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中国政府に対して、一介の日本人からの意見です。

 NHKで今朝放送された海外ニュース番組の中で、香港のニュース番組が伝える内容には、笑いが込み上げてくるほどの驚愕を覚えました。 香港のニュースは、 11月7日に衆議院予算委員会の質疑の中で、高市早苗首相が岡田克也立憲民主党衆議院議員からの質問に答えた答弁の内容の中で、高市首相が...

2026年1月10日土曜日

おごれる人も久しからず

昨日、読書が楽しめる馴染みの「珈琲の店 慈雨」に今年はじめて訪問し、美味しい珈琲とバタートーストを頂きながら、一冊の本を手に取り読みました。その本は内田樹さんのエッセイ集『疲れすぎて眠れぬ夜のために』でした。

目次を開くと、『Ⅳ 「らしく」生きる』という章題に目が留まり、そのⅣ章を開いて読みました。読み進めるうちに気に留めた箇所をスマホの一太郎で書き留めました。

【書き留めた文章】

『村上春樹は作家的直感によって、「ディセント(decent:礼儀正しい、まともとある、品位がある)であること」が、不条理な世界を生き延びるためのさしあたり最初のディフェンス(defense:防御、生き残るための手段)であるということを知っています。礼節というのは、まさに「生き延びるための知恵」なのです。』

『礼儀作法の目的は何よりまず「仮面をかぶることによって自分の利益を最大化すること」

『権力を持つ人間、決定権を持つ人間、こちらに対して強制力を発揮できる人間の前では、絶対に自分の「素顔」を出してはいけない。これが礼儀の基本です。』

内田樹さんは、昨今の若者の風潮である「素であること」「建前を排除して本音を通すこと」が、どれほど損をする行為であるか、そして戦時下や不条理な状況に追い込まれたときには、どれほど命を危険に晒す行為であるかを、文中で示し、ディセントを生き延びるための知恵としなければならないと説かれていました。

書き留めた箇所に「仮面をかぶる」とありますが、私もこれには大いに共感します。私は「立場の役者となって演ずる」という表現で、心の内に留めてきました。でも、そういうことが出来るのは、やはり十分な準備が必要で、心が、強く安定し、自信を持ち得た時だけです。それが無ければ、すぐに化けの皮は剥がれます。仮面は打ち破れるでしょう。

結局のところ、仮面もかぶれず、役者にもなれず、「素の自分」や「本音」しか出せないのは、私たち現代人に、心の余裕や自信というものが、そもそも育まれずにきたからなのではないか、また、そもそも隷属を強いられて、日々を追い立てられながら生きているからなのではないか、そんなことも考えてしまいました。

追伸

国家も然り、国政を担う為政者も然りです。日本だけをみても、中世から近代史において、生き残る為政者はみな品位と礼節を備えた腹の内の見えない人物ばかりです。品位もなく礼儀もなく、あけすけな人物は時の人にはなるかもしれないけれど、高みに辿り着く前に排除されいつしか居なくなっています。「おごれる人も久しからず」です。

世界は協調や協力の時代から力の時代へと逆行を始めています。一段も二段も謙りならが、自らの間合いを堅持すること、そして相手を見定めて礼節を以て接することで、生きる道を見定める、これからの為政者にはとても必要な能力なのではないかと思います。

 

2026年1月1日木曜日

69.5

 大晦日の昨日、風呂に入る前に体重を量りましたら、『79.5㎏』でした。

元旦の今日は、『79.4㎏』でした。

今年の最終目標値は、『69.5㎏』に定めたいと思います。

2025年12月26日金曜日

シュトレン、作りました。

今年のクリスマスは、はじめてドイツ菓子『シュトレン』を作ってみました。

シュトレンの形は、人としてこの世にお生まれになられたばかりのイエス様がおくるみに包まれた様子を模したものと云われます。ドライフルーツとナッツをこれでもかというほどに詰め込んだ生地を焼き上げると、ブランデーとバターとスパイスの芳醇な香りが漂います。その焼き上がったシュトレンを熱いうちにバターと粉砂糖でコーティングし、冷ましたのちに、冷蔵庫で寝かせます。

