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藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2024年8月16日金曜日

戦争の記憶

八月になると、毎年一年ずつ過去となっていく、日本人の戦争の記憶が呼び起こされます。戦争で亡くなった人々の慰霊祭は、空襲を受け甚大な被害を被った日本全国津々浦々の町で、戦後79年となる今年も開催され続けていますが、テレビ中継されるほどの大規模な慰霊祭が八月に立て続けに開催されること、これもまた戦争の記憶を呼び起こす一因だと思います。


8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典

8月15日、全国戦没者追悼式


テレビ番組でも、日本人の戦争の記憶をもとに新しく制作されたドラマが放送されたり、アメリカやオーストラリアなど海外の国の過去の公文書が新たに公開されるなどして、近年になって発見された戦争の映像や事実が、新しいドキュメンタリーとして制作されて放送されます。


しかし、一方で戦争を肌で体験した日本人は高齢化し、戦争体験の語り部として活躍された人々も、ひとり、またひとりと亡くなられ、日本人の戦争の記憶が途絶えてしまうことを危惧する論調も聞こえてくるようになりました。


日本人の戦争の記憶・・・、象徴的であるのが広島市原爆死没者慰霊碑の碑文、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」、そして長崎平和の泉の碑文、「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」だと思います。

戦争体験者にとって、戦争は、地獄の体験であり、できることなら誰にも語らず、心の奥に蓋をしたまま思い出すことなく忘れたい記憶であり、そして二度と再び苦しめられたくない、というものではないかと想像します。また、それ以上に、挙国一致の号令のもと、日本が戦争をすることは正義であり、必ず勝利するという教育と宣伝によって疑うことなく、戦争を賛美し、あらゆる物資、そして命まで供出した結果が、悲惨な体験と敗戦であったこと、その結果の責任を誰も負わず、謝罪もなく、戦争体験者の言いようのない怒り、悲しみ、苦しみは、自らの罪として背負わねばならず、生きなければならなかったことが、何より辛い体験であったのではないかと想像します。


今も、この様にわれわれ日本人は話します。

戦争はよくない。

原爆は二度と使ってはならない。

しかし、これはあまりにも抽象的で、本質については、われわれ日本人は、われわれ日本人の問題として、悩み、考え、答えを出そうという試練を、避け続けてきたと思います。


今朝ドラ「寅と翼」で、先日、次の様な会話がありました。主人公佐田寅子と上司の東京地方裁判所所長桂場等一郎との短い会話です。

「共亜事件の後、私、桂場さんに法とは何かというお話をしたんです。」

君は法律は綺麗な水、水源のようなもの、と言っていたな。

「嬉しい!覚えていて下さったんですね

憲法が変わっても尚、社会のあちこちに残る不平等を前にして思ったんです。

綺麗なお水、水源は、法律では無くて、人権や人の尊厳なのでは無いかと。」


私は、これだと思いました。悪法でも法律、人権を蹂躙する法律、人間の尊厳を認めない法律も、法律であり、われわれ法の下にある者は、従わなければならない。これが正しい行動であり選択である、とわれわれはずっと教育を受けて信じてきました。きっと法というものが定められた古代から、一貫して従うことが正しい、崇高なものであると、われわれはすり込まれてきたのだと思います。

しかし、法はあくまでも時の為政者が民を都合よく支配するための道具であるという側面があったことは否めません。近代になって理念として芽生えた人権意識や人間の尊厳は、為政者の道具としての法よりも、もっと崇高で、われわれ一人ひとりが守護者とならなければ、すぐに枯れてしまう、淀んでしまう、清らかな泉として保たれ続けなければならないものなのだと思います。


「正義の戦争」というものもあるのかもしれません。2022年2月にロシアがウクライナに軍事侵略を始めたことにより、ウクライナが、国土と国民、ウクライナの文化を守る為に、自衛のために立ち上がり始まったウクライナ戦争は、ウクライナ側から見たら「正義の戦争」といえるのかもしれません。しかし、二年が過ぎても終わりの見えない戦争に、ウクライナ国民も、武器や物資、戦費を支援し続けるウクライナ支援国の国民にも、厭戦気分が広がりつつあるのも事実です。ウクライナでは成人男性は徴兵が義務付けられ、戦地に送られ、命を落とすのが日常と化しています。「正義の戦争」でも、人権や人間の尊厳が著しく制限され、損なわれているのが実情です。

