今年は梅雨入りが例年にないほどに遅かったですね。気象庁の発表では、近畿地方の梅雨入りは例年より19日遅い6月26日(水)ごろと発表されました。(梅雨明けも例年より3日遅い7月24日(水)ごろと発表されました。)
その梅雨の最中の出来事でした。
我が町北浜町で、何度も猿の目撃報告と注意を促す防災放送が流れました。
そして、あれは7月13日(土)の夕方の事でした。ちょうど小雨降る裏庭の風景を眺めていた家族の目に、裏庭の向こうの西浜川のフェンスの上を器用に伝い歩きしながら北へと進む猿の姿が目に飛び込んできました。家族の「猿が出た」という高揚した叫び声が二階にいた私の耳に届きました。その時、猿を目撃したのは一階にいた家族とウルちゃんでした。ウルちゃんもテレビ台の上に乗って窓に手をかけ立ち見で外を凝視していました。
一本松連中にLINEで一報を書き込むと、すぐにぼーさんから「家の裏の畑の野菜がやられた様子」、またカズヤから「牛谷も出た」と追記の書き込みがありました。
でも私自身、まだ猿は見ておらず、取り残された様な気分でした。
そして翌日、庭で草引きをしていると、また猿が出たとの町内放送があり、ふと見ると同じように掃除をしていたのであろうと見える同じ隣保の一本松連中たかちゅんが川向こうで小学校の方に歩きながら、何やらニコニコしています。見ると小学校の方から市民の通報を受けてパトロールをしていた警官がこちらに向かっていました。その後で、高砂市のの危機管理部の職員もやって来ました。近所のFおっちゃんも自転車に乗って来ました。猿の出没騒動で、不謹慎かもしれませんが、私は野生猿と遭遇するかもしれないという、何というか心がざわめく気持ちになっていました。
たかちゅんと二人で、危機管理部の職員に話を聞くと
ひとつきほど前に牛谷に大人の猿が一頭出没するようになり、しばらくして北脇、西浜を飛び越えて的形町にも出没するようになり、遂に北脇、西浜、そして大塩町に現れたという話でした。
また、猿の捕獲罠ですが、兵庫県には二台しかなく、その罠は先に出没した牛谷と的形に仕掛けているため、北浜町では人間がパトロールするしか今のところ術がないとのことでした。
また、この猿は八家にある森に生息している群れから離れた猿ではないか、ということでした。
Fさんの話では小猿を見たという話もあって、いま追っている離れ猿とは別に親子猿がいるかもしれないという話も出ました。
また猿は、放っておくとどんどん大胆な行動に出ているようで、大塩町の方では民家の軒を強く揺らす悪さをしていたという話も聞きました。
たかちゅんは、私の家の物干し竿を指さして、
「猿がまたフェンスに現れたら、お前がその物干し竿で川に突き落とせばええやんか」と笑いながら指図をします。
「そんなことできるわけないやろ」と言い返すと
「そしたら連中に応援頼めばいいやん」
「そんなんアテにならんやろ、離れてビールでも飲みながらはやしたてるんがオチやん」
と、まあしょうも話を一時してからお開きしました。
その翌日の事です。早朝、庭で水まきをしていると、隣家との境目のブロック塀を伝って猿が目の前に現れました。顔の真っ赤な、立派な野生のニホンザルでした。遂に猿とご対面を果たしたことで、思わず笑ってしまいました。そして猿に向けて放水すると、おずおずと後ろ向きに退場しました。後を追うと、もう姿はありませんでした。
それから、今日まで我が町で猿が再び出没したという話は聞きません。
あの猿はどこかに行ってしまったのか、仲間たちの元に戻っていたらな良いなあと思います。
大好きな映画の話、本や朗読の話、また高校野球の試合観戦記、地元播磨の散策記など徒然に書いています。 その他にも、しょうもない昔話やちょっとしたエッセーなども書いています。 本でも読む感覚で読んで頂いて、面白ければ訪問カウンター下にある[G+1]ボタン(Facebookのいいねボタンの様なものです)を押して頂ければ嬉しいです。また、コメントの書き込みも楽しみにしています。
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パンデミックと戦うことを考える
昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...
2019年8月24日土曜日
2019年8月23日金曜日
映画「ひろしま」を観て
8月16日の深夜零時に放送された映画「ひろしま」(1953年)、観られましたか?
私は観ました。ですが、家族には録画した映画の鑑賞を薦めましたが、重いと拒絶されてしまいました。
私は、以前のブログでも書きましたが、長田新さんが1951年に編纂された「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を今年読み、その関連として映画「ひろしま」を知りました。でも同時に、まだ連合国軍(ほぼアメリカ軍)の占領下にあり、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発したことで、連合国軍の主導のもと施行された新憲法で第9条が謳われながら、再び戦争に加わる事になった当時の日本では、反原爆、反戦、そして反米の訴えが汲み取れるこの映画「ひろしま」は公に上映することができず、それは今日に至っても続いていることを知りました。ですから、テレビで放送されることを知った時は驚きがありました。
映画「ひろしま」は、文集「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を下敷きとして、原爆を経験した広島の市民8万8千人がエキストラとして参加した、原爆罹災者による再現ドラマと言えるかも知れません。健康な男子は戦争に兵隊として取られ、銃後の、女、子ども、お年寄りが中心の日常生活の頭上に突然、太陽の様な閃光を伴って炸裂した原子爆弾は、一瞬にして、半径1㎞の範囲を焦土にし、半径4㎞の範囲を爆風と放射能で破壊しました。それが真に一瞬の出来事であったか、映画は閃光の後、破壊された家並みと下敷きになった人々の姿で物語っていました。その破壊された、なぎ倒された建物から次々に火の手が上がり、それはすぐに猛火となって広島の市街地を焼き尽くし始めます。多くの人々が、瓦礫の下に埋もれたまま焼け死にました。瓦礫に埋もれなかった人々も、重度な裂傷や火傷を負った人々は、苦しみの末に亡くなりました。歩いて逃げられる人々も火の海に阻まれて逃げ道を失い次々に亡くなりました。そして、避難所に辿り着いたとしても、原爆の放射能に冒された人々は、原爆症によって次々に亡くなりなりました。そして焼き尽くされた街に残されたのは、家族を失った人々、親を失った子供達、そして原爆症に怯える人々でした。そんな映画で描かれた悲惨な光景は、「原爆の子」に掲載された罹災者である子供達の記憶を再現したものでした。原爆投下時、下は4,5歳から上は中学生までの子供達が実際に体験した光景でした。
