうというのは、死ぬか出て行けと言われているのと同じで、差別を受けたユダヤ教徒には、非常に残酷であったと思います。

それが、何故今、アメリカの建国の父が、未来のアメリカ国民に願ったヒューマニズム、人種、性別、宗教などで差別することなく、あらゆる人々の人権を尊重する、自由を尊重するという信念を曲げてまで、親イスラエルに偏重し、イスラエル建国と戦争によってイスラエルが占領した地から追われた人々の人権、ガザ地区やヨルダン川西岸地区でイスラエル軍の猛火やイスラエル人入植者の暴力に脅かされている人々の人権が顧みられないのか。

そこには、冷戦の始まりに、

・油田の宝庫である中東での権益をアメリカの手に置きたい

・しかしソ連の影響によりアラブ社会に共産主義と反米主義が広がりつつある

という問題に対処するために、中東地域で力を持ちつつあるイスラエルを軍事的にも経済的にも支えることで中東でも影響力を行使することにした。

それに伴い、アメリカの主要産業である軍事産業が活気づき、現在では数百億ドルとも云われるイスラエル支援費の大半が武器の輸出に占められることとなり、軍事産業のロビー活動がアメリカ政治に多大な影響を与えることとなった。

そして、比較的近代に起こったプロテスタントの福音派の運動が、イスラエル建国によって、クリスチャン・シオニズムを主張することとなり、イスラエル建国と継続を支持することになった。そして現在、アメリカ国民の三分の一を占めると云われる福音派のクリスチャンが、アメリカ政治に多大な影響を与えることになった。

という3つの理由を突き止めることが出来ました。


でも、やはり私は思います。再び繰り返しますが、

マタイ福音書24章36節「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と、福音が成就するその日、その時は、天の父であられる主の御心だけにあることが語られています。

御使いたちにも、イエス様ご自身も知らない事を、私たちが知る由など有り得ないという事です。

そして42節「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」と戒めのメッセージが続きます。だから私たち人間に出来ることは、神様の御心に適う者として日々を過ごすことであり、不信仰に陥ってはならないと戒められているのだと思います。


アメリカ国民には、あなたがたの建国の父が願った様に、ヒューマニズム、人種、性別、宗教などで差別することなく、あらゆる人々の人権を尊重する、自由を尊重するという信念に立ち戻って欲しいと、真に願います。

それが神の御心に適うことだと、私は真に思います。


2024年12月1日日曜日

リトルプリンス 星の王子さまと私

 12月になりました。都会では華やかなクリスマスイルミネーションが夜に輝き、クリスチャンではない大勢の人々にも、人恋しさを誘い、家族や友人、恋人との時間へと誘います。

恒例ではないですが、クリスマスに向けてとっておきの映画を一本ご紹介したいと思います。それは邦題『リトルプリンス 星の王子さまと私』(2015年フランス制作アニメーション)。原題は、サン=テグジュベリの原作と同じ英語題『The Little Prince』です。


舞台は現代、主人公は小学六年生の女の子です。

女の子の母親は、物語の中では多くは語られていませんが、大人になって苦い経験を続けてきたのでしょう、夫婦関係も同様にです。それが理由かは分かりませんが、女の子には、誰に支配されること無く明るい人生を歩ませるために、まずは超有名な進学校に進ませるために、進学に有利な校区に住まいを変え、受験日までの一年間のタイムスケジュールを設計して、その通りに受験勉強中心の生活を女の子に強いりました。女の子も母親の思いに応えるために、一生懸命に毎日を過ごしていましたが、ある日起こった事件が、女の子の心に小さな変化をもたらしました。

その事件は、隣家の住人が引き起こしたものでした。隣家にはとても高齢な老人が一人で住んでいました。この町は、まるで集積回路の様な画一化した町並みでしたが、老人の住む隣家だけは骨董の如く古ぼけた家で、庭の草木は伸び放題、その草木に埋もれるように、骨董品の壊れた一人乗り用プロペラ機が置かれていました。この町の住民は、この老人をこの町には馴染まないもうろくした変人と見なし、関わらないようにしていました。

ある日、いつもの様に女の子が勉強をしていると、突然家の壁を突き破りプロペラが入ってきました。その事故は、老人が壊れた飛行機をどうにか修理して飛び立とうとエンジンを回したことにより、先端に取り付けられたプロペラが回転しながら外れて、女の子の家の壁を突き破って起こりました。女の子の母親が仕事先から急いで家に帰り、警察の仲介のもと老人の謝罪と保険での修理を了承して一応落着を見ましたが、でも、女の子は、これまで出会ったことのない行動をする老人にとても強い興味を抱きました。

そして女の子は母親に内緒で老人の家を訪問することにしました。老人は当初、とてもおどおどしながら女の子に接しましたが、女の子が老人が書いたある物語に興味を示したことから、その物語を通じて二人は心を通わせます。

その物語は、老人がずっと若い頃、沙漠を横断して郵便物を運ぶ一人乗りプロペラ機のパイロットであったころに、不時着した沙漠の真ん中で出会った幼い少年との交流の物語でした。