そして、ウクライナ支援国の一つである日本のわれわれも、ウクライナの人々が受けている人権侵害、人間の尊厳が蝕まれる事態を、遠くで眺めているだけのようで、罪悪感を感じ得ずにはいらねなくなる時があります。


そして、戦争だけが、人権や人間の尊厳を著しく傷つけている訳ではありません。現在の日本においても、様々な問題が、人権や人間の尊厳を著しく傷つけているのは実情です。

BICMOTORの事件は、ブラック企業問題の象徴的な事件でした。創業一族の傲慢さ、圧倒的なパワハラによって、一万の従業員が犯罪に手を染めさせられ、犯罪が露見するや、犯罪者として社会から糾弾され、罰を受け職を失う事態に陥っているのです。それなのにすべての責任を負い、罪に服し、賠償を負わなければならない創業者一族は、犯罪が露見するや否や、事業から手を引いて、表舞台から消えただけなのです。

首相の暴走を正当化する為に、多くの官僚が公文書の改ざんや破棄に手を染め、その事で心を病んだ官僚が自殺しても、いまもって真実は明らかにされず、誰も責任を取ろうとしないのです。統一教会と政治家の癒着問題もしかりです。政治と金の問題もしかりです。犯罪があっても、悪しき行いがあっても、それが事実であっても、だれが首謀者なのか、誰が犯罪行為を指揮したのか、いつも不明のままで、誰も責任を取らないのです。皆がやっているから、決まっていたことだから、とまるで他人事の様に彼らは話し、被害者を装い、煙に巻いて、事件はいつも藪の中に追いやられ、忘れられてしまうのです。

ビジネス化された児童ポルノ問題や、売春問題もしかりです。善悪の判断のつかぬ子どもや未成年者が、盗撮され、写真をばらまくと脅され、或いは金をゆすられ、性の奴隷にさせられて、その映像や写真がビジネスとして取引される事態が社会問題化しても、日本においては、「表現の自由」や「通信の秘密」という法律に阻まれて、人権や尊厳を回復させるための戦いが一向に進まず、もう犯罪者天国と化しているのです。

悪い淀んだ空気や水の中で、何か善からぬものが、勝手に生まれたように振る舞い始め、同調者が現れ、悪しきシステムが構築されて、承認されぬままに動き出し、悪が金を生み、同調者の欲を満たしていくのです。


日本の戦争に戻れば、その戦争に一分の道理があったとしても、戦争捕虜の国際的な取り決めを無視して、「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓令し、兵隊だけで亡く民間人まで自決を強要し、或いは殺し、また、一億総玉砕を掲げて、如何に空襲で国土が焦土化し、国民が殺されても、一向に戦争を止めず本土決戦を唱え続けた為政者たちの罪は、計り知れないものと、私は思います。

日本に、日本人に、しっかりとした人権意識や人間の尊厳を守るという強い使命や意識が育まれ、宿っていたならば、少なくとも、この様な人権侵害が行われることは無かったのではと思います。

そこに、日本の戦争の記憶の本質があるのだと私は思います。


日本に、日本人に戦争で何が起こったか、体験者の記憶を、しっかりと記録し、後世に残す事も重要ですが、戦争の本質、当時の日本人が陥ってたい本質に向き合い、戦争も、そして戦争以外のあらゆることについても、人権が蹂躙されぬ様に、人間の尊厳が損なわれない様に、私たちがその守護者として、責任ある一人として振る舞えるように、行動できるようにするために、戦争の記憶を役立てなければならないのだと、今、強く思います。

 

