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藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2023年9月19日火曜日

寛容について

18世紀のフランスで文筆家として活躍していたヴォルテールは、ある凄惨な冤罪事件「カラス事件」の事を知り、冤罪で離散したカラス家の名誉回復に尽力しました。
18世紀のヨーロッパ諸国は、宗教対立、他宗教への不寛容が招いた何百年にも及ぶ宗教戦争を経て、寛容であることが国の発展に繋がることに気付き、信仰の自由が認められるようになっていました。しかしフランスでは、イギリス発祥のプロテスタントへの嫌悪感が、地方になるほどいまだ根深く、それが「カラス事件」を生み出す原因となっていました。
ヴォルテールは、この「カラス事件」を経て、フランス国民に「寛容論」を説きました。
寛容である事、つまり、考えが違ったり、信ずる信仰が違っても、そしてたとえ過去にいさかいがあったとしても、お互いを許し、認めることが、フランス人を文化的に高め、フランスが文明国として発展していく肝であると説きました。

※ちなみに、私は光文社古典新訳文庫で「寛容論」を読みました。カラス事件の真相を明らかにし、カラス家の名誉回復に尽力するヴォルテールの活躍が、まるで現代のヒューマンドラマの様なタッチで描かれていたので、とても読みやすかったです。理解もよく進みました。

ここからが本題です。
9月10日(日)、BS1で「ボクと自由と国安法と -香港 600時間の映像記録-」というタイトルのドキュメンタリーが放送されました。
ウクライナ戦争が始まってすぐでしょうか、日本の情報番組で、ウクライナの現状を現地からリポートをしてくれる日本語の堪能な香港人報道カメラマンがいましたが、それが、今回のドキュメンタリーの主人公カオルさんでした。

ドキュメンタリーは、2019年に香港全土で起こった「中国化」への抗議活動に始まり、その抗議活動を同じ香港人の官憲が弾圧、そして2020年6月30日に中国の習近平指導部が導入した香港国家安全維持法(国安法)によって香港人は沈黙を余儀なくされ、香港人に保障されていた筈の言論の自由、報道の自由が完全に葬られるまでが、カオルさんの肉声と彼が撮影した映像で、時系列に綴られていました。

私は2019年から始まり、2021年10月にカオルさんが香港を脱出するまでの間、ずっと眼を見張り、口は開いたままになっていました。香港人の民主と自由が踏みにじられ、強い団結で結ばれていた筈の香港人が、沈黙し不寛容になっていく様が、これ以上ないほどに恐ろしかったからです。

カオルさんが、このドキュメンタリーに込められたのは、「自由を求めることは罪なのか」という不条理への問い掛けでした。そしてもう一つ希望されたのは、香港で起こった事実を、いつか葬られてしまうかもしれない事実を、一人でも多くの人に、知ってほしいということでした。

私は、中国人に対して、実は悪い印象を持っていません。ずっと若い頃、ウェリントンの街角で道に迷って困っていたところを、声をかけてくれて、英会話のおぼつかない私にジェスチャーを交えて親切に道を教えてくれたのが、中国人の青年であったのです。1991年のことです。
また最近のことですが、友だちや家族と一緒に日本を旅行して回っている中国人は、よく言われる爆買いというイメージからは程遠い、洗練した印象さえ受けます。
しかし、天安門事件から始まり、過激な反日デモ、まがい物から危険物まで何でも金に換えてしまう、そして最近の力による現状変更、そんな横暴な中国も、また中国から受ける印象となりました。
平和呆けしていた日本人である私は、世界第2位の経済大国に発展し、先端科学立国としても勇となった中国は、その大国の身分にふさしい振る舞いとして、他国に対して寛容な国に進化することで、中国は、中国の指導者がきっと欲しているであろう、他国からの称賛と尊敬と信頼を得ることになるだろうに、と思います。

中国は、香港を喰らい、次には台湾を喰らおうとしています。国内問題であるから他国は干渉するなと中国は警告しますが、国内問題とするところから歴史の歪曲ではないか、と私は思います。
香港は1898年に不平等条約とはいえ、イギリスが清朝政府から99年間租借した土地です。台湾(中華民国)は1911年に辛亥革命によって清を倒し、1912年に中国大陸に建国された国です。そして現在の中国(中華人民共和国)は、日中戦争後に勃発した内戦(国共戦争)で毛沢東率いる共産党軍が、蒋介石率いる国民党軍を台湾に追いやって、1946年に中国大陸に建国されたもっとも若い国と言えます。イギリスが香港を、アメリカが台湾を見放さず、民主国家の一員として迎えていたならば、この二つの国が、こんなに早くに存亡の危機を迎えることは無かったのではと思います。

