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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年5月4日月曜日

花燃ゆは、何を描こうとしているのか?

花燃ゆは、何を描こうとしているのか?
この肝心要の部分がぼやけている様に思います。

第18回龍馬!登場では、松蔭(吉田寅次郞)が刑場の露と消えたことに落胆する文の前に坂本龍馬がふらりと現れる。そして、松蔭の遺志はいまや長州だけのものではなく、土佐はもとより全国の志ある者に引き継がれた。松蔭は自由を得たのだ、と話します。

何故に龍馬は長州に来たのか?龍馬は、土佐で実権を握りつつあった攘夷派の先兵武市半平太からの密使として久坂玄瑞に会いに来たのです。久坂は松蔭の一番弟子であった。武市は、その時既に日本中の攘夷派の旗頭となっていた松蔭の遺志に加わろうとしたのです。

松蔭の最後の言葉
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
にどれほどの攘夷派が血気盛んになったことか
それは勇猛というだけでなく恐ろしい狂気も生んだ
花燃ゆには、この時代の転換となった、この松蔭の言葉が抜け落ちてしまっていました。

花燃ゆは、連続ドラマでありながら、
一滴の水が、小さな水路となり、やがて大河を経て大海に通ずる
その一滴の水が何であるのかがぼやけている様に思います。
また、志という言葉が、さも一滴の水の如く何度も使われていますが、これも安売りに思え不快です。

花燃ゆ、このドラマの一滴の水は何か?
それは松蔭でも晋作でもない、まして龍馬でもない、と思います。
それは日本人のだれもが
日本を良くしたい、どうすれば良く出来るか考え、働きたい
という一念ではないかと思います。
それは今の日本に通じる思いです。
幕末から明治維新にかけて、当時の日本人は、その一滴の水から如何に大海へ流れ出たのか?そこを真っ正面から描いて欲しいと願います。

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