焼き上がりのシュトレンも勿論美味でしたが、数日寝かせたシュトレンはさらに美味しかったです。表面はカリカリなのに、中は上品な餡の様にしっとりねっとりしていて、口に含むと、芳醇な香りが口の中に広がります。ビギナーズラックというのでしょうね、とても美味しく出来ました。

図書館で見つけた、旭屋出版「シュトレン STOLLEN ドイツ生まれの発酵菓子、その背景と技術」という本のレシピを参考にしたのがよかったのかと思います。

本の中のシュトレンの歴史を興味深く読みました。

シュトレンという焼き菓子がはじめて歴史に刻まれたのは、14世紀のドイツ、ナウムブルクの町の記録でした。それは、1329年、ナウムブルクの司教ハインリッヒが町の製パン職人にギルドを作ることを許可し、パン職人たちはその特権に感謝して、司教にクリスマスの贈り物としてシュトレンを二本献上したというものでした。

ただ、当時のシュトレンは、現在の贅沢な焼き菓子からはかけ離れた、水と燕麦と菜種油で捏ねられただけの、とても素朴で、あまり美味しいとはいえないものでした。

一つの理由として、乳製品を材料に使えなかったことが揚げられます。当時のカトリックが支配する社会では、降誕祭(クリスマスの主日)前の期間である待降節(主日前の四週間)、四旬節(主日前の40日間)には乳製品や肉の摂取が禁じられていました。

この問題の打開に動いたのが、現在のシュトレンの本場とされるドレスデンを州都とするザクセン州の当時の選帝侯エルンストとアルブレヒト3世の兄弟王でした。二人の王は、当時のローマ教皇インノケンティウス8世に、シュトレン作りにバターの使用の許可を願う書簡を送りました。そして1491年、教皇はバターの使用を許可する御達しを与えます。この「バター書簡」によって、シュトレンにバターの使用が認められたことにより、シュトレンの人気は各地に広がっていきました。

ドライフルーツやナッツが使われるようになったのは、十字軍の遠征から帰還した騎士たちが持ち帰ったのが切っ掛けであったようです。その後、ドライフルーツやナッツはヨーロッパで非常に好まれるようになり、ぶどうはヨーロッパ中で栽培され、ナッツは中東との交易が盛んになったことから手に入りやすくなり、様々な料理に使われる様になりました。シュトレンもその一つだと云われます。

最後に砂糖ですが、砂糖はヨーロッパで19世紀中頃から工場生産されるようになって、庶民にも手が届くものとなったことから、シュトレンにも使われるようになったと云われます。

現在の形のシュトレンは、20世紀初頭からドイツの家庭でクリスマスの風物詩として作られるようになったようです。毎年11月頃に、母親が何㎏という重さのシュトレンを何本も焼き上げて、寒い地下室で寝かせ、待降節に入ってから、毎日少しずつ切り分けて家族とともに食するのだと云われます。ドイツの冬は長く寒いために、春の復活祭の頃まで食べ続けるとも云われます。日本の正月の餅を連想し、とても親近感が湧いてきます。

現在では、日本の餅の様に、ドイツでも家庭で作るものからスーパーマーケットで購入するものへと変化している様子です。日本と同じく季節を先取りして、夏のシーズンの終わり頃から、工場生産されたシュトレンがスーパーマーケットに並ぶと云われます。

ドイツでは、消費者保護も目的として、様々な食品がガイドラインが設けられており、シュトレンにも、次のような規約がありました。

「(一般的な)シュトレン」は、粉100㎏に対して、バター30㎏、ドライフルーツ60㎏を材料に使用しなければなりません。

「バターシュトレン」という高級品は、バター40㎏、ドライフルーツ70㎏となります。

そして「ドレスナー・シュトレン(ドレスデンのシュトレン)」となると、もっと細かく、バター50㎏、サルタナ種レーズン65㎏、レモン・オレンジピール20㎏、スイート種・ビター種アーモンド15㎏となっています。