最後に、私は中国に警告したい。
もし中国が、人権も自由も踏みにじりながら、万一地球の覇権国家となったとしても、不寛容さが内部に疑心暗鬼を次々に生み出して、発展どころか、自滅の道を進むことになるでしょう。
決してデモクラシーは人類を平和に導く唯一の手段ではないかもしれません。アメリカや欧州の先進国と呼ばれるデモクラシーを標榜する国も、様々な問題をその腹の中に抱え、国民は苦しんでいます。しかしデモクラシーは、国民の寛容さの裏打ちがあって成されるものであり、デモクラシーが幾分でも機能している国家の国民は、寛容な国民と言えるでしょう。
寛容な国民を有する国には、将来の成長や発展という希望があります。
中国には、ロシアの轍を踏まず、これ以上の一線を越えずに、寛容さに立ち戻って、本当に世界から信頼される立派な国へと歩んでほしいと思います。
心から願います。

2023年9月15日金曜日

阪神優勝!!!!!!(!が6は、岡田彰布監督が胴上げされた回数です(#^.^#))

いまはもう熱烈な阪神ファンではなくなりましたが、少年の私を阪神ファンに育ててくれたサンテレビが独占中継し、1985年の日本一メンバーである掛布さんと真弓さんが解説されると知り、そしてなにより今日、甲子園で優勝が決まると確信して、久しぶりに野球中継を18時から試合終了まで観ました。

マジック15から11連勝で一気にセリーグ優勝を果たしたこの試合は、肘の大怪我から復活を果たした地元兵庫県出身の才木投手が先発し、岩貞投手、石井投手、島本投手の中継ぎ陣と、そしてこの数年、阪神のブルペン人のリーダーして活躍し続けてきた岩崎投手が、巨人の猛追をかわして勝ちきるという、今年の阪神のどの投手が出て来ても勝ちに貢献できるという強さを体現していました。
野手陣も良いですね、リードオフマンとして攻撃を牽引した近本選手と二番の中野選手が、確かなバッティングとすきを突く走塁で対戦相手のバッテリーや野手をかきみだし、ルーキー森下選手も好打者の片鱗を存分にアピールするとともにと全力走塁でチャンスを広げ、一年間四番に座り続けた太山選手、そして左の長距離砲佐藤選手が走者をかえすという、今年おなじみとなった攻撃シーンをこの試合でも観ることが出来ました。

試合終了直後、岡田監督がお立ち台で選手とファンに向けて語ったユーモアあふれる、愛情あふれる言葉は、とても印象的で、心にしっかり届きました。はじめて、岡田監督ありがとう!そういう気持ちになりました。

そして私は、22時40分から開始する祝勝会の番組を急遽録画予約して、そしてアルコールは一滴も飲まずに寝ました。でもよく眠れました。

朝起きてテレビを付けると、昨夜の戎橋界隈の喧噪を映し出していました。大勢の若者とそれを取材する記者やテレビリポーター、そして事故が起きないようにと警備に駆り出された千名を超える警察官で、ごった返していましたね。
死者はもとよりけが人が出なかったこと、器物損害などの破壊行為が行われなかったことで、阪神の優勝が汚されなかったことはなにより良かったですが、警備に駆り出された警察官の皆様には、私、関係ないですが、非常に申し訳ない気持ちになりました。

1985年10月16日、というか翌日17日のまだ陽の明けぬ時間に、私も戎橋の喧噪の中にいました。
16日、神宮で行われた優勝の決まる試合を、職場近く、淀屋橋界隈の居酒屋にラジオを持ち込んで、会社の同僚たちと試合終了まで居座り、そこから北の行きつけのスナックに場所を移して、夜中まで六甲おろしを歌い続けました。どこからか優勝祝いの行進が御堂筋で始まるという、言わばデマに乗せられて、深夜に阪神百貨店本店前に向かうと、そこはもう一群であふれかえっていました。そこで、優勝の文字が書かれた横断幕が披露されたのか、歓喜の渦に包まれましたが、結局、御堂筋行進はなく、そこから先輩の行きつけのスナックに再び場所を変え、三時過ぎまで六甲おろしを歌い続けました。その夜は、北の歓楽街の店という店から六甲おろしが鳴り響いていた様に思います。
そして、先輩と二人で南を歩いて目指すことにしました。もうその時間には南までの御堂筋の道中は、閑散としていました。が、残念なことに、暴走した者たちによって、歩道を彩る花の鉢や看板、駐車中の自転車やバイクが、引き倒された惨劇の後を、道中ずっと眺めることになり、戎橋についた頃には、すっかり優勝の幸福感や高揚感は冷めていました。戎橋の喧噪や道頓堀橋の上でまだ進行中の破壊活動を目の当たりにした時、これじゃあ六甲山にでも登って、静かに優勝を祝う方がよかったなと嘆きたくなる気持ちになったことを、思い出します。