この映画「ひろしま」には、現在の私たちも直面する普遍的な二つの問題への問い掛けがありました。一つは、知ろうとしない事(無知)の罪悪です。
それは冒頭シーン、原爆投下から7年後の、高校の一クラスでの出来事です。
ラジオから流れる「0の暁」の朗読を視聴中にひとりの女学生、大場さんが鼻血を流し倒れます。入院して検査を受けると白血病でした。クラス担任は終戦後に広島に赴任してきた人で、誠実な人柄でしたが、これまで原爆のことに関心を持つことはありませんでした。しかし、この一件が、先生を原爆の罹災者である人々、特に子供達が抱える問題に目を向けさせることになります。
先生は、クラスの生徒に問い掛けます。
原爆の罹災者は手を上げて下さい、するとクラスの約三分の一が手を上げました。
これには意味があります。「原爆の子」の後書きに書いてありますが、広島市は戦前40万人を越える人口がありました。しかし、終戦時には9万人になっていました。原爆の罹災によって二十数万の人々が亡くなり、また他所へ転出する人も多くいたからです。しかし、広島市の復興事業が興るとともに他所から転入する人が増えて、6年後には戦前の人口ほどに戻ります。広島市は、今や三分の二以上の市民が原爆の惨劇を知らない人たちとなっていました。
一人の罹災を経験した女生徒に体の不調がないかとたずねると、その生徒は体の慢性的なだるさを口にします。それを聞いていた男子生徒から揶揄する言葉が飛んでクラス中で笑いが漏れます。女生徒はうつむいて黙り込みます。
これもまた「原爆の子」に書かれていました。ケロイドが残る人たち、放射能に冒されて慢性的な疲労に苦しむ人たちは、原爆の惨劇を知らない人たちから、原爆罹災に託けて怠けている、お金を無心していると非難され、まるで原爆罹災によって苦しむことが犯罪の様におもわれて二重の苦しみを負っていました。
罹災を経験した男子生徒が立ち上がり、クラスの皆に訴えます。
僕たちは、原爆の後遺症によっていつ命が奪われるか、ずっと怯え続けながら暮らしている。
原爆症は最新の医療によって治せるのかも知れないが、それは一握りの人たちのものであって、僕たちには与えられない。だから原爆罹災者の中には、ケロイドを見世物にして生きて行かざるを得ない人がいる。原爆乙女と公然にして支援を訴えざるを得ない人がいる。浮浪者となって旅人の情けにすがらざるを得ない人たちがいる。しかし多くの罹災者は、ケロイドを隠し、原爆罹災者であることを隠し、苦しみながらひっそりと暮らしている。
広島市は今、原爆が落とされた街として平和を世界に訴えているけれど、僕は世界の人たちに訴える前に、日本の人たちに、広島市の人たちに、このクラスの仲間たちに、先生に、原爆が招く惨劇と原爆によって苦しむ人々のことを知って欲しいし、考えて欲しい。
最後に先生は、無知であったこと、それが生徒を苦しめていたことを、生徒全員に謝罪します。
二つ目の普遍的な問題は、不正に目をつぶり、あるい不正と知りながら加担する事の罪悪です。
クラスの仲間であった遠藤君の話です。遠藤君は、広島に原爆が落ちた時、学童疎開中でしたが、家族は原爆によって全員死亡し、敗戦後は孤児として惨めな暮らしを送りました。学校も流川でボーイをしながら通っていました。しかし、学校も辞め悪い仲間とつるむようになりました。しかし、更生の機会を得て、小さな町工場でようやく汗水流しながら働くようになりますが、朝鮮戦争が始まり、工場で鉄砲の弾を作るようになって、それが嫌で工場を辞めました。
戦争によって、原爆によって、優しい家族をいちどに失い、一転して苦境の道を歩まねばならなくなった遠藤君にとって、戦争や原爆は親の敵、家族の敵で、決して肯定することも加担することもできません。子どもであるがゆえに、純粋ゆえに、信条と信条と異なる行動を取るという不条理に堪える事ができません。
朝鮮戦争は、日本の敗戦復興の起爆剤となりました。もしも朝鮮戦争が勃発しなければ、日本の高度成長は許されなかったのではないか、と想像します。また、当時の日本は、占領軍(アメリカ軍)に従うしか選択はなかったとも思います。反抗すれば罪人となって刑務所に送り込まれたでしょうし、従うことが日本のメリットであると誰もが認識していたとも思います。それが決して正しい選択ではなかったとしてもです。
でも正しいこと正しくないことを学校で学んでいた子供達にとっては、筆舌に尽くし難い矛盾であったのではないかと思います。
以上で述べた普遍的な問題は、現在の日本社会においても、また国際社会においても数多くあります。
しかも、優勢な勢力の意見や意思が、異なる意見や意思を、尊重することなく、攻撃し、またデモクラシーの砦であるはずのジャーナリズムやマスコミュニケーションまでが、優勢な勢力に靡いて、異なる意見や意思の抹殺に手を貸す始末です。
普遍的な問題とはデモクラシーの存立の問題だと思います。
小さな意見、異なる意見、見ざる言わず聞かざるの問題に対する意見に、国民の誰もが真摯に耳を傾け、批判や攻撃ではなく、良識と尊重を交えながら互いに議論し、後世に恥じない選択をしながら前に進む事が、デモクラシーの理念であると思いますし、民主主義国家、デモクラシー国家を名乗る限り、それを求め続けなければいけないのだと思います。
無知となり、不正に目をつぶる、不正に加担することはデモクラシーの破壊行為であり、それは人権や自由を自ら放棄する行為なのだと思います。
その先にあるのは、独裁であり、戦争であり、死です。
追伸.
