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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

2024年1月8日月曜日

摩訶般若波羅蜜多心経

昨年秋から、写経を始めました。

私の家は曹洞宗なので、曹洞宗の日用経典「摩訶般若波羅蜜多心経」を手本にしました。「観自在菩薩」から始まり「般若心経」で終わる266文字を、毎日朝の内に30分ほどかけて原稿用紙に写経します。写経が終わると、書いた文字を眼で読みながら諷誦します。続いて経典の本尊回向文、四弘誓願文と続き、修証義の第一章総序を諷誦して終わります。

筆記用具は、4Bの鉛筆から初めて、現在は6Bの鉛筆と、fonteのガラスペンを使っています。30歳中頃からほぼキーボードで文書作成してきたので、鉛筆で長文を書く事にはまったく馴れていませんでしたが、書き続けているとペン先が紙に線を引く音がとても心地よく、その音が無心に誘ってくれるような心持ちにさせてくれます。

ただ、やはり集中力には限界があって、毎回、折り返しの辺りから、書き損じや抜け落ちします。それでもそこから書き直して一応最後まで書き切ります。

でも一月五日の夜に写経した時、19行、1行14文字きっちりで写経できました。気持ちが入ったのかなと思います。


般若心経について、仏教学者の紀野一義は、次の様な逸話を書き記されていました。

私たちが今となえている般若心経を、インドの原文から中国語に翻訳したのは唐の玄奘三蔵である。この人は『西遊記』の三蔵法師のモデルである。

玄奘は唐の貞観三年(629年)にインドに赴き、貞観十九年(645年)に長安に帰ってきた。玄奘は唐に帰ってから、持ち帰った経典の翻訳に従事し、七十四部千三百三十八巻を訳出したのであった。

中略

敦煌出土本の中に、『唐梵飜対字音般若波羅蜜多心経』があった。

この本の序文に次の様な話がのっている。玄奘が益州の空恵寺にいた時、インドから来た僧が病気で苦しんでいたのを見てこれを看病した。このインド僧は玄奘が沙漠を越えてインドに仏教の経典を取りに行く志を抱いていることを知ると、玄奘に般若心経という短いお経を教えてくれ、これを誦えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからないと言ったという。

もちろん玄奘は、このお経を誦えながらシルクロードを越えて行ったに違いない。

のちに玄奘が中インドのナーランダー寺に行ったら、なんと、かの病僧がそこにいるではないか。驚く玄奘にその僧は、私は観世音菩薩である、と告げて姿を消したという。


この逸話から、私は般若心経は、死者への弔いや供養のものではなく、私たち生きとし生けるものを鼓舞する経文などだと理解をしました。

でも最近は、生死に境などはなく、死者に対しても西方十万億土に思いを馳せて精進を重ねることを鼓舞するものなのだと思うようになりました。

私自身、仏教徒なのかキリスト教徒なのか、もしくは仏教徒でもないのかキリスト教徒でもないのか、判然としませんが、それでも般若心経を写経したり諷誦する時、心が平安になるように思います。そして修証義は、まことに人生の指針の経文であると思っています。

2024年1月7日日曜日

みのる君に電話しました。

今日(6日)、旧鶴来町、現在の白山市に住む大学時代の親友みのる君に電話しました。

昨年の能登半島を震源とする震度6強の地震の時に、何十年ぶりかで電話し、元気な声を聞きました。その時はみのる君の住む町はほどんど被害がなかったということで安堵しましたが、今回は震度7で、震源地である能登半島の揺れは2011年3月11日に宮城県沖を震源とする震度7の地震の揺れと変わらないほどのとてつもない揺れであったという事で、また日を追うごとに被害の甚大さが明らかになり、金沢市内でも被害が出ているというニュースもあり、すぐには電話できずにいました。

地震は今日現在も止む事なく発生している状況ですが、声を聞こうと決めて電話しました。電話の向こうからの第一声は「おめでとう~」でした。その声で、安堵しました。こちらの電話した思いを察したみのる君の「おめでとう~」でした。

実際、白山市も震度5で大変揺れたと思います。それでも家族にも家にも被害は無かったようで安堵しました。金沢市内に娘が住んでいるけれど被害はなかった様でした。

でも、みのる君の会社に勤める珠洲市出身の若い女性社員の事をとても気に掛けていました。週明けに顔を合わすけど、どう声かけしようか思案していると話していました。

また鶴来町の初詣で賑わう神社に大岩が落ちてきて、人の出入りのある場所の手前で止まったという話を聞きました。

そして鶴来町の更に南奥、岐阜県との境近くにある手取りダムからパイプラインで能登島まで水を運んでいるが、そのパイプラインのどこかが破壊されたため、水がまったく能登半島に供給できていないと聞きました。このパイプラインは、私が卒業した後に開通したものであると話してくれました。それまでは能登半島の人々は水も自給自足であった様です。