その意の申し訳なさが甦ってきたのだと思います。

最後に、トラッキーの背番号が、来年こそ1985から更新されること、心から願っています。頑張れ阪神、日本一、応援してます。

2023年9月6日水曜日

性的虐待問題に光を当てるスポットライト

 数日前、娘からLINEで

「おとうさん スポットライトという映画 見た事ある?」

という問い掛けがありました。

観た事はないけど、どうして?と問い返すと

「ちょっと 仕事の資料として」

と返事がありました。


うろ覚えですが、私はスポットライトというタイトルには聞き覚えがありました。

ずいぶん前にニューズウィーク誌で読んだ、欧米の道徳社会を根底から揺るがしかねない、カトリック神父による児童への性的虐待という大スキャンダルのニュース・・・。

それでウィキペディアでこの映画のあらましを確認した後、amazonプライムの映画公開リストにこの映画のタイトルがありましたので観ました。


日本語のタイトルは「スポットライト 世紀のスクープ」(原題Spotlight 2015年公開アメリカ映画)で、2016年にアカデミー作品賞の他、数々の映画賞を総なめにした作品でした。


映画の冒頭、『この物語は、実際の出来事に基づいている(this story is based on actual events. )』が表記されます。

2001年、マサチューセッツ州ボストンの日刊紙ボストン・グローブは、親会社タイムズからマーティ・バロンを編集長に迎えます。

バロンの仕事は、インターネットという新興メディアの台頭によって新聞の存在が脅かされるなかで、グローブを読者に支持される読み応えのある新聞に成長させる事でした。

そしてバロンが最初に眼を付けたのは、グローブのスクープを扱う精鋭チーム「スポットライト」の記者の一人サーシャ・ファイファ-が以前に書いた「ゲーガン神父が児童虐待で逮捕」という小さな記事でした。

バロンは、この小さな記事をもっと深掘りする事で、大きな金鉱(大スクープ)を探り当てられると予感し、スポットライトのリーダーであるウォルター・ロビンソンに、この事件を深掘りする事を求めます。

バロン編集長は、この町からすればよそ者で、かつユダヤ教徒の独身者でした。スポットライトの記者の面々は、この町が地元であり、家族や友人に敬虔なカトリック教会の信徒がいます。そして敬虔な信徒は教会の権威と家族や信徒の結束を何よりも重んじます。そのためスポットライトの記者たちは、バロン編集長とのそごを感じながら、また、家族や友人への負い目を覚えながら、スクープのための調査を開始します。


しかし、調査を開始してすぐに、記者達は、大変な不正、不義が、この事件の深層を覆い隠している事を知ります。

ゲーガン神父の児童虐待は30年に渡って行われていました。何十人もの児童がその魔の手に掛かっていながら、ゲーガン神父は何一つ処罰されずに、教区を渡り歩いていました。

虐待事件を知る者は、大勢いました。被害者本人、その家族、それぞれの事件に立ち会った警察、検察、弁護士、学校の責任者、そして教会の責任者。事件はすべて司法の手には委ねられず、教会の弁護士が家族を言い含めて示談にし、事件そのものがなかったものとされ続けてきました。そして新聞社もその一つでした。何年も前に、事実を知る者が深い罪から逃れる為に、新聞社に証拠とともに告発状を送ったものの、新聞社は何も行動を起こさなかったのです。

彼らの主張は、「少しの悪の為に、多くの善は捨てられない」という、組織を守る事、権威を守る事、それによって得られる利益を守る事の為に、彼らからすれば取るに足らない人間の犠牲はやむを得ないという、聖書が示す信仰とはとても相容れない、非常に身勝手極まりないものでした。

そして記者たちはさらなる深い闇を突き止めました。児童虐待を繰り返していたのはゲーガン神父だけではなかったのです。記者たちの想像をはるかに超える数の神父が、教会の隠蔽システムに守られながら、何十年も性犯罪を繰り返していたのです。