この映画で取り上げられた
0 (ゼロ) の暁 : 原子爆彈の發明・製造・決戰の記録
W.L.ローレンス著 ; 崎川範行訳
(創元文庫, D-17)
創元社, 1951.12
僕らはごめんだ : 東西ドイツの青年からの手紙
篠原正瑛編
學生社, 1961.6 c1956
是非探して読みたいと思います。
私は観ました。ですが、家族には録画した映画の鑑賞を薦めましたが、重いと拒絶されてしまいました。
私は、以前のブログでも書きましたが、長田新さんが1951年に編纂された「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を今年読み、その関連として映画「ひろしま」を知りました。でも同時に、まだ連合国軍(ほぼアメリカ軍)の占領下にあり、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発したことで、連合国軍の主導のもと施行された新憲法で第9条が謳われながら、再び戦争に加わる事になった当時の日本では、反原爆、反戦、そして反米の訴えが汲み取れるこの映画「ひろしま」は公に上映することができず、それは今日に至っても続いていることを知りました。ですから、テレビで放送されることを知った時は驚きがありました。
映画「ひろしま」は、文集「原爆の子 広島の少年少女の訴え」を下敷きとして、原爆を経験した広島の市民8万8千人がエキストラとして参加した、原爆罹災者による再現ドラマと言えるかも知れません。健康な男子は戦争に兵隊として取られ、銃後の、女、子ども、お年寄りが中心の日常生活の頭上に突然、太陽の様な閃光を伴って炸裂した原子爆弾は、一瞬にして、半径1㎞の範囲を焦土にし、半径4㎞の範囲を爆風と放射能で破壊しました。それが真に一瞬の出来事であったか、映画は閃光の後、破壊された家並みと下敷きになった人々の姿で物語っていました。その破壊された、なぎ倒された建物から次々に火の手が上がり、それはすぐに猛火となって広島の市街地を焼き尽くし始めます。多くの人々が、瓦礫の下に埋もれたまま焼け死にました。瓦礫に埋もれなかった人々も、重度な裂傷や火傷を負った人々は、苦しみの末に亡くなりました。歩いて逃げられる人々も火の海に阻まれて逃げ道を失い次々に亡くなりました。そして、避難所に辿り着いたとしても、原爆の放射能に冒された人々は、原爆症によって次々に亡くなりなりました。そして焼き尽くされた街に残されたのは、家族を失った人々、親を失った子供達、そして原爆症に怯える人々でした。そんな映画で描かれた悲惨な光景は、「原爆の子」に掲載された罹災者である子供達の記憶を再現したものでした。原爆投下時、下は4,5歳から上は中学生までの子供達が実際に体験した光景でした。
この映画「ひろしま」には、現在の私たちも直面する普遍的な二つの問題への問い掛けがありました。一つは、知ろうとしない事(無知)の罪悪です。
それは冒頭シーン、原爆投下から7年後の、高校の一クラスでの出来事です。
ラジオから流れる「0の暁」の朗読を視聴中にひとりの女学生、大場さんが鼻血を流し倒れます。入院して検査を受けると白血病でした。クラス担任は終戦後に広島に赴任してきた人で、誠実な人柄でしたが、これまで原爆のことに関心を持つことはありませんでした。しかし、この一件が、先生を原爆の罹災者である人々、特に子供達が抱える問題に目を向けさせることになります。
先生は、クラスの生徒に問い掛けます。
原爆の罹災者は手を上げて下さい、するとクラスの約三分の一が手を上げました。
これには意味があります。「原爆の子」の後書きに書いてありますが、広島市は戦前40万人を越える人口がありました。しかし、終戦時には9万人になっていました。原爆の罹災によって二十数万の人々が亡くなり、また他所へ転出する人も多くいたからです。しかし、広島市の復興事業が興るとともに他所から転入する人が増えて、6年後には戦前の人口ほどに戻ります。広島市は、今や三分の二以上の市民が原爆の惨劇を知らない人たちとなっていました。
一人の罹災を経験した女生徒に体の不調がないかとたずねると、その生徒は体の慢性的なだるさを口にします。それを聞いていた男子生徒から揶揄する言葉が飛んでクラス中で笑いが漏れます。女生徒はうつむいて黙り込みます。
これもまた「原爆の子」に書かれていました。ケロイドが残る人たち、放射能に冒されて慢性的な疲労に苦しむ人たちは、原爆の惨劇を知らない人たちから、原爆罹災に託けて怠けている、お金を無心していると非難され、まるで原爆罹災によって苦しむことが犯罪の様におもわれて二重の苦しみを負っていました。
罹災を経験した男子生徒が立ち上がり、クラスの皆に訴えます。
僕たちは、原爆の後遺症によっていつ命が奪われるか、ずっと怯え続けながら暮らしている。
原爆症は最新の医療によって治せるのかも知れないが、それは一握りの人たちのものであって、僕たちには与えられない。だから原爆罹災者の中には、ケロイドを見世物にして生きて行かざるを得ない人がいる。原爆乙女と公然にして支援を訴えざるを得ない人がいる。浮浪者となって旅人の情けにすがらざるを得ない人たちがいる。しかし多くの罹災者は、ケロイドを隠し、原爆罹災者であることを隠し、苦しみながらひっそりと暮らしている。
広島市は今、原爆が落とされた街として平和を世界に訴えているけれど、僕は世界の人たちに訴える前に、日本の人たちに、広島市の人たちに、このクラスの仲間たちに、先生に、原爆が招く惨劇と原爆によって苦しむ人々のことを知って欲しいし、考えて欲しい。
最後に先生は、無知であったこと、それが生徒を苦しめていたことを、生徒全員に謝罪します。
二つ目の普遍的な問題は、不正に目をつぶり、あるい不正と知りながら加担する事の罪悪です。
クラスの仲間であった遠藤君の話です。遠藤君は、広島に原爆が落ちた時、学童疎開中でしたが、家族は原爆によって全員死亡し、敗戦後は孤児として惨めな暮らしを送りました。学校も流川でボーイをしながら通っていました。しかし、学校も辞め悪い仲間とつるむようになりました。しかし、更生の機会を得て、小さな町工場でようやく汗水流しながら働くようになりますが、朝鮮戦争が始まり、工場で鉄砲の弾を作るようになって、それが嫌で工場を辞めました。
戦争によって、原爆によって、優しい家族をいちどに失い、一転して苦境の道を歩まねばならなくなった遠藤君にとって、戦争や原爆は親の敵、家族の敵で、決して肯定することも加担することもできません。子どもであるがゆえに、純粋ゆえに、信条と信条と異なる行動を取るという不条理に堪える事ができません。
朝鮮戦争は、日本の敗戦復興の起爆剤となりました。もしも朝鮮戦争が勃発しなければ、日本の高度成長は許されなかったのではないか、と想像します。また、当時の日本は、占領軍(アメリカ軍)に従うしか選択はなかったとも思います。反抗すれば罪人となって刑務所に送り込まれたでしょうし、従うことが日本のメリットであると誰もが認識していたとも思います。それが決して正しい選択ではなかったとしてもです。
でも正しいこと正しくないことを学校で学んでいた子供達にとっては、筆舌に尽くし難い矛盾であったのではないかと思います。
以上で述べた普遍的な問題は、現在の日本社会においても、また国際社会においても数多くあります。
しかも、優勢な勢力の意見や意思が、異なる意見や意思を、尊重することなく、攻撃し、またデモクラシーの砦であるはずのジャーナリズムやマスコミュニケーションまでが、優勢な勢力に靡いて、異なる意見や意思の抹殺に手を貸す始末です。
普遍的な問題とはデモクラシーの存立の問題だと思います。
小さな意見、異なる意見、見ざる言わず聞かざるの問題に対する意見に、国民の誰もが真摯に耳を傾け、批判や攻撃ではなく、良識と尊重を交えながら互いに議論し、後世に恥じない選択をしながら前に進む事が、デモクラシーの理念であると思いますし、民主主義国家、デモクラシー国家を名乗る限り、それを求め続けなければいけないのだと思います。
無知となり、不正に目をつぶる、不正に加担することはデモクラシーの破壊行為であり、それは人権や自由を自ら放棄する行為なのだと思います。
その先にあるのは、独裁であり、戦争であり、死です。
追伸.
