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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2015年5月6日水曜日

大塩天満宮国恩祭 本宮 北脇丁道中舞


大塩天満宮国恩祭 毛獅子舞共演:宮本丁

平成27年5月5日(火)、本宮
宮本丁も、本日最初の毛獅子舞を能舞台で披露しました。

宮本丁は、第五幕、まるで悪戯っぽい少年の様にはしゃいでは疲れて休み、はしゃいではつかれてやすみと、馴れない喜びに戸惑っているようにも見えます。その舞はとても初々しく思います。

大塩天満宮国恩祭 毛獅子舞共演:東之丁

平成27年5月5日(火)、本宮
東之丁は、本日最初の毛獅子舞を能舞台で披露しました。

東之丁は、最終幕(第六幕)、神様に捧げる最上の歓喜の舞です。
動と歓喜に満ち溢れた舞台です。

大塩天満宮国恩祭 毛獅子舞共演:北脇丁

平成27年5月5日(火)、本宮
5月4日(月)の本宮が降雨のため今日に順延となりました。

そして午後二時過ぎから獅子舞が始まりました。
八台の毛獅子の道中舞に始まり、その後は四つの舞台に場所を移して毛獅子舞の共演です。
北脇丁は、本日宮外東舞台に次いで、ここ能舞台で毛獅子舞を披露しました。


北脇丁は、第一幕、道化が牡丹の華で洞窟に潜む毛獅子をおびき出す舞です。

2015年5月5日火曜日

大塩天満宮国恩祭 毛獅子舞共演:西濱丁

平成27年5月3日(日)、宵宮
午後から降り出した雨により、午後七時から始まった毛獅子舞は
道中舞が取りやめられ、また毛獅子舞は屋根のある本殿と能舞台のみ行われました。
そして、本殿で三番目に行われた西濱丁の毛獅子舞を観ました。

大塩天満宮の毛獅子は八台ありますが、その内の六台で一つの物語がリレー形式で綴られます。
暗い洞窟に毛獅子が潜んでいました。そこにひょっとこのお面を被った道化が現れて、牡丹の華を乱舞させ、毛獅子を洞窟から陽の降り注ぐ表に誘います。
陽の下に出た毛獅子は、喜びで歓喜の舞を始めます。
毛獅子は一度、舞うことに疲れて寝た寝たを始めますが、
最後はまた、最上の歓喜の舞を披露し、表に引き出してくれた神様に感謝を捧げる
という様な物語で、

西濱丁は、第二幕、陽の下に出た喜びの舞に興じます。

五月晴れの国恩祭

いよいよ11年ぶりの大塩天満宮で行われる国恩祭も本宮を迎えました。
宮入
北脇丁、宮本丁、西之丁ともに
ヤッサ練り合わせ
最高に元気でした!


2015年5月4日月曜日

花燃ゆは、何を描こうとしているのか?

花燃ゆは、何を描こうとしているのか?
この肝心要の部分がぼやけている様に思います。

第18回龍馬!登場では、松蔭(吉田寅次郞)が刑場の露と消えたことに落胆する文の前に坂本龍馬がふらりと現れる。そして、松蔭の遺志はいまや長州だけのものではなく、土佐はもとより全国の志ある者に引き継がれた。松蔭は自由を得たのだ、と話します。

何故に龍馬は長州に来たのか?龍馬は、土佐で実権を握りつつあった攘夷派の先兵武市半平太からの密使として久坂玄瑞に会いに来たのです。久坂は松蔭の一番弟子であった。武市は、その時既に日本中の攘夷派の旗頭となっていた松蔭の遺志に加わろうとしたのです。

松蔭の最後の言葉
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
にどれほどの攘夷派が血気盛んになったことか
それは勇猛というだけでなく恐ろしい狂気も生んだ
花燃ゆには、この時代の転換となった、この松蔭の言葉が抜け落ちてしまっていました。

花燃ゆは、連続ドラマでありながら、
一滴の水が、小さな水路となり、やがて大河を経て大海に通ずる
その一滴の水が何であるのかがぼやけている様に思います。
また、志という言葉が、さも一滴の水の如く何度も使われていますが、これも安売りに思え不快です。

花燃ゆ、このドラマの一滴の水は何か?
それは松蔭でも晋作でもない、まして龍馬でもない、と思います。
それは日本人のだれもが
日本を良くしたい、どうすれば良く出来るか考え、働きたい
という一念ではないかと思います。
それは今の日本に通じる思いです。
幕末から明治維新にかけて、当時の日本人は、その一滴の水から如何に大海へ流れ出たのか?そこを真っ正面から描いて欲しいと願います。