私は次のようなレシピで作ってみました。

材料は、

ポーリッシュ種: 強力粉200g、牛乳200cc、イースト5g

本生地:強力粉800g、砂糖150g、熟成ブランデー200ccくらい、フードフロセッサーで挽いたミックスナッツ200g、ドライクラウンベリー200gくらい、スパイス(カルダモン、アニス、シナモン 各5g)、バター200g

仕上げ:表面に塗るバター適量、粉砂糖適量

①一日室温で寝かせたポーリッシュ種にクラウンベリーを除く本生地の材料を加えて、捏ね上げ、まとまったらクラウンベリーを加えて再び捏ね、一時寝かす。

②寝かした生地を、200gに分けて成形し、ラップに包んで、一日冷蔵庫保存する。

③冷蔵庫から取り出した成形生地を、縦横に折りたたみ、オーブン190℃ 40分で焼成する。

④焼き上げたシュトレンを熱いうちに、バターと粉砂糖でコーティングする。

⑤室温で冷ましてから、冷蔵庫で保存する。

これで完成です。だいぶ我流になってしまいました… 

2025年11月30日日曜日

神戸市立森林植物園の紅葉写真



ドキュメンタリー映画『私は憎まない』観賞

 林田町の教覚寺で開催された映画上映会に参加してきました。

上映された作品は、

2024年公開のドキュメンタリー映画『私は憎まない(原題:I Shall Not Hate)』(上映時間95分)と、昨年10月に日本での劇場公開に合わせて来日されたドキュメンタリーの主格であるガザ出身パレスチナ人医師イゼルディン・アブエライシュ博士の講演動画(35分)でした。

講演動画は、YouTubeで公開されていました。

動画タイトル:「声を上げてください。」「即時停戦をすることでこれ以上血が流れることのないように」イゼルディン・アブラエーシュ博士 来日講演

投稿者:ドキュメンタリー配給会社ユナイテッドピープル

https://www.youtube.com/watch?v=eupnzmlyTjo


ドキュメンタリー映画『私は憎まない』は、イゼルディン・アブエライシュ博士が2011年に出版された回想録『私は憎まない:ガザの医師が平和と人間の尊厳への道を歩んだ旅(I Shall Not Hate: A Gaza Doctor’s Journey on the Road to Peace and Human Dignity.)』を基にして、当事者のインタビューとアニメーションで表現された懐かしい思い出、そして辛い記憶を呼び覚ます記録映像、再び起こったガザの破壊の始まりまでが、時系列で辿られていました。

1955年にガザのジャバリア難民キャンプで生まれたアブエライシュさんは、貧困と戦争による死の危険を感じる中で過ごした少年時代を、家族(一族)を支えるために働きながら、この境遇から抜け出すためには知識を身に付けることだと悟り、勉学にも勤しみました。その努力が実り、彼は奨学金を得てカイロ大学に進学し医学を学び、その後ロンドン大学でも学んで産婦人科医の学位を取得しました。そしてガザで産婦人科医として働き始め、その後、縁あってパレスチナ人として初めてイスラエルの病院で産婦人科医として働く事になりました。そして数多くの出産に立ち会ったことで、新しく生まれてくる命には差別が無いことを実感し、パレスチナ人もイスラエル人も互いが協力すれば共存の道が必ず開けるという信念を抱くことになります。彼の周りには、その信念に共感するパレスチナ人、イスラエル人の友人、そしてもちろん家族がいたことも、その信念を固くすることに繋がったのだと思います。