そして、これはマサチューセッツだけの問題ではなかったのです。カトリック教会によって布教活動が行われているあらゆる国、あらゆる場所で起こっているのです。枢機卿、そしてバチカンの法王までもが隠蔽システムに関わっている疑惑が出てきたのです。


記者たちは、

教会の権威を守るマジョリティから、不敬もの、嘘つき、詐欺師と攻撃を受ける

かつて性的虐待を受け心に深い傷を負い、何年も何十年も苦しみ続けている被害者(被害者達は自らを、苦しみに耐え命を落とす事を選択しなかったサバイバーと呼んでいた)、

被害者の訴えで共に戦う決意をした弁護士、

教会の秘密の療養施設(性犯罪を繰り返す神父を矯正するための施設)で心理療法を30年に渡って研究し、この問題を公にしようとして教会から追放された研究者、

とゆっくりと信頼関係を築きながら、彼らの告白、告発を聞き取りました。


そして、性犯罪を起こす、何度も繰り返す性犯罪者の神父の標的となる子供のタイプを掴みます。

「信心深い地域の子供たちを選ぶ

 罪悪感とか羞恥心が強い子供たちを選ぶ

 寡黙な子供たちを選ぶ

 貧困世帯の子供たちを選ぶ

 父親不在の子供たちを選ぶ

 家庭崩壊の子供たちを選ぶ」

そして、母を手懐け、子供を手懐け、何度も犯し続けていたのです。

性犯罪は、神父が教師を務める高校でも、そして神学校でも行われていました。

被害者は男子も女子もいました。


研究者は、教会からの攻撃によって断念した研究結果の公表を記者に託します。

それは次の様なものでした。

「この危機の原因は、聖職者の独身制にある。それが私の最初の発見だ。

禁欲を守る聖職者はたった50%、今はほとんどが性交渉を求めている。

だが、教会の秘密主義が、小児性愛者を守る結果になっている。

教会は危機の存在を知っていた。

ルイジアナの事件の後、法王庁の法官トム・ドイルの報告書に、小児性愛の被害者への賠償額は10億ドルになると書いてあった。それが1985年だ。」


記者の調査が佳境に入った最中、9.11同時多発テロが起こります。スポットライトの記者たちも全員、同時多発テロ関係の取材に駆り出され、調査は中断することになりました。

同時多発テロが宗教戦争の色合いを帯びていた事から、アメリカ社会の団結を阻害する様なカトリック教会のスキャンダルは公開出来なくなったという理由もあったかもしれません。これによって、重い口を割って告白してくれた被害者たちは、悲嘆しますが、記者たちにはどうすることも出来ませんでした。


一年が過ぎ、2002年の冬、スポットライトチームは、再び調査を再開し、そして遂に、ボストンを預かる枢機卿が隠蔽に加担した事実を示す証拠の手紙と、ボストンの教区で過去30年の間に性犯罪を犯した神父90名の実名リストを手にします。


そして、2002年12月のグローブ日曜版で、「カトリック教会が長らく隠蔽し続けてきた神父による性的虐待」を明らかにするスクープの第一報が報じられました。

この第一報によって、抗議運動とか不買運動が始まるのではと危惧して、一睡も出来ずに、休日出勤してきた記者たちが目にしたのは、これまで声を発する事ができなかった多くの被害者からの救済を望む電話でした。


***


鑑賞後、私がこの映画から受け取ったのは次の様な事です。

ひとつは、

この物語は、被害者の生々しい告白のシーンがあり、深い心の傷を負った被害者から、私自身が記者の目線で生々しい告白を聞かされている様な錯覚に陥って、心に強い恐れを受けた事です。これからこの映画作品を観る人には、心して観てほしいと思います。

そしてもう一つは、

物語のラストで、困難な末にスポットライトチームによる大スキャンダルのスクープ記事がグローブ紙から出たその朝、これまで誰にも声を発する事の出来なかった多くの被害者や被害者家族から、スポットライトに、次々にその声が電話で届けられるシーンを観て、この大スキャンダルの顛末を事前に調べて知っていた私は、ようやくこれから被害者への本当の救済が始まるんだという安堵感で、涙が溢れてきた事です。

まことに真実に迫る映画作品でありました。


追伸.