この映画で取り上げられた
0 (ゼロ) の暁 : 原子爆彈の發明・製造・決戰の記録
W.L.ローレンス著 ; 崎川範行訳
(創元文庫, D-17)
創元社, 1951.12
僕らはごめんだ : 東西ドイツの青年からの手紙
篠原正瑛編
學生社, 1961.6 c1956
是非探して読みたいと思います。
2019年8月14日水曜日
映画「ひろしま」 Eテレで8月17日(土)午前0時から放送
広島に原爆が投下されてから6年後の1951年に、広島大の教育学者である長田新さんが原爆罹災者の少年少女の訴えを作文という形で収集され、編纂して出版された本が
「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」です。
一編一編と読み進めるほどに、想像力が駆り立てられて、彼らが見た景色が、私の脳裏に焼き付けられる思いがします。
この「原爆の子」を原作とした映画があることを知りました。是非観たいと思っていたところ、今夏にテレビで放送されることを知りました。
1953年当時、この映画は非常に反米色が強いという懸念から、国も配給会社も上映させる事に尻込みし、残念なことに、この日本では幻の映画となっていました。でも、海外では近年なって反戦教育、反原爆教育の教育映画として上映され、68年の時が経っても高い評価ももって受け入れられていると言われます。
映画は、広島の原爆罹災者8万人がエキストラとして参加し、原爆の惨劇が赤裸々に描かれていると言います。しっかりと受け止める心を持って、この映画を観たいと思います。
そして、この映画がもっと日本の子供達が身近に観られるように、そして長田新さん編纂された「原爆の子」が、反戦教育、反原爆教育の身近なテキストとなることを希望したいと思います。
さあ皆さん、真夜中の放送ですが、頑張って観ましょう。そして子供達のために録画しましょう。そして映画鑑賞後の思いが語れたらと思います。
「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」です。
一編一編と読み進めるほどに、想像力が駆り立てられて、彼らが見た景色が、私の脳裏に焼き付けられる思いがします。
この「原爆の子」を原作とした映画があることを知りました。是非観たいと思っていたところ、今夏にテレビで放送されることを知りました。
1953年当時、この映画は非常に反米色が強いという懸念から、国も配給会社も上映させる事に尻込みし、残念なことに、この日本では幻の映画となっていました。でも、海外では近年なって反戦教育、反原爆教育の教育映画として上映され、68年の時が経っても高い評価ももって受け入れられていると言われます。
映画は、広島の原爆罹災者8万人がエキストラとして参加し、原爆の惨劇が赤裸々に描かれていると言います。しっかりと受け止める心を持って、この映画を観たいと思います。
そして、この映画がもっと日本の子供達が身近に観られるように、そして長田新さん編纂された「原爆の子」が、反戦教育、反原爆教育の身近なテキストとなることを希望したいと思います。
さあ皆さん、真夜中の放送ですが、頑張って観ましょう。そして子供達のために録画しましょう。そして映画鑑賞後の思いが語れたらと思います。
2019年8月6日火曜日
「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」
8時15分、町に鳴り響いたサイレンを合図に、広島で原爆によって殺された被害者に黙祷を捧げました。
74年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島市は快晴でした。
1944年(昭和19年)の秋からアメリカ軍による日本の都市部への無差別絨毯爆撃が始まりました。広島市上空にも何度も米軍の飛行機が飛来しますが、どういうわけか空襲の被害を被ることはありませんでした。ですから市民は、米軍機が飛来の度に町に轟く空襲警報のサイレンと解除のサイレンを何度も耳にしました。
そして原爆が投下されたその日も、エノラゲイより先に飛来した米軍機を警戒するサイレンが町に轟きました。そして解除のサイレンが轟いた後、市民が日常生活を始めようとした矢先に、エノラゲイが高い空に姿を現し、原爆を落としました。
まだ年端も行かぬ幼子は家の中にいるか通りで遊んでいました。
小学生の低学年生は学校に登校し、高学年生は建物疎開に駆り出され、中学生以上の生徒は学徒動員で軍需工場に駆り出されました。若い母親たちも様々な動員に駆り出されました。年老いた家族は家で家事に勤しんでいました。家族がバラバラに活動し始めた矢先の事でした。
原子爆弾は、相生橋付近の上空四五百メートル辺りで爆発し、半径一キロメートル内では多くの人が熱線で一瞬に焼き殺され、半径二キロメートル内では致命的な火傷を負わされました。また半径四キロメートル内では爆風によって多くの建物が吹き飛ばされて人々は致命的な傷を負わされました。また、後に起こった猛火によって下敷きになった多くの人々が焼き殺されました。
一次災害で生き残った人々は、家族の安否を尋ねるために地獄に変貌してしまった広島の町をさまよい歩き、多くの悲惨な光景を目にしました。そして、昨日まで生きていた人が朝になると死んでいるという現実に直面しました。それは自分にも訪れるかも知れない原爆症の恐怖の始まりでした。そしておよそ28万人の市民が原子爆弾によって命を奪われました。
夏の初めに手に取った手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」は、読み進めるほどに、私の中に74年前の出来事をまざまざとした記憶として心に刻みます。それはまるで自分があの日に、あの時間に、あの場所に、いる感覚をもたらします。
それは、苦しむ人々を見殺しにせざる得ない無力感、敗北感です。そして、明日、自分が死ぬかも知れないという恐怖感です。そういう感覚に胸が締め付けられます。
「原爆の子」の編者は、自らも広島市内の自宅で原爆の罹災に遭い、死線を彷徨う経験をされた教育学者長田新さんです。長田さんは、復興が進み始めた1951年(昭和26年)に、広島の少年少女たちが、あの原爆で何を感じ何を考えたかを知ることに平和教育への意義を見出され、原稿用紙を持って手記集めに奔走され、貴重なる1175名の手記を集められました。そして代表的な105編(小学生手記42,中学生手記25,高校生手記18,大学生手記20)を選び、出版されたのが「原爆の子 -広島の少年少女のうったえ-」です。