彼はガザに一族が安心して住める共同住宅を建てました。そして勤めるイスラエルの病院へは、ガザからイスラエルの検問所を通って通い続けました。

しかし、彼にとって人生最悪の日が訪れます。2008年12月27日、再びイスラエル軍のガザ侵攻が始まりました。そして1月14日、彼の家の前に戦車が近づいてきました。彼はイスラエルテレビ局のニュースキャスターを務めるイスラエル人の友人に電話を掛けて、家が標的にされていることを告げ、軍の関係者に攻撃を中止するよう要請しました。友人の尽力によりその日、彼の家の前から戦車は引き揚げていきました。しかし、その二日後の2009年1月16日、家の中で家族の団らんを見守る彼の目の前の光景が、一発の砲撃で一瞬に地獄と化しました。三人の娘と一人の姪は、その砲撃でむざんに殺されました。二発目の砲撃で、別階に居る親族が多数殺されました。その他の家族や親族も大怪我を負いました。彼はニュースキャスターの友人に助けてほしいと電話を入れました。友人はニュース番組の放送の真っ最中でしたが、電話に出ました。彼のうめき声、悲痛な叫びが、電波に乗って世界中に報道されることになりました。

その後、友人の尽力によって彼と大怪我をした家族、死亡した家族はイスラエルの病院に運ばれました。

彼は、翌日メディアの取材を受けました。彼がメディアに訴えたのは、怒りや憎しみ、恨みではなく、共存の道を求め続けていくという決意でした。彼を知るイスラエルの友人たちでさえ、彼のこの発言や行動は理解を越えたものでした。この彼の発言が影響したのか、イスラエルはこの日、一方的に停戦を宣言して撤退を始め、三週間に及んだガザへの無差別攻撃は終結しました。

そして彼は、その後、彼の生き残った子供たちの快復を待ってから、彼を招聘したトロント大学で教鞭の仕事に就くために家族とともにカナダに移住しました。

イスラエル軍からは、娘たちを殺害した事に対する謝罪は一切ありませんでした。彼は、殺された娘たちに報いるために、イスラエルの裁判所に娘たちを殺した者たちを告訴しました。しかしそれは、2021年まで続く、長く不毛な戦いとなりました。裁判所は、彼と家族からの幾度となる告訴を、次のような理由を示して否決し続けました。

・イスラエル軍は、彼の家を砲撃していない。

・彼の家の屋上にハマスの狙撃手がいた。

・彼の家の砲弾の欠片を調べた結果、砲弾はハマスが砲撃したものであると判明。

・彼の家に爆発物が隠し置かれていたことが被害を大きくした。

すべて明らかな嘘でした。欧米のメディアもイスラエルの(独立系?)メディアも、そのように報道しました。しかし、最終的にはイスラエルの最高裁判所が、イスラエル軍に過失はないと、彼に最後通告を行いました。

それでも、彼と家族は、イスラエルを憎むという権利を行使することを拒否し続け、パレスチナとイスラエルの共存の実現を求める活動を続けています。

そして映画は、人生最悪の日の訪れる前、家族で訪れたガザのとても美しい浜辺で、娘たちが笑顔を振りまく家族の記録映像で終わりました。


続いて上映された講演動画では、非常に感銘を受けたメッセージがありました。

「私には勇気と知恵があります。前に進み続ける決意もあります。長い道のりだということは、わかっています。学んだことや知恵を総動員します。憎しみは禁物です。何故ならば憎しみは毒だからです。炎で心を破壊します。重さで動けなくなり、沈んでしまう。あちらは私が潰れるのを願っている。私は決して憎しみの病には侵されない。破滅し、敗北はしない。私の魂を敗北させることはできない。決してそうはさせない。」

ドキュメンタリー映画の中のあるシーンを思い出しました。

殺された娘たちに報いる裁判では、否決される度、メディアから何度も『恨みや憎しみ』について言及されますが、彼と彼の家族は、一貫して次のように答えていました。

「(誰かを)恨むことはありません。但、このように不毛な裁判を続けなければならない境遇を恨みます。」

このイゼルディン・アブエライシュ博士と彼の家族の、「私は憎まない」という並々ならぬ決意に触れて、私は仏教の始祖である釈迦尊者が弟子(比丘)たちに説かれたといわれる、ひとつの話を思い出しました。仏教学者ひろさちやさんの著書『般若心経 人生を生きやすくする知恵』の、『是故空中無色。無受想行識。』の解説文に書かれていた、次のような話です。