今、日本の児童性的虐待事件の象徴的な事件としてセンセーショナルに扱われる様になった、亡きジャニー喜多川氏によるジャニーズ事務所所属の青少年への半世紀に渡る性的虐待事件について、この映画を見終わって、テレビのニュース番組で語られる以上の、深い闇がある様に思えてきました。

疑問点は三つです。

一つは、一人だけの事なのか

二つめは、隠蔽システムは、何を守っているのか

そして三つめは、私たちは、本当に自分の事として考え、正したいと思っているのか

です。

性的被害者の人権、名誉は、二度と犯してはならない。二度殺してはならない。

それを厳守した上で、私たちは本気でこの、陰湿な問題を自分の身近な問題として考えられるのか、正面から向き合う勇気があるのか。そのことを自分に問うてしまいます。

2023年8月3日木曜日

「はだしのゲン」削除問題が私を突き動かします

 先日放送のあったNHKのクローズアップ現代『「はだしのゲン」教材からなぜ消えた』の回を観て、私が思っている事を書きたいと思います。


「はだしのゲン」の舞台となった広島市の、現在の広島市教育委員会が、10年前に小学生向けの平和教育学習教材に引用した漫画「はだしのゲン」を、2023年度版から削除した。昨年、改訂に関する現場教員との意見交換の席では削除という話にはならなかったのに、削除の明確な理由、プロセスが示されないまま、2023年度版から突然削除された。

この問題はマスコミに取り上げられる様になって、教育委員会が削除の理由として示したのは、

・「はだしのゲン」で描かれる描写が、現代の子供たちの生活実態に合わない、また、「(道徳的に)誤解を与える恐れがある」

・被曝の実相に迫りにくい

そして、保守団体などからの削除圧力が影響したかとの問いには、全くなかったと回答している。


この「はだしのゲン」削除のニュースを聞いて、まず思ったのは、「二宮金次郎像撤去」ニュースと同じだ、という事です。

今の生活実態にそぐわないから撤去せよ、削除せよという一定数の示威運動に、必要性の説明や話し合いを持ちかける事をせず、批判を受けないために、もしかしたら説明や話し合いの労力こそ無駄と考えているのか、なんの為らにもなく撤去や削除に踏み切ってしまう、こんな風潮が、今の世を席巻しているという強い危機感です。


次に思ったのは、教育が指導手順に則ってしか行えない現在の教育現場への危機感です。

平和教育、平和を教育する、聞こえは良いが、私自身、平和とは何か?を簡潔に説明することが出来ません。平和とは何か?とは常に探求を必要とする哲学のテーマだと考えるからです。時代や国、一人ひとり考え方が違えば、平和の捉え方は千差万別だと考えます。


こんな意見もありました。私たち平和を享受している日本人だからこそ平和教育が行えると。

日本は78年前の戦争で敗戦の道をたどり、軍事力は壊滅させられ、末期には、全国津々浦々まで焼夷弾で火の海にされ、沖縄は地上戦で殺戮の場となり、広島と長崎は原爆投下によって焦土となりました。そしてようやく日本の支配者たちは敗戦を受け入れました。日本は占領されました。占領下で、新しい憲法が発布され、そこには戦争放棄、武力放棄が書かれていました。そして私たち日本人の多くは、日本が独立国として復帰後も、新憲法を御題目の様に唱え、それが平和の形なのだと信じて、今日に至っています。

日本は平和でしょうか?探求が必要な平和という概念などまるでない様に、戦争を放棄したのだから世界一平和な国だ、と言わんばかりに、平和の二文字にすがりついています。

この78年、戦争で対峙し、日本を負かしたアメリカは、今や日本人にとって、なくてはならない友邦国となりました。戦争が生んだ深い遺恨は水に流され、両国の国民には深い友情と信頼、尊敬が保たれる様にもなりました。

しかし安全保障の面においては、日本はアメリカの支配を受け続けています。敗戦の日本を占領したアメリカ軍は、現在は日米安保の名のもとに、日本全土を縦横無尽に機動する権利(支配権)を維持しています。

また、戦後に朝鮮半島に成立した二つの国は、長年、日本の安全保障において脅威であり続けました。韓国は、時の政権覇者によって友邦国の様になったり、敵対国となったりです。そして北朝鮮は、日本人拉致に始まり、様々な犯罪の温床であり、そして近年ではミサイル開発、原爆開発が異常な脅威を生み続けています。

冷戦期において、ソ連は日本を冷戦の最前線として捉え、常に武力による脅しをかけ続けていました。ソ連が崩壊して、ロシアと名称が変わっても、実態は少しも変わらず、再びプーチンという独裁者がロシアを支配して、底知れぬ領土拡大欲によって、ウクライナ侵略戦争へと突き進み、東アジアにおいても、威嚇や恫喝を通り越して、いずれは侵略してもおかしくない有様です。