現在の私たちが、戦争を考えるための、平和を考えるための、第一級の読み物だと思います。
《広島市 1945当時アメリカ作成地図》

《広島市 現在Google地図》

74年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島市は快晴でした。
1944年(昭和19年)の秋からアメリカ軍による日本の都市部への無差別絨毯爆撃が始まりました。広島市上空にも何度も米軍の飛行機が飛来しますが、どういうわけか空襲の被害を被ることはありませんでした。ですから市民は、米軍機が飛来の度に町に轟く空襲警報のサイレンと解除のサイレンを何度も耳にしました。
そして原爆が投下されたその日も、エノラゲイより先に飛来した米軍機を警戒するサイレンが町に轟きました。そして解除のサイレンが轟いた後、市民が日常生活を始めようとした矢先に、エノラゲイが高い空に姿を現し、原爆を落としました。
まだ年端も行かぬ幼子は家の中にいるか通りで遊んでいました。
小学生の低学年生は学校に登校し、高学年生は建物疎開に駆り出され、中学生以上の生徒は学徒動員で軍需工場に駆り出されました。若い母親たちも様々な動員に駆り出されました。年老いた家族は家で家事に勤しんでいました。家族がバラバラに活動し始めた矢先の事でした。
原子爆弾は、相生橋付近の上空四五百メートル辺りで爆発し、半径一キロメートル内では多くの人が熱線で一瞬に焼き殺され、半径二キロメートル内では致命的な火傷を負わされました。また半径四キロメートル内では爆風によって多くの建物が吹き飛ばされて人々は致命的な傷を負わされました。また、後に起こった猛火によって下敷きになった多くの人々が焼き殺されました。
一次災害で生き残った人々は、家族の安否を尋ねるために地獄に変貌してしまった広島の町をさまよい歩き、多くの悲惨な光景を目にしました。そして、昨日まで生きていた人が朝になると死んでいるという現実に直面しました。それは自分にも訪れるかも知れない原爆症の恐怖の始まりでした。そしておよそ28万人の市民が原子爆弾によって命を奪われました。
夏の初めに手に取った手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」は、読み進めるほどに、私の中に74年前の出来事をまざまざとした記憶として心に刻みます。それはまるで自分があの日に、あの時間に、あの場所に、いる感覚をもたらします。
それは、苦しむ人々を見殺しにせざる得ない無力感、敗北感です。そして、明日、自分が死ぬかも知れないという恐怖感です。そういう感覚に胸が締め付けられます。
「原爆の子」の編者は、自らも広島市内の自宅で原爆の罹災に遭い、死線を彷徨う経験をされた教育学者長田新さんです。長田さんは、復興が進み始めた1951年(昭和26年)に、広島の少年少女たちが、あの原爆で何を感じ何を考えたかを知ることに平和教育への意義を見出され、原稿用紙を持って手記集めに奔走され、貴重なる1175名の手記を集められました。そして代表的な105編(小学生手記42,中学生手記25,高校生手記18,大学生手記20)を選び、出版されたのが「原爆の子 -広島の少年少女のうったえ-」です。
現在の私たちが、戦争を考えるための、平和を考えるための、第一級の読み物だと思います。
《広島市 1945当時アメリカ作成地図》

《広島市 現在Google地図》

栄冠は君に輝く
栄冠は君に輝く
副題「夏の全国高等学校野球選手権大会の歌」
加賀大介作詞・古関裕而作曲
雲は湧き 光溢れて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に応え
潔し 微笑む希望
ああ 栄冠は 君に輝く
風を打ち 大地を蹴りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に 賭けて
青春の 賛歌を綴れ
ああ 栄冠は 君に輝く
空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚の葉翳す
感激を 目蓋に描け
ああ 栄光は 君に輝く
いつだったかテレビで作曲家古関裕而さんの特集番組がありました。古関裕而さんが作曲された歌の中で私が一番に思い入れがあるのは「長崎の鐘」です。長崎のみならずすべての戦没者への鎮魂が込められた歌だからです。古関さんは、戦中、作曲した戦時歌謡によって戦地に送られ戦死した人々に対する自責の念を持ち続けられていました。
その念いが、戦後に戦没者への鎮魂歌とともに、戦後復興を担う人々への希望や夢の実現を高らかに歌い上げる力強い応援歌を生み出されました。
今年の夏の高校野球は、地方大会を一度観戦しましたが、試合開始までの時間に繰り返し流れる歌「栄冠は君に輝く」には、いつも心が躍ります。
青い空、沸き立つ雲、ギラつく太陽、そして青々とした樹林から時折流れ出る涼風、その下の緑に輝くフィールドでは一戦必勝に燃える選手たちがぬかりなく試合準備に取り組んでいる。スタンドでは、学校の仲間や家族が吹奏楽の演奏や声を張り上げて、フィールドにいる選手に力を注ぎ続けている。
古関さん、作詞の加賀大介さんは、一戦必勝を信じてフィールドで躍動する選手、スタンドで仲間を鼓舞する選手、すべての高校野球選手の上にいま栄冠が輝いているのだと高らかに謳われているのだと思います。
今日から第101回の夏の甲子園大会が始まります。
開会式の中継では、選手宣誓の大役を担う愛知県代表誉高校主将林山侑樹選手の姿を追っていました。主賓挨拶の最中は、何度も口ぱくで宣誓文句を練習していました。その顔には初陣の緊張がありありと見て取れました。そして選手宣誓は、慎重に、言葉を丁寧に句切って発していました。そして、終わった後の安堵に包まれ大きなため息をつく姿が印象的でした。彼はいま栄冠に包まれているのだろうなと微笑ましく思います。
副題「夏の全国高等学校野球選手権大会の歌」
加賀大介作詞・古関裕而作曲
雲は湧き 光溢れて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に応え
潔し 微笑む希望
ああ 栄冠は 君に輝く