また人的被害についても、私は正月の帰省が災いして若い人の犠牲者が出てしまったのかと話したところ、みのる君は、帰省で若い人が震災の地にいたから、SOSが発信されている。もし帰省の時節ではなかったら、能登は高齢者の一人世帯が多い為に、被害の様子もSOSも何も発信されぬままになって、今以上に非常に深刻な状況になっていただろう、と話していました。そとから知る事、そとに発信されている事だけでなく、内で見ている人の、内から発信している人の情報に、もっと私たちはフォーカスしなければならないと思いました。


その後は、しばらく学生時代の貧乏生活の話に花が咲きました。みのる君は、二人でよく利用した飲食店の名を覚えていて、先日も一軒の店にいった話をしてくれました。昔は、学生は貧乏だからと大盛りを運んでくれていました。貧乏でいつもお金にピーピーしていましたが、アルバイトで得た金で、けっこうしっかり飲み食いはしていました。でも、本当、大盛りは助かりました。いつも腹ぺこでしたから。 

2024年1月6日土曜日

カズヤ逝く

5日の朝、一本松連中の幼なじみ、カズヤが逝きました。

昨年の夏の終わりに友だち四人で会いました。その一人がカズヤでした。その日、カズヤは退院したその足で集まりに参加してくれました。

イチャさんは、それが何より嬉しくて、少し調子に乗りすぎてしまい、いつもなら笑って怒って許してくれるカズヤが、本気で怒って沈んで黙ってしまいました。その日、カズヤに会う前に、イチャさんからカズヤが入院していて、今日退院で、その足で来てくれると聞いていました。カズヤはその時も体調が思わしくない様子でした。でも、これからは良くなると思っていました。

10月15日の朝、一本松連中の集まりに、一時顔を出しました。その時に、一言二言会話を交わしたのが、最後の会話となりました。その時、集合写真を撮ったのが、私が撮影したカズヤが写る最後の写真となりました。

若い頃はけんかっ早いところがありましたが、最近ではすっかり好々爺の風がありました。子供や孫を大事にしていました。

撮りためていた写真データを、見返し、カズヤが写る写真を探しました。笑みを浮かべる顔は、本当にハンサムです。後、2014年10月15日の本宮、牛谷丁の獅子道中舞で、軽妙に太鼓を叩いて音頭を取る笑顔のカズヤが写る映像がありました。こちらを向いて何やら言葉を発しているカズヤがそこにいました。

私は明日の告別式に参列する予定で、今夜の通夜に参列していません。ですから、まだ実感が湧きません。近くにいても、顔をあわせて話すのは年に数回程度です。ですから、少し時間がたったら、また顔を見られる様な気分でいるのです。昨日今日と面会したイチャさんなどはきっといま辛い気持ちになっているのだろうなと思います。

2024年1月4日木曜日

神も仏もないのか

三日、友だちと会った時の第一声でした。

元旦の午後4時10分頃に能登半島地方で起こった震度7の大地震です。震源地となった能登地方から直線距離で約350㎞のここ播州地方にも長周期震動が届き、地震の規模の深刻さを実感しました。その被害は日を追うにつれて深刻さを増しています。

そして二日の午後5時50分頃に羽田空港で起こった航空機衝突事故です。着陸した直後の旅客機が滑走路に侵入していた海上保安庁の小型輸送機と衝突し、小型輸送機は爆発大破し、旅客機も火を噴きながら停止、それから20分ほどで機全体が炎に包まれました。旅客機の乗客乗員379名が乗務員の冷静な誘導によって、停止後18分で全員が無事避難できた事は本当に幸いでしたが、能登地方に救援物資を届けるために小型輸送機に搭乗していた海上自衛隊の5名の隊員が死亡、1名が重傷を負われた事は、言葉にならないほど辛い出来事となりました。


神も仏もないのか


正月は、特に日本人が神仏に集い手を合わせて願い事をするという、古来からのしきたりの神聖な日です。神仏を身近に感じる日です。なのにこんな仕打ちを日本人に行うのか、という憤りも分かります。