戦後に中華民国を台湾に追いやって、中国大陸で成立した中華人民共和国は、自ら掲げた共産主義で国を滅ぼしかけますが、共産党という支配組織を維持しながら、実態的に共産主義を捨て、デモクラシー国家の経済活動である資本主義と自由経済を取り入れて、海外資本や技術を吸い込んで、30年たらずで世界一の経済力と軍事力を有するアメリカに脅威を与える存在となりました。そしてその中国も独裁国家の姿を呈してきました。


平和が戦争の脅威のない状態を表すならば、自らを守る術(いくら優秀な隊員を有する自衛隊があって、有数の新型兵器を有していたとしても、憲法がそれを否定しているため)を持たない日本は、アメリカ軍の安保という信義に頼るだけの日本は、張りぼての平和の国と言わざるを得ないと思います。


「はだしのゲン」削除問題で、もう一つ聞く事は、教育に政治的に偏った思想を取り入れてはいけないという各思想団体からの圧力が、実際あるという事です。そのために、どこからも非難されない、無難な指導内容が選択され、それに沿ってしか、教師は子供たちを指導できないという制約です。

でも、誰かが指導要領を決め、それを上意下達で通達され、下位では、考える事が許されないでは、政治的な偏りそのものだと思います。

現在の日本の支配者層の思想で、教育が改悪されてしまう、そういう危機感を覚えます。


それならば、誰かの平和思想に縛られる事になる平和教育は止めにして、教育の現場で、教師も生徒もともに、戦争について考えてみてはどうかと思います。

人間は何故戦争をするのか

これまでの戦争が、どれほどの悲劇と悲惨を生んできたのか

これから戦争が起これば、私たちに何をもたらすのか

教師と生徒が、そして生徒の家族も巻き込んで、みんなで知る、みんなで考える

そして、私たちはどうすればよいのかを真剣に考える


過去の戦争を知る資料なら、私たちの先人は多くのものを残してくれています。それを教材にすればいい。誰かが指定したものではなく、みんなで持ち寄り、学び考える、そして共有する、それが、教育に求める、本来の形ではないかと思います。


p.s.

私は漫画「はだしのゲン」を全部読破した記憶はありません。でも子どもの頃に一部を読んで強烈な印象を今も残しているシーンがあります。ケンが荼毘に付され白い骨となった母を、泣きながら食らうシーンです。考えられないほどに悲しく辛い思い出です。


原爆についての資料として、私が第一級と思うのは、長田新先生が編んだ、被曝した広島の少年少女が書き記した被爆体験の作文集「原爆の子 -広島の少年少女のうったえ-」です。読み進めるほどに、彼らひとりひとりの体験が、津波の如く何度も心に押し寄せてきて、それは、鮮やかな色、光、匂い、そして、痛み、苦しみ、死、を私の心に刻んでいきます。本当に、あの日、あの場所に、自分も居たかの様な気持ちになります。

2023年7月31日月曜日

美しい風景を見て、私たち日本人の心構えについて考えました。

 先週末、BS番組『青木崇高と岸井ゆきのがアルプスの大自然を巡る旅 第一日目の旅』を観ました。


アイガーの麓に広がる牧草地や草原をトレッキングした岸井さんの一日目のゴール地点、神々の領域である氷壁の岩峰と、麓に人の手によって開かれた牧草地や草原が広がり、その中心にグリンデルワルト村を望む、この絶景を観て岸井さんが微笑みながら語った言葉に、私は胸を打たれました。


(人が自然と)共存している・・・、人間の方に心構えがないと、こうはならないですね


岸井さんは、心構えという言葉で、この旅で感じ取られた、この地で暮らす人々の誇りと覚悟を表現されたのだと思います。


でもこの世界には牧歌的な風景、天国の様な風景とは真逆の、ミサイルや爆撃によって無慚に破壊された町が広がる風景、地獄の様な風景が、悲しい事に、日を追う毎に広がっている現実を私たちは知ってもいます。


昨年の2月24日に、ロシア軍による隣国ウクライナへの唐突な軍事侵攻は、真に地獄の様な風景です。そして、それは、今も、日々、悲しい事に、続いています。

ロシア軍による軍事侵攻は、全く以て人命や文明を蹂躙する無差別攻撃、無差別殺戮です。


でもこのロシア軍によるウクライナ軍事侵攻は、ヨーロッパ諸国の、特に東ヨーロッパ諸国の人々の、心構えの有り様を、観る、知る、事が出来ました。

ヨーロッパ諸国は、特に東ヨーロッパ諸国は、ウクライナ軍事侵攻によって命の危険が迫り、列車で、車で、徒歩で、隣国に逃れようと国境に押し寄せる数百万のウクライナの人々を、迅速に温かく受け入れました。