風を打ち 大地を蹴りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に 賭けて
青春の 賛歌を綴れ
ああ 栄冠は 君に輝く
空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚の葉翳す
感激を 目蓋に描け
ああ 栄光は 君に輝く
いつだったかテレビで作曲家古関裕而さんの特集番組がありました。古関裕而さんが作曲された歌の中で私が一番に思い入れがあるのは「長崎の鐘」です。長崎のみならずすべての戦没者への鎮魂が込められた歌だからです。古関さんは、戦中、作曲した戦時歌謡によって戦地に送られ戦死した人々に対する自責の念を持ち続けられていました。
その念いが、戦後に戦没者への鎮魂歌とともに、戦後復興を担う人々への希望や夢の実現を高らかに歌い上げる力強い応援歌を生み出されました。
今年の夏の高校野球は、地方大会を一度観戦しましたが、試合開始までの時間に繰り返し流れる歌「栄冠は君に輝く」には、いつも心が躍ります。
青い空、沸き立つ雲、ギラつく太陽、そして青々とした樹林から時折流れ出る涼風、その下の緑に輝くフィールドでは一戦必勝に燃える選手たちがぬかりなく試合準備に取り組んでいる。スタンドでは、学校の仲間や家族が吹奏楽の演奏や声を張り上げて、フィールドにいる選手に力を注ぎ続けている。
古関さん、作詞の加賀大介さんは、一戦必勝を信じてフィールドで躍動する選手、スタンドで仲間を鼓舞する選手、すべての高校野球選手の上にいま栄冠が輝いているのだと高らかに謳われているのだと思います。
今日から第101回の夏の甲子園大会が始まります。
開会式の中継では、選手宣誓の大役を担う愛知県代表誉高校主将林山侑樹選手の姿を追っていました。主賓挨拶の最中は、何度も口ぱくで宣誓文句を練習していました。その顔には初陣の緊張がありありと見て取れました。そして選手宣誓は、慎重に、言葉を丁寧に句切って発していました。そして、終わった後の安堵に包まれ大きなため息をつく姿が印象的でした。彼はいま栄冠に包まれているのだろうなと微笑ましく思います。
2019年7月28日日曜日
奈義町で桃色吐息
現在、過去、未来、人間の顔をシンボル化した巨大モニュメントといえば太陽の塔です。その内部に入ったのは、来年で丁度半世紀になります。ですから、その時見たことは、ほぼ覚えていないのですが、ただ異世界に紛れ込んだ様な、ただならぬ異様な体験であった様に、強い印象として残っています。
先週、なにげにテレビを見ていると、岡山の奈義町という町にある現代美術館が映し出されました。三つの現代アートが収蔵されているというちょっと風変わりな建物の美術館でした。そして昨日、東は台風の影響がありそうだし、最近の暑さにも辟易していたので、西の高地で「涼んでこ」と涼を求めがてら奈義町の現代美術館に行きました。それは異世界への誘いとなりました・・・
中国道を西に進むほどに天気は晴れてきました。美作で下りて後は県道51号線美作奈義線の一本道です。そして正午過ぎに奈義町現代美術館の駐車場に着きました。奈義町は頭上まで積乱雲がもくもくと沸き立つ真夏の有様でしたが、北にそびえる一千メートル級の那岐山山系に向かって一本の道が延びる景観があまりに見事で、吐息が漏れました。
正午過ぎということで、先に食事をすることにし、美術館の敷地の一角にあったレストランに入りました。なにげに入ったレストランは、なんと本格的ナポリビザが食べられるレストランでした。名前は、La gita ラ・ジータ、小さな旅、という名前のレストランで、厨房の真ん中に真鍮に輝く石窯があって、一枚一枚生地をのばしてから焼き仕上げるところまでテーブルから眺めることが出来ました。
このレストラン、とても人気店であるらしく客は途絶えることがなく、また予約客がほとんどの様子で、ふらっと立ち寄って、たまたまた空いていたウエイティングテーブルでゆったりと(なんと食事時間40分)食事をとれたことは幸運でした。
注文したのは定番のマルゲリータ(Margherita )とほうれん草のソースが掛かったブラッチョ ディ フェッロ(Braccio di ferro ポパイの鉄の腕という意味らしいです)、石窯で焼き上げたマルゲリータは勿論美味しかったです。ですが初めて食したブラッチョ ディ フェッロは、濃厚なソースと、ふくよかな香り、しっとりとした味わいの三重奏で、我を忘れるほどでした。あまりの美味しさに、吐息が漏れました。
そして腹を満たして、いよいよ現代美術館に入りました。館内はよくクーラーが効いていました。受付をしてまずは右側の常設展示エリアに進みます。こちらカメラの撮影がOKでした。
大きな一枚ガラスのドアを押して入ったのが、「大地」をテーマとした空間です。天井が四角に切られて青い空が望めます。水で満たされた床面から何本もの細い曲線が延び、四角の空間の中を私には分からない規則性を伴って静物なのに優雅に踊っているように見えます。なんでしょう、小さな水音だけの銀世界、色のある世界を上に見る静寂の世界、私の感性では追いつけない異世界でした。
さらに奥に進みますと、習作が飾られた部屋があり、薄暗い部屋の右側面には真っ暗で狭い入り口がありました。左側面は光が差し込む明るい空間に続いているようでした。
暗い部屋に通じる入り口には「太陽」とネームがありました。二つ目のアート空間への入り口でした。そこに入ると、最初に迎えてくれたのは正方形の小部屋でした。暗く狭く、床が曲面で、壁にはびっしりと人の写真が貼り付けてあります。中央に螺旋階段の黒い筒があって、そこからガンガンと音を立てながら階段を上がると、そこは外観から見える斜めに置かれた円柱の内部でした。
ここは大伽藍なんですね、人工の照明は一つも無く、斜め上にある大きな円から薄暗い光が差し込んでいました。円は万物の源である太陽を象徴し、伽藍の中は球面で囲まれ、上下がなく、その球面に石庭があり、長い屋根があり、ベンチがありシーソーがあり鉄棒があるという重力がおかしくなったような、そしてとても童心を呼び覚ましてくれる空間でした。赤い産みの親の部屋から真っ暗な胎動を抜けると大日様が見守る子供の園なのでしょうか、そんな奇異な空間なのにまったく恐れを抱かない静かで満ち足りた異世界でした。