沙漠に不時着したパイロットは、水を求めオアシスの井戸を探して歩いていると、一人の幼い少年に出会いました。少年は、とても小さな星にひとりで住む王子だと名乗ります。

ある日、その小さな星にとても美しい真っ赤な花が一輪咲きました。王子は、その花を心から愛して、花が望むどんなことにも従いましたが、花はどんどんと傲慢になっていき、遂に王子は花に絶えられなくなって花を残し、小さな星から風船に乗って飛び立ちました。

そして王子は夜空に輝く星々を訪ね歩きました。しかし、自惚れ屋の星、年老いて尚ふんぞり返る王の星、夜空の星を全部自分のものとするために金儲けに邁進するビジネスマンの星等々、訪ね歩いた星々は王子を少しも慰めてはくれませんでした。

そして王子は、最後に地球に降り立ちました。この地球で王子は、初めとなる友だちが出来ました。それは一匹の狐でした。王子は狐の「大切なことは目に見えないんだよ」という言葉で、とても大切な事柄を悟ります。それは、自分が愛されたいから他者に尽くすのではなく、心から他者を大切にし愛することで自らが満たされるという真理です。

そして王子は、星に残してきた花が、地球で出会った沢山の薔薇の花と同じものであることを知り、ひとり星に残した一輪の薔薇の事を思い、星に帰ることを決心します。そして、星に帰るためにサハラ砂漠に来たのでした。

女の子は、ここまでの物語にとても感動し、物語が教えてくれる大切なことに惹かれていきます。そして老人への思慕の念を深めていきます。

しかし王子の物語は、女の子をとても悲しませる結末でした。

王子は、パイロットを水が満たされた井戸に導き、パイロットが飛行機を修理して飛び立てる準備が出来たことを見守ってから、パイロットに星に帰るための別れを告げます。

それは、沙漠に棲む毒蛇に噛まれて死ぬ事でした。死ぬ事で王子は地球で得た肉体を離れ、自由になって星に帰るというものでした。

王子の死は、女の子にとって、老人との別れを象徴していました。女の子は、その物語の結末を受け入れられず、老人に憤りをぶつけてしまいます。

母親は、ずっと女の子が老人と親しくなるのを苦々しく思っていましたが、女の子が老人から貰って読んでいた「星の王子さま」の物語を見つけて読んで、母親も「とても大切なこと」に気づかされることになりました。そんな時、老人が自宅で倒れ、救急車で病院に運ばれることになりました。

女の子は、とても憔悴しました。そして深い眠りに落ちたとき、老人がずっと気に掛けていた星の王子さまの消息を訊ねようと思い立ち、狐とともに、老人の庭のプロペラ機に飛び乗って夜空に飛び立ちました。

しかし、夜空には星が一つも輝いていませんでした。実は、夜空中の星々全てをビジネスマンが金にものを言わせて自分のものにして、スノードームに閉じ込めてしまっていたのです。女の子は、ビジネスマンが作り上げた帝国の星に降り立ちました。そこで働く人たちは、規則に縛られ、ビジネスマンの金を稼ぐ道具に成り果てていました。子供たちは、机に括られ、昼夜、勉強すること、そしてビジネスマンに従うことを身に染み込ませられていました。女の子はその大都会のビルの屋上で、煙突掃除を任じられて働いている気の抜けた青年が、あの星の王子さまだと察して、パイロットが長らく王子さまのことを気に病んでいたことを伝え、この星から脱出して、王子さまの星に戻って薔薇に会うことを求めます。女の子と狐と青年は、ビジネスマンのスノードームを破壊して、夜空に星々を返し、そしてプロペラ機に乗って、王子さまの星に辿りつきます。

しかし、薔薇の花は、すっかり枯れてしまっていました。嘆く青年の前に朝焼けが広がります。真っ赤な朝焼けは、薔薇の花の復活を明示していました。見ると青年は、もとの純粋な幼い少年の姿に変わっていました。そして、女の子は笑顔で星の王子さまと別れ、地球を目指します。

女の子は、入院している老人の病室を訪れます。そして、女の子が体験した物語を老人に話します。

女の子は無事、希望した中学校に入学します。でも女の子は、損得で物事を見るのではなく、本当に大切なことに心で感じることを、自分だけでなく、クラスメイトにも伝えられるよう学校生活を励もうと、学生生活の一歩を踏み出します。


拙いあらすじでは伝えきらない、この映画の美しい映像には、心が真から洗われます。

実際のサン=テグジュベリは、ヒトラーがヨーロッパに暗黒をもたらしている最中、自由フランス空軍に志願し、偵察飛行の最中に消息不明となり、ついに帰らぬ人となりました。が、この物語では、サン=テグジュベリはどこかで生き延び、現代まで生き延びて、どんなに時代が移り変わっても、どんなに時代の要請で価値観が変わろうとも、人にとって本当に大切なことを守り通して生きていました。そんな生き様に、私はどんなに年齢を重ねようと、たとえもうろくしようとも、憧れていたいと思っています。