東ヨーロッパ諸国は、西ヨーロッパ諸国の繁栄から何世紀も取り残されてきましたが、ソ連の崩壊によって、ソ連の支配から解放され、EUの一員としてこの三十年、デモクラシーを実践しながら歩んできました。そして、豊かに安全に自由に生きる事を享受することが出来る様になりました。

一方で、数世紀に及ぶロシアの脅威は、ソ連が崩壊して後も、失せる事はありません。ロシアへの懐疑は失せず、ロシアに支配され蹂躙された記憶も失せる事はありませんでした。


それがヨーロッパ諸国、特に東ヨーロッパ諸国の人々の、国を超えた連帯と人道行為に繋がっているのだと思います。


では、私たちの国、日本はどうでしょうか?

ロシアのウクライナ侵攻と同調する様な、中国による台湾侵攻が、差し迫った脅威として、テレビで連日報道され、政府は日本への脅威に対抗するための抑止力となる武力強化を着々と推し進めています。

そう、どこか台湾有事は、日本有事にすり替わり、台湾侵攻は、他人ごとの様に語られています。私たち日本人もどこか他人ごととして聞いている様に思います。

もし、万一、明日にも中国軍による台湾侵攻が始まれば、命の危険が差し迫った中華民国の多くの人々が、近隣の島国、そう日本へ、飛行機で、船で、押し寄せる事になるでしょう。


その、もしかしたら数百万にも及ぶ避難民を、私たち日本人は迅速に温かく受け入れる心構えが出来ているでしょうか?

私は、この事を何よりも先ず、国会で議論し、すべての日本人を巻き込んで、日本人が取るべき人道を探り、世界の国々に示す事が大事だと思います。

武力の強化や連帯以上に、国家を超えた人々の人道の連帯こそが、一番の抑止力となるのではないでしょうか。

そしてそれは、中国の人権や人道に心ある多くの人々との連帯に繋がって、それが中国政府に軍事侵攻を思い止まらせる抑止力となるのではと思います。


2023年7月30日日曜日

79年前のカウラ事件が私たち現代の日本人に訴えかける事

 一年前になりますが、ラジオ関西金曜日の夕方に放送される『田辺眞人のまっこと!ラジオ』で、後にカウラ事件と記憶される、太平洋戦争時には表沙汰になることのなかった日本人捕虜による集団自決事件をはじめて知りました。


第二次世界大戦時、東南アジアや太平洋上の戦闘にて捕虜となる枢軸国の戦闘員(多くは日本兵)を収容する捕虜収容所がオーストラリアの各地にあり、シドニーの内陸部の町カウラもその一つでした。

1000名を超える日本人捕虜は、オーストラリアがジュネーブ条約に則って捕虜を遇した事により、生命の危険もなく収容所内では自治を持って生活する事も許されていました。イタリア人の捕虜などは、国の家族に無事を知らせる手紙を書いていました。

しかし、日本人の捕虜は、偽名を通し、国の家族に手紙を出すことはありませんでした。

その理由は、大日本帝国軍の兵隊に通達された戦陣訓の一文『生きて虜囚の辱めを受けず』です。捕虜は屈辱であり、捕虜に甘んずるものは非国民であり、捕虜となったことが日本に知られる事となれば、家族にも累が及ぶ事、大日本帝国軍の隊員は心に刻んでいたからです。

だれもが本心は、生きて国に帰りたい、家族と共に平和に暮らしたい、という口には言えぬ希望を抱いていた事と推察します。しかし、後に捕虜となった隊員の幾人が戦陣訓を持ち出して一斉蜂起を唱え、その賛否を収容者全員に問うたところ、誰ひとり否を唱えることが出来ず、そして、1944年8月5日午前2時に首謀者のひとりとされる偽名南忠男の吹く進軍ラッパを合図に一斉蜂起し、重火器の雨に晒されることとなって、231名の日本人、そして警備側の4名のオーストラリア人が死亡する大惨事となりました。その中には、病気や怪我で蜂起に参加できない隊員が自決を強いられた死もあった様です。

この事件は、数日後赤十字を通じて日本に通達されましたが、その後もオーストラリアでは極秘扱いとされ、日本においては捕虜は伏せられ、オーストラリア人による日本人大虐殺という戦意高揚のプロパガンダに利用されたといいます。