三つ目は、光り輝く三日月の形の「月」をテーマとしたアート空間でした。ここに一歩踏み入れた瞬間、音の反響のすごさにもう心が躍ってしまいました。現実の月は、真空の世界、音のない世界、生身では決して生きられない世界ですが、でも私たちが太古から想像した月の世界は、光り輝く神の国です。巨大で光り輝く大伽藍があって、音がどこまでも響き渡る畏敬の世界です。それがここで体験できました。
入館するときは、正直ここまで感激するとは思いませんでした。作家のイマジネーションが創造した異世界を心から満喫しました。また来たいと、吐息が漏れました。
車に乗ってから、もう一つ回ることにしました。樹齢900年を誇る大銀杏の霊木があるという菩提寺です。那岐山山系の登山入り口付近にあるということで山道を登りました。
山に入って、しばらく緩やかな坂道が続きました。でも車が全然進まないのです。どうしたことかと外を見ると、道の脇の看板が異様に傾いて見えました。いや、看板が傾いているんじゃない、坂が非常に急斜面なのだと分かりました。まだ美術館の延長で錯覚の世界が続いているかのような不思議な感覚になっていました。
それから細いくねった山道をしばらく走ると、那岐山山系の東面の中腹当たりにある菩提寺に着きました。
東の遠くに山並みが幾十にも重なっているのが見えました。雄大な風景です。
車から外に出て参道の入り口に立つと、ひぐらしや鳥の鳴き声の大音響に包まれました。
そして参道の石段を登ろうとすると、山道の石畳の奥から何かが下りてくるのが見えました。それは白犬でした。静かにゆっくりとこちらに向かって歩いてきます。あれ、神の使いか、なんてぼうっと眺めていると、妻が「野犬や」と声を出し、二人急いで車に戻りました。白犬は石段のところで止まり、こちらを眺めています。
しばらくして奥の駐車場に移動し、白犬の様子を眺めていました。白犬は、社殿の方に登っていました。でもこちらに気づくと、また近づいて来ました。
そこに別の赤い車が現れて、二人が車から外に出るのが見えました。急いで車をそちらに回し、「野犬が近づいて来ます」と声を掛けました。でもそのお二人はニコニコしながら参道を登っていきます。そして白犬もその二人の後に続いて行きました。
妻と顔を見合わせ、逃げるのが正しい行動やなと確認しながらも、でもそれがとても臆病な行動に思えて可笑しくなりました。そして勇気を振り絞り車の外に出、社殿に向かって参道を歩きました。
虫の音、鳥の声のシャワーの中を鮮やかで巨大な緑の世界を進みました。最初に迎えてくれたのは楓の大樹です。葉を満々と湛えた枝が幾重にも揺れています。それはまるで緑のカーテンの様にとてもとても涼しげでした。
お目当ての大銀杏は、一段上の社殿の右奥に祭ってありました。まるで杜の守り主の如く、威風堂々たる巨神木でした。
参道を下っていると、動物の遺棄・虐待防止のポスターが貼られていました。
あの白犬、よく見ると痩せ細ったとても気性のおとなしい老犬でした。この老犬も捨てられたのか、それでも車が来る度に、ご主人様の迎えと思い、毎度毎度参道をおぼつかない足取りで下っているのか、そういう実感で胸が締め付けられる思いがしました。でもどうすることもできず、募金箱に100円入れて、菩提寺を後にしました。
15時を過ぎ、今日一日の様々な思いを胸に抱きながら、帰路に着くことにしました。山道を抜けて国道53号線、そして県道356号線に入ると、道が濡れていました。濡れてアスファルトから湯気が沸き立っていました。そこで初めて雨が降っていた事を知りました。空は分厚い雨雲で覆われています。先ほどまでの天気の良さが嘘のようです。そして県道7号線に入った辺りから豪雨に見舞われました。そして県道53号線に入ってからは益々横殴りの暴風雨に変わり、ある交差点を越えたところで車を止めました。車を止めて、道の反対側を見ますと、来る時に見つけた桃の直売所でした。(後で調べると、JA勝田支所農作物出荷所の直売所でした)これは幸いと、雨ニモマケズ、道を渡るだけでずぶ濡れになるのもいとわず、店まで走りました。店にはおばちゃんお二人と中学生くらいの男の子が店番をされていました。
7個入で500円のカゴを指さし、男の子に美味しいのん選んでと頼みますと、おばちゃんが、後4カゴで売れないと帰れないと笑って言うので、二カゴ買うことにしました。すると、オマケで二つ付けてくれ、店の前で待機する車まで傘を差しかけて見送って下さいました。その人情味の温かさに、最後の吐息、桃色吐息が漏れました。
先週、なにげにテレビを見ていると、岡山の奈義町という町にある現代美術館が映し出されました。三つの現代アートが収蔵されているというちょっと風変わりな建物の美術館でした。そして昨日、東は台風の影響がありそうだし、最近の暑さにも辟易していたので、西の高地で「涼んでこ」と涼を求めがてら奈義町の現代美術館に行きました。それは異世界への誘いとなりました・・・
中国道を西に進むほどに天気は晴れてきました。美作で下りて後は県道51号線美作奈義線の一本道です。そして正午過ぎに奈義町現代美術館の駐車場に着きました。奈義町は頭上まで積乱雲がもくもくと沸き立つ真夏の有様でしたが、北にそびえる一千メートル級の那岐山山系に向かって一本の道が延びる景観があまりに見事で、吐息が漏れました。
正午過ぎということで、先に食事をすることにし、美術館の敷地の一角にあったレストランに入りました。なにげに入ったレストランは、なんと本格的ナポリビザが食べられるレストランでした。名前は、La gita ラ・ジータ、小さな旅、という名前のレストランで、厨房の真ん中に真鍮に輝く石窯があって、一枚一枚生地をのばしてから焼き仕上げるところまでテーブルから眺めることが出来ました。
このレストラン、とても人気店であるらしく客は途絶えることがなく、また予約客がほとんどの様子で、ふらっと立ち寄って、たまたまた空いていたウエイティングテーブルでゆったりと(なんと食事時間40分)食事をとれたことは幸運でした。
注文したのは定番のマルゲリータ(Margherita )とほうれん草のソースが掛かったブラッチョ ディ フェッロ(Braccio di ferro ポパイの鉄の腕という意味らしいです)、石窯で焼き上げたマルゲリータは勿論美味しかったです。ですが初めて食したブラッチョ ディ フェッロは、濃厚なソースと、ふくよかな香り、しっとりとした味わいの三重奏で、我を忘れるほどでした。あまりの美味しさに、吐息が漏れました。
