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映画『オッペンハイマー』を観ました。

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2023年7月30日日曜日

79年前のカウラ事件が私たち現代の日本人に訴えかける事

 一年前になりますが、ラジオ関西金曜日の夕方に放送される『田辺眞人のまっこと!ラジオ』で、後にカウラ事件と記憶される、太平洋戦争時には表沙汰になることのなかった日本人捕虜による集団自決事件をはじめて知りました。


第二次世界大戦時、東南アジアや太平洋上の戦闘にて捕虜となる枢軸国の戦闘員(多くは日本兵)を収容する捕虜収容所がオーストラリアの各地にあり、シドニーの内陸部の町カウラもその一つでした。

1000名を超える日本人捕虜は、オーストラリアがジュネーブ条約に則って捕虜を遇した事により、生命の危険もなく収容所内では自治を持って生活する事も許されていました。イタリア人の捕虜などは、国の家族に無事を知らせる手紙を書いていました。

しかし、日本人の捕虜は、偽名を通し、国の家族に手紙を出すことはありませんでした。

その理由は、大日本帝国軍の兵隊に通達された戦陣訓の一文『生きて虜囚の辱めを受けず』です。捕虜は屈辱であり、捕虜に甘んずるものは非国民であり、捕虜となったことが日本に知られる事となれば、家族にも累が及ぶ事、大日本帝国軍の隊員は心に刻んでいたからです。

だれもが本心は、生きて国に帰りたい、家族と共に平和に暮らしたい、という口には言えぬ希望を抱いていた事と推察します。しかし、後に捕虜となった隊員の幾人が戦陣訓を持ち出して一斉蜂起を唱え、その賛否を収容者全員に問うたところ、誰ひとり否を唱えることが出来ず、そして、1944年8月5日午前2時に首謀者のひとりとされる偽名南忠男の吹く進軍ラッパを合図に一斉蜂起し、重火器の雨に晒されることとなって、231名の日本人、そして警備側の4名のオーストラリア人が死亡する大惨事となりました。その中には、病気や怪我で蜂起に参加できない隊員が自決を強いられた死もあった様です。

この事件は、数日後赤十字を通じて日本に通達されましたが、その後もオーストラリアでは極秘扱いとされ、日本においては捕虜は伏せられ、オーストラリア人による日本人大虐殺という戦意高揚のプロパガンダに利用されたといいます。


そして戦後、1962年にオーストラリア政府によって、収容所跡地にカウラ日本人戦死者墓地が建設され、カウラ事件の死亡者を含む522柱の日本人戦死者が埋葬され、翌年1963年には、オーストラリア政府の計らいで、墓地は日本国に譲渡されました。


1970年代にアボリジニの文化研究をするためにオーストラリアに渡った若き研究者中野不二男さんが、現地でこの事件の事を知り、当時の公文書や現地の人々に聞き取り調査をし、また生き残った日本人への聞き取り調査(口の重い人からの聞き取りは困難を極めた様)をして、事件の全体像を明らかにし、『カウラの突撃ラッパ』と題する事件の詳細を明らかにした本を出版されました。


この事件は、現代の私たち日本人も払拭できていない心の闇を、私たちに問い掛けていると感じます。

心の中に持っている善悪を判断する心が、私たち日本人は十分に養われている筈なのに、同調圧力に抗うことなく屈してしまう、そしてさらには、悪に手を染め心を病むか、命を落としてしまう。

そういう事例は、現在も枚挙にいとまがない。

昨日今日の話では、BIGMOTORと損保ジャパン等の損保会社による詐欺事件、傷害事件もこれが真因ではないかと感じます。

表面だけ繕っても、心の問題を解決しなければ、さらにこの先、私たちは手遅れになってしまうかもしれない怖さを感じます。

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