私はどういうものかを言葉で説明する事はできませんが、この世界、あらゆる世界を創造し、永遠に見守り続けている存在はある、と思っています。存在は、この世界のあらゆる生きとし生けるものの創造主であり、創造したあらゆるものの誕生を見守り、死滅を見守ります。逆説的に云えば、誕生も死滅も私たちの行動や進歩に懸かっているという事です。もし存在が私たちに慈悲により望みを叶えてくれるとするなら、憎悪によって絶望に落とすことにもなるでしょう。慈悲や憎悪は、人間特有の感情であると私は思っています。存在は、慈悲や憎悪を超越した存在だと私は思っています。

だから、地震の深刻な被害や飛行機事故は、私たち自身が受け止め、私たち自身で対処しなければならない事です。地震の被災者に手を差し伸べて、苦しみを分かち合い、助け合い、復興に向けて気持ちを一つにする。飛行機事故も同様に、原因を究明して、二度と同様の事故が起きない様、防ぐ事ができる様にする事です。

そういう私たちの行動こそ、存在が望む事ではないか、と思います。

2024年1月1日月曜日

百寿

年が明け、2024年(令和6年)になりました。

そして母郁子は、百寿を迎えました。1925年(大正14年)7月28日生まれで、今日で数えの百歳です。

母は、戦時下で青春時代を過ごし、終戦の年に成人式を迎えた母です。

それなりに波瀾万丈の人生を生き抜いて、90歳を超えたあたりから認知症状も進み、今ではどこに住んでいるのか、誰と住んでいるのか、もしかしたら不安で一杯かも知れませんが、日一日を淡々と過ごしています。

何をするにも介助が必要ですが、それでも本人が気持ち動いてくれるから、介助作業も張り合いが持てます。そこが我が母ながら凄いな、と思います。


 

2023年12月31日日曜日

苦痛の淵

 この年の終わりに、ウクライナ人のNHKディレクター、ノヴィッカ・カテリーナさんが制作したセルフドキュメンタリー「私の故郷 ウクライナ」を観ました。

昨年二月にロシアが祖国ウクライナに軍事侵攻を始めてから二回目の秋、今年10月にウクライナに一時帰国し、5年振りに再会した両親や友人、そしてキーウの街角で出会った人々との会話、抱擁を通して、市井の人々の戦争への思い(それは苦痛以外の何ものでも無い)、そして今抱く夢を取材した内容でした。

私は、カテリーナさんが取材した二人の女性の、暗く沈んだ瞳に釘付けになりました。

ひとりは、キーウの街角、これまでの戦闘で戦士した兵士一人一人の写真が飾られた追悼の壁に花を手向けていた若い女性です。彼女の夫はこの壁に写真が飾られていました。

もうひとりの女性は、カテリーナさんの男子同級生のお母さんです。あまり目立つタイプではなった同級生は、自ら祖国を守る戦いに志願し、そしてカテリーナさんが帰国中に戦死し27歳の生涯を閉じました。

二人の女性の暗く沈んだ瞳が見ているものは、夢も、希望も、そして愛しい記憶も、すべて奪われた女性の魂が、沈み堕ちた苦痛の淵の景色、真っ暗な闇なのだと思いました。


ひとりが殺されたら、その人を愛したすべての人、家族、兄弟、連れ合い、子供、友人、恋人が、この女性と同じように、魂が苦痛の淵に沈み堕ち、囚われてしまうのだと思います。ひとりが殺されたら、その数倍の魂が、数十倍の魂が、囚われてしまうのだと思います。

そして、止む事のない苦痛に苛まれ続けた魂は、やがて憎しみの業火に包まれて、憎むべき者を道連れにして焼き滅んでしまうのだと思います。

その不条理な滅びを食い止める為にも、私たちは、この戦争を終わらせる事に積極的に関わり、全身全霊で取り組まなければいけないのだと思います。


私たち人類は、長らく欲望や憎しみの解決手段として戦争をし続けてきました。殺す事、差別する事、奪い取る事が、人間の本性の進歩であると考えていたのです。それは全くの間違いでした。本当の進歩は、人権を守る事、寛容である事、分け合う事、そして連帯する事であると近代になってようやく気付きを得ました。そしてそれからの数世紀で、私たち人類は飛躍的に文明を進歩させて来ました。