そして戦後、1962年にオーストラリア政府によって、収容所跡地にカウラ日本人戦死者墓地が建設され、カウラ事件の死亡者を含む522柱の日本人戦死者が埋葬され、翌年1963年には、オーストラリア政府の計らいで、墓地は日本国に譲渡されました。


1970年代にアボリジニの文化研究をするためにオーストラリアに渡った若き研究者中野不二男さんが、現地でこの事件の事を知り、当時の公文書や現地の人々に聞き取り調査をし、また生き残った日本人への聞き取り調査(口の重い人からの聞き取りは困難を極めた様)をして、事件の全体像を明らかにし、『カウラの突撃ラッパ』と題する事件の詳細を明らかにした本を出版されました。


この事件は、現代の私たち日本人も払拭できていない心の闇を、私たちに問い掛けていると感じます。

心の中に持っている善悪を判断する心が、私たち日本人は十分に養われている筈なのに、同調圧力に抗うことなく屈してしまう、そしてさらには、悪に手を染め心を病むか、命を落としてしまう。

そういう事例は、現在も枚挙にいとまがない。

昨日今日の話では、BIGMOTORと損保ジャパン等の損保会社による詐欺事件、傷害事件もこれが真因ではないかと感じます。

表面だけ繕っても、心の問題を解決しなければ、さらにこの先、私たちは手遅れになってしまうかもしれない怖さを感じます。

2023年7月22日土曜日

宮崎駿監督作品を楽しんでいます。

 金曜ロードショーで久々に『もののけ姫』を観ました。冒頭で祟り神から死の呪いを受けた蝦夷の若者アシタカが、祟りの正体を求めて深遠な山野を越え旅をするシーンの、背景画と音楽が圧巻で、一気に宮崎駿監督が紡いだ叙事詩の世界に引き込まれてしまいました。

この『もののけ姫』のロードショーは1997年でした。ジブリの巧みなメディアミックス・プロモーションによって、『もののけ姫』はセンセーショナルな作品となり、封切りした映画館は、どこも軒並み立ち見が出る大盛況がロングランで続き、当時の日本の映画歴代興行収入記録を塗り替えました。

私もメディアミックス・プロモーションに大いに影響を受けたひとりで、書店で『もののけ姫』関連のムック本を購入し、大いに読みふけったものでした。

勿論、映画も観ました。立ち見でしたが、大いに感動した事を覚えています。


そして、先週から宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されましたね。この作品は、一切のプロモーションが行われないばかりか、一切の情報が秘匿されたまま公開日を迎えました。

私は、公開初日の最初の上映で、この作品を観ました。まだ夏休み前の金曜日の朝でしたので、館内に子どもの姿はほとんどなく、宮崎作品を愛する大人の観衆が集った中で、上映は始まりました。

物語は、とても一回の視聴では受け止めきれない難解さがありました。でもこの難解さの中に、私はナルニア国物語の読後感に通ずるものを受け止めた様に思いました。

映像は、これまで見た事がないほどの疾走感と、印象派の絵画の様な静寂感の静と動に溢れていて、難解さと相まって、その美しさは際立っていました。

音楽も、ある意味非常に印象的でした。これまでの宮崎作品は双子の様に久石譲のサウンドトラックが存在していました。映像を見れば音楽が頭の中に流れ出し、音楽を聴けば映像が頭の中に流れ出すという具合にです。ですが今作品の久石譲のサウンドトラックは、まるでサウンドオブサイレンスの様でした。神秘的で緊張感を誘うサウンドで、見終わった後にメロディが残ることはありませんでした。

本編が終わって、米津玄師が歌う『地球儀』とエンドロールが流れる間、誰ひとり立ち上がる者はいませんでした。きっとみんな、同じ気持ちなんだろう、エンドロールから少しでも確固たる情報を拾おうと静かに躍起になっている、そんな雰囲気が漂っていた様に思います。

そして、公開から一週間、『君たちはどう生きるか』の公開第一週の興行収入は、ジブリ一の興行収入を記録した『千と千尋の神隠し』を超えたとニュースで読みました。


宮崎駿監督は、理屈や屁理屈が下地となって描かれるSFではなく、純粋な、古典的なファンタジー、夢想した世界を映像化して、私たちに届けてくれたのだと、今感じています。ファンタジーの世界は、無垢な心で堪能したいと思います。

これほどのファンタジーを描いて見せた宮崎駿監督には、死ぬまで筆を置かず、二度と引退は口にせず、新たな新ファンタジーを紡いでいってほしいと願うばかりです。