そして腹を満たして、いよいよ現代美術館に入りました。館内はよくクーラーが効いていました。受付をしてまずは右側の常設展示エリアに進みます。こちらカメラの撮影がOKでした。
大きな一枚ガラスのドアを押して入ったのが、「大地」をテーマとした空間です。天井が四角に切られて青い空が望めます。水で満たされた床面から何本もの細い曲線が延び、四角の空間の中を私には分からない規則性を伴って静物なのに優雅に踊っているように見えます。なんでしょう、小さな水音だけの銀世界、色のある世界を上に見る静寂の世界、私の感性では追いつけない異世界でした。
さらに奥に進みますと、習作が飾られた部屋があり、薄暗い部屋の右側面には真っ暗で狭い入り口がありました。左側面は光が差し込む明るい空間に続いているようでした。
暗い部屋に通じる入り口には「太陽」とネームがありました。二つ目のアート空間への入り口でした。そこに入ると、最初に迎えてくれたのは正方形の小部屋でした。暗く狭く、床が曲面で、壁にはびっしりと人の写真が貼り付けてあります。中央に螺旋階段の黒い筒があって、そこからガンガンと音を立てながら階段を上がると、そこは外観から見える斜めに置かれた円柱の内部でした。
ここは大伽藍なんですね、人工の照明は一つも無く、斜め上にある大きな円から薄暗い光が差し込んでいました。円は万物の源である太陽を象徴し、伽藍の中は球面で囲まれ、上下がなく、その球面に石庭があり、長い屋根があり、ベンチがありシーソーがあり鉄棒があるという重力がおかしくなったような、そしてとても童心を呼び覚ましてくれる空間でした。赤い産みの親の部屋から真っ暗な胎動を抜けると大日様が見守る子供の園なのでしょうか、そんな奇異な空間なのにまったく恐れを抱かない静かで満ち足りた異世界でした。
三つ目は、光り輝く三日月の形の「月」をテーマとしたアート空間でした。ここに一歩踏み入れた瞬間、音の反響のすごさにもう心が躍ってしまいました。現実の月は、真空の世界、音のない世界、生身では決して生きられない世界ですが、でも私たちが太古から想像した月の世界は、光り輝く神の国です。巨大で光り輝く大伽藍があって、音がどこまでも響き渡る畏敬の世界です。それがここで体験できました。
入館するときは、正直ここまで感激するとは思いませんでした。作家のイマジネーションが創造した異世界を心から満喫しました。また来たいと、吐息が漏れました。
車に乗ってから、もう一つ回ることにしました。樹齢900年を誇る大銀杏の霊木があるという菩提寺です。那岐山山系の登山入り口付近にあるということで山道を登りました。
山に入って、しばらく緩やかな坂道が続きました。でも車が全然進まないのです。どうしたことかと外を見ると、道の脇の看板が異様に傾いて見えました。いや、看板が傾いているんじゃない、坂が非常に急斜面なのだと分かりました。まだ美術館の延長で錯覚の世界が続いているかのような不思議な感覚になっていました。
それから細いくねった山道をしばらく走ると、那岐山山系の東面の中腹当たりにある菩提寺に着きました。
東の遠くに山並みが幾十にも重なっているのが見えました。雄大な風景です。
車から外に出て参道の入り口に立つと、ひぐらしや鳥の鳴き声の大音響に包まれました。
そして参道の石段を登ろうとすると、山道の石畳の奥から何かが下りてくるのが見えました。それは白犬でした。静かにゆっくりとこちらに向かって歩いてきます。あれ、神の使いか、なんてぼうっと眺めていると、妻が「野犬や」と声を出し、二人急いで車に戻りました。白犬は石段のところで止まり、こちらを眺めています。
しばらくして奥の駐車場に移動し、白犬の様子を眺めていました。白犬は、社殿の方に登っていました。でもこちらに気づくと、また近づいて来ました。
そこに別の赤い車が現れて、二人が車から外に出るのが見えました。急いで車をそちらに回し、「野犬が近づいて来ます」と声を掛けました。でもそのお二人はニコニコしながら参道を登っていきます。そして白犬もその二人の後に続いて行きました。
妻と顔を見合わせ、逃げるのが正しい行動やなと確認しながらも、でもそれがとても臆病な行動に思えて可笑しくなりました。そして勇気を振り絞り車の外に出、社殿に向かって参道を歩きました。
虫の音、鳥の声のシャワーの中を鮮やかで巨大な緑の世界を進みました。最初に迎えてくれたのは楓の大樹です。葉を満々と湛えた枝が幾重にも揺れています。それはまるで緑のカーテンの様にとてもとても涼しげでした。
お目当ての大銀杏は、一段上の社殿の右奥に祭ってありました。まるで杜の守り主の如く、威風堂々たる巨神木でした。
参道を下っていると、動物の遺棄・虐待防止のポスターが貼られていました。
あの白犬、よく見ると痩せ細ったとても気性のおとなしい老犬でした。この老犬も捨てられたのか、それでも車が来る度に、ご主人様の迎えと思い、毎度毎度参道をおぼつかない足取りで下っているのか、そういう実感で胸が締め付けられる思いがしました。でもどうすることもできず、募金箱に100円入れて、菩提寺を後にしました。
15時を過ぎ、今日一日の様々な思いを胸に抱きながら、帰路に着くことにしました。山道を抜けて国道53号線、そして県道356号線に入ると、道が濡れていました。濡れてアスファルトから湯気が沸き立っていました。そこで初めて雨が降っていた事を知りました。空は分厚い雨雲で覆われています。先ほどまでの天気の良さが嘘のようです。そして県道7号線に入った辺りから豪雨に見舞われました。そして県道53号線に入ってからは益々横殴りの暴風雨に変わり、ある交差点を越えたところで車を止めました。車を止めて、道の反対側を見ますと、来る時に見つけた桃の直売所でした。(後で調べると、JA勝田支所農作物出荷所の直売所でした)これは幸いと、雨ニモマケズ、道を渡るだけでずぶ濡れになるのもいとわず、店まで走りました。店にはおばちゃんお二人と中学生くらいの男の子が店番をされていました。
7個入で500円のカゴを指さし、男の子に美味しいのん選んでと頼みますと、おばちゃんが、後4カゴで売れないと帰れないと笑って言うので、二カゴ買うことにしました。すると、オマケで二つ付けてくれ、店の前で待機する車まで傘を差しかけて見送って下さいました。その人情味の温かさに、最後の吐息、桃色吐息が漏れました。
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