釈迦尊者が弟子たちに「誰もが、外界の刺激や印象を受けて、楽受を感じ、苦受を感じることは、等しく同じである。では、仏教の智慧を学ぼうとする人々と、まだ教えを聞かぬ人々とでは、どういう違いがあるだろうか。」と問い、次のように説かれました。

「教えを聞かぬ人々は、苦受を受けると、(更に)嘆き悲しんで、いよいよ混迷に至る。(楽受もしかり、更に欲が深くなり、いよいよ混迷に至る)。それは、第一の矢を受けて、更に第二の矢を受けるに似ている。しかし、既に智慧を学ぼうとする人々は、苦受を受けても、いたずらに嘆き悲しんで混迷に至ることはない。楽受もしかり。」ひろさちやさんは、更なる嘆き悲しみを自ら創造すること、更なる欲望を自ら創造することが、私たちを苦しみに陥れるのであって、このように第二第三の矢を自ら撃ち込まない、受けないようにすることが『般若心経』に通底する仏教の智慧であると述べられていました。イゼルディン・アブエライシュ博士と彼の家族は、この苦難ばかりの『平和と人間の尊厳への道を歩んだ旅』で、こんなにも徳の高い智慧を得られたのかと、私は感嘆に震える思いがしました。


私は10時の上映会に参加しました。記帳して本堂に入り、座席に着座すると、ひとりひとりに小盆に載せてお茶とお菓子を配って下さいました。パレスチナの特産物であるセージのハーブティーとデーツです、と説明して下さいました。

映画上映会は、娘さんが主催され、今回が第14回目の上映会ということでした。

https://www.instagram.com/p/DPrutjyk21V/?img_index=1

上映前に、娘さんから1948年のイスラエル建国で始まったパレスチナの人々のナクバ(今も続く大災厄)の歴史の説明がありました。

1.第二次世界大戦でドイツが敗戦し、ナチスのホロコーストから生き延びたユダヤ人でしたが、彼ら25万人を受け入れるヨーロッパの国はなく、戦勝国が中心となって新たに設立した国際的な安全保障を司る機関United Nations(日本語名称:国際連合)は、ユダヤ人問題とは無関係であるアラブ人や遊牧民が暮らすパレスチナの地に、ユダヤ人国家を建設することを決定した。追補:19世紀後半に起こったシオニズム運動(二千年近くヨーロッパで迫害を受け続けてきたユダヤ人が、パレスチナの地にユダヤ人国家を再建するということを目指した運動)を、英米それぞれが意図を持って支援し続けてきた。

2.建国される前、ユダヤ人入植者が購入したパレスチナの土地は全体の6%足らすであったが、国際連合が決定した分割案では、パレスチナの土地の半分以上がユダヤ人の国家イスラエルに割り当てられた。

3.この分割案が国際連合総会で議題とされる前に、この分割案を検証した特別委員会(アドホック委員会)は、「ユダヤ人難民問題は関係当事国が速やかに解決しないといけないが、関係の無いパレスチナ人(この地に居を構えるアラブ人や遊牧民)に代償を支払わせる形で、パレスチナの地にユダヤ人の国を創って解決しようというのは、政治的に不正である」と結論づけたが、この結論は無視され、分割案は可決された。

4.イスラエルの初代首相となったベングリオンは、建国当初のユダヤ人の人口比率が6割であることを『安定かつ強力なユダヤ国家にならない』と問題視し、イスラエルの領土にいるパレスチナ人(アラブ人や遊牧民)を可能な限り排除するという民族浄化という軍事行動を開始した。


10時の上映会には、ざっと見て40~50人の参加がありました。少年野球の子どもたちもコーチに引率されて参加していました。まだ小さなお子さんを連れてこられていたお母さんもいましたね。本堂の中は、とても和やかな雰囲気でした。