しかし、独占する事、奪う事、差別する事でしか欲望を満たせない者が廃れる事はありませんでした。そういう者が、再び力を得て、暴力で主張を誇示する様になってきました。

彼ら力の信奉者は、他人の命の尊さなど露ほどにも思わないでしょう。

私たちは、そういう暗黒面に引きずり込む暴力には屈してはいけないのです。屈してしまえば、私たちは遅かれ早かれ滅んでしまうでしょう。

私たちは生きなければならないのです。そうしなければ私たちの子供や孫に希望のある未来を残す事が出来なくなってしまいます。


2023年12月25日月曜日

日本を今一度、洗濯いたし候《議員篇》

 日本は、第二次世界大戦後にアメリカの指導の下、民主主義国家に生まれ変わった。と、子供の頃に学校で学び、つい最近までそれを信じて疑いませんでした。

国制における民主主義とは、公民権を持つ国民は誰でも選挙に立ち、国の政治に携わる事が出来る、という制度で、選ばれた議員の議席の重みは、年齢や議員年数に関係なく、平等であるという事、そして議員は国民の今、そして未来の幸福実現のために、公僕として働くことを使命とする、という事をです。


公僕とは、公衆に奉仕する者のことであり、「公」の字は、「社会一般や民衆全般に関わること」を意味し、公平や反利己などの倫理的・原理的な意味を現す漢字です。


それが今では、議員の云えば金にまつわる醜聞ばかりです。私たち国民は、当の議員によって、そしてマスコミによって、議員活動には金が掛かる、選挙には金が掛かる、政治活動には金が掛かるとすり込まれ、金が掛かるのはやむを得ない事と納得させられ続けてきました。しかし、それがそもそも偽りであったのだと思います。


まず選挙には金が掛かるという話ですが、衆議院や参議院の国制選挙を行う場合、選挙運営費だけで毎回500億円を優に超えると云われます。その費用の半分は人件費だと云われます。そして立候補者は、数千万を掛けて戦うのだと云われます。参議院選挙の場合は6000万円を超えるとも云われます。その内訳の中に供託金というものがあります。売名行為や泡沫候補を排除するために、一定数の票を獲得できなければ国に没収される金です。小選挙区への立候補ならば300万円、比例区の名簿単独登載者なら600万円、比例で小選挙区重複立候補ならば300万円(合計で600万円)という具合です。

でも、供託金でこんなにぼったくられるのは日本だけです。

OECD加盟国38カ国のうち、供託金鮮度が確認されるのは13カ国だと云われます。その内の

イギリスの供託金は、500ポンド≒9万円

韓国、比例区は、500万ウォン≒55万円

そして、フランスとカナダは、廃止されています。


自分が描く政治をやりたいと衆議院議員に立候補し、初当選しても、解散権が政争に使われ、首相の一存でいつ解散させられるか分からず腰を据えて議員活動、政治活動に身を入れることが出来ません。それで4年の任期を待たずに早々に解散されて、再び選挙となれば、再び高額な選挙費用が必要となり、次も議員でいたければ、少なくとも今の議員の身分で次の選挙資金を作らねばなりません。こうなれば、選挙で当選する事は、次の選挙に勝つ為に資金作りをする事という、本末転倒の有り様を呈してきます。

そして派閥政治の横行は、派閥の領袖に取り入れば、潤沢な裏金が与えられ、比例区名簿の先頭に名前が載れば、一銭の銭を使わなくても誰でも議員になれてしまう。

それが今の、日本政治の有り様です。


船中八策ではないですが、私が願う政治改革はこうです。

一、衆議院の解散を認めず、一期4年を全うする。

一、議員の歳費を、特別公務員給与と改め、すべて議員所得とする。

一、議員活動費は、別途公費として支給する。費用にはすべて確証を必要とする。不使用の活動費は期末に返納する。

一、年度末、任期末に、議員毎に一冊の活動報告書と会計報告書の提出を義務付ける。これらはすべて国民の誰もが閲覧できる事とする。

一、議員秘書は、議院に実務ができる人員を配置し、当選時に議員に配置する。秘書は、議員活動を補佐する者であり、特別公務員として対等の立場とする。

一、選挙の被選挙権は18歳以上に与え、供託金制度を廃止して、誰もが自分の意志を持って選挙に立候補できる。

一、議員の不正は、重く処断される。

一、議員は憲法の遵守を誓う。


議員は、仕事を持つ人が休職して、立てる程度に敷居を低くしなければならないと思います。気づいた人、志を持った人、やる気のある人が、一期4年議員活動を行う様にするのです。議員同士のもたれ合いなれ合いなどくそ食らえです。

金に色はありません。ですから、入りは所得か経費か最初から分けておく。議員報酬を明確にしておくのです。そして出も明確にする。

これを嫌がる人は、議員にならなければいいのです。