播磨の国ブログ検索

「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」

8時15分、町に鳴り響いたサイレンを合図に、広島で原爆によって殺された被害者に黙祷を捧げました。 74年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島市は快晴でした。 1944年(昭和19年)の秋からアメリカ軍による日本の都市部への無差別絨毯爆撃が始まりました。広島市上空にも何...

2024年1月6日土曜日

カズヤ逝く

5日の朝、一本松連中の幼なじみ、カズヤが逝きました。

昨年の夏の終わりに友だち四人で会いました。その一人がカズヤでした。その日、カズヤは退院したその足で集まりに参加してくれました。

イチャさんは、それが何より嬉しくて、少し調子に乗りすぎてしまい、いつもなら笑って怒って許してくれるカズヤが、本気で怒って沈んで黙ってしまいました。その日、カズヤに会う前に、イチャさんからカズヤが入院していて、今日退院で、その足で来てくれると聞いていました。カズヤはその時も体調が思わしくない様子でした。でも、これからは良くなると思っていました。

10月15日の朝、一本松連中の集まりに、一時顔を出しました。その時に、一言二言会話を交わしたのが、最後の会話となりました。その時、集合写真を撮ったのが、私が撮影したカズヤが写る最後の写真となりました。

若い頃はけんかっ早いところがありましたが、最近ではすっかり好々爺の風がありました。子供や孫を大事にしていました。

撮りためていた写真データを、見返し、カズヤが写る写真を探しました。笑みを浮かべる顔は、本当にハンサムです。後、2014年10月15日の本宮、牛谷丁の獅子道中舞で、軽妙に太鼓を叩いて音頭を取る笑顔のカズヤが写る映像がありました。こちらを向いて何やら言葉を発しているカズヤがそこにいました。

私は明日の告別式に参列する予定で、今夜の通夜に参列していません。ですから、まだ実感が湧きません。近くにいても、顔をあわせて話すのは年に数回程度です。ですから、少し時間がたったら、また顔を見られる様な気分でいるのです。昨日今日と面会したイチャさんなどはきっといま辛い気持ちになっているのだろうなと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