ただ、映画の中でワンカット、空爆によって路上で殺害された人々が映るシーンがありました。最近のフィクション映画やアニメーション映画が描く暴力は、リアルを超える惨たらしさが満載で、そのような映画を見慣れていれば、心的な影響に言及する必要などないかもしれませんが、私にとってはリアルな映像には、未だ配慮が必要なのではないかと考えてしまいました。

また、パレスチナの人々に連帯を示す方法として、イスラエルの商品の不買運動に言及する意見もありました。私は、この意見には反対です。私たちは、パレスチナ、イスラエルともに共存を願う人々に寄り添わなければいけないのだと思います。現在の日本には戦争に荷担する意志も経験もありません。日本が持っているのは、災害や戦争の傷跡を癒やし、復興するという意志と技術と経験です。それが大いに活躍できるのは、パレスチナでの戦禍が止まり、復興の道筋が着いてからです。今私たちが出来る事は、このパレスチナ問題の本質を理解し、双方ともに信頼される関係を築き維持していくことだと思います。

争いの渦中に巻き込まれ、どちらかに偏重しないことだと思います。

2025年11月25日火曜日

AIが招く世界の終わり

 今朝、こんなニュースを見聞きしました。何でも、アメリカでは大卒の若者の就活が難航しているということで、その背景にあるのは、企業の業務全般のAI化推進ではないかと云う内容でした。

現在のアメリカは、人類の富の大部分を一握りの富裕層が保有するという超絶した貧富の格差社会を生み出しています。その富裕層の人々は、満足することを知らず、更に富を拡大するために思考を巡らしています。

現代の社会は、ITが高度に発達した情報社会です。そして、現在のトレンドは、あらゆる情報を持続的に収集してAIに学習させることで専門性の非常に高いAIを作り出し、そのAIが人間に代わって製造する創作物(それは知恵であったり、答えであったり、静止画・動画・音声・音楽であったりします。それらは仮想の産物です。)で、莫大な富を生み出します。

その現代の富の鉱脈を作り出し、持続的に稼働させるためには、莫大な資金とエネルギー資源が持続的に必要となります。その資金やエネルギー資源というものは、本来ならば人類の健やかなる進歩にこそ使われるべきものですが、富とビジネスを寡占する富裕層の人々が傾倒するのは、自らの富の更なる拡大と、もしかしたら、AIが製造する知恵や答えが開くことになる未来の支配(と、言い切ってしまってよいかどうかは、知らんけど)でしかありません。

世界の終わりの第一の波。第二次世界大戦後の80年間、地域紛争は止まず、大国同士の小競り合いも止むことはありませんでしたが、それでも第三次世界大戦を招く事態は、どの大国も避ける努力を続けてきました。しかし最近では、その努力が失われつつあります。大国は自らの力を誇示し始めて、この80年間で人類が築いてきた国際的な秩序の恣意的な変更に挑み始めています。その行為にも、AIの創造物である偽情報が大いに活用されています。

世界の終わりの第二の波。既に何十年前も前から科学者が警報を鳴らしてきた地球環境の破壊です。産業エネルギーを製造したり燃焼する過程で生み出される排気ガスやエネルギー資源や鉱物資源を採掘するための森林破壊・土壌破壊という地球環境の破壊は、過去においては、人類全体の野放図な欲望が引き起こした無分別な行動であったと考えられますが、現在そして近未来においては、唯一AIを超絶に稼働させると云う理由だけで継続されるかもしれません。そして、私たち人類は、地球の急激な温暖化や寒冷化、そしてあらゆるものを根こそぎ吹き飛ばす低気圧の渦と、あらゆるものを根こそぎ洗い流してしまう大水の恐怖に怯えながら生きていくことになりそうです。

世界の終わりの第三の波。そしてAIが人間の知的生産活動の全てを奪ってしまった暁には、人間は考える歓びが奪われて、知的好奇心を失い、進歩を止めてしまうかもしれません。

今朝のニュースに、私は第三の波の到来を、感じ取った次第です。