2024年8月11日日曜日

パリ・オリンピックで感じたこと

 ヨーロッパの古都、パリで開催中のオリンピックも、今日が最終日となりましたね。

トラディショナル・スポーツとは一線を画すエクストリーム・スポーツが注目が浴びたオリンピックともなりました。前回の東京オリンピックから関心を持ってテレビ観戦しましたが、今回は少しだけルールを理解する事が出来ました。ゲーム中も選手同士が笑顔で会話したり、声援したり、讃え合う姿が、トラディショナル・スポーツと一線を画すところです。それは、トラディショナル・スポーツの勝敗を分ける対戦選手同士の駆け引きというものがなく、エクストリーム・スポーツは、主宰者が準備したコースを、選手個々が持てる技術、体力、勇気で果敢に挑戦するものであるからだと感じます。

スポーツクライミングは夜の早い時間帯で決勝が行われましたので、テレビにかじりついて見ました。もう選手皆がスパイダーマン(蜘蛛人間)、超人でした。

ブレイキンやスケートボードは、技が複雑な上に高速で行われるために、何が何だか理解できませんでしたが、もうホント、エクストリーム!理解の先の超人的演技で、魅了されました。すべての選手を讃えたいと思います。


しかし、選手個々が情報発信するSNSに心ない誹謗中傷が書き込まれ、選手が傷ついているというニュースには、心が暗い気持ちになりました。

SNSは個人が、世界中の人々に情報を発信できる素晴らしいツールでありますが、近年はSNSが個人を貶める誹謗中傷だけでなく、個人が様々な形で犯罪に巻き込まれる切っ掛けとなっています。

現代の私たち、もっと云えば、自らの輝かしさを発信して、「いいね!」を沢山貰いたいという承認欲求をSNSツールはいとも簡単に満たしてくれるために、誰もが危険性を感じずにSNSに情報発信する様になりましたが、ネットの向こうには顔も名前も分からない人々、考え方が違う、性的嗜好が違う、もっといえば犯罪者もいて、傷つけてやろう、犯罪に巻き込んでやろうと手ぐすねを引いている者がいることを、意識して、自らの責任で使わなければいけないと思います。

まして、責任をまだ負えない子どもや、精神的に傷ついてしまう恐れがある人は、保護者や信頼の置ける人が指導するか、もしくは使わせないことが必要だとも思います。

色んな意見や考え方、称賛や妬みがあるのが人間世界です。テレビを見ながら愚痴るとか、便所の落書き程度なら(落書きも立派な犯罪行為ですが)、目にすることも耳にすることも無いでしょうが、自分の情報発信するSNSの書き込みは、ダイレクトに自分に返ってきてしまうことに注意はすべきです。

SNSの外部からの書き込みを、自動公開せずに、自ら、もしくは信頼できる人が判断しで公開非公開できれば、この問題は、少しは改善できるのではないかと思います。

2024年8月10日土曜日

人間はこれでいいのか?

 8月6日夜に放送された「NHKスペシャル 原爆 いのちの塔」を観ました。

数十万の人間が生活する都市の頭上に、人類史上初めて投下された原子爆弾が炸裂して地上数キロメートルを一瞬で廃墟にした直後から、爆心地から1.5キロメートルの辛うじて全壊を免れた広島赤十字病院の医療従事者たちは、自らも大いに傷つきながら、次から次と運び込まれる原子爆弾によって重傷を負った人々の救急救命活動を開始しました。

このドキュメンタリーは、今年新たに見つかった、当時の病院長竹内釼軍医が書き記した手帳と601名の病床日誌を丹念に調べて、当時この病院で何があったのかを再現ドラマを交えて、時系列で辿るものでした。


これまでも、原爆を題材にした文学・絵本、長田新先生が編纂された作文集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を読み込み、また映画「ヒロシマ」や数々の調査ドキュメンタリーを見てきて、原爆によって未曾有の被害を被った広島の人々が、その後も、アメリカから原爆の効果を調べるためのモルモットの様な扱いを受けたこと、同じ日本人から様々な差別を受けたこと等々を、学んで知っている気になっていました。

しかし、このドキュメンタリーを見て、広島赤十字病院で起こった出来事に戦慄を覚えました。

医療器具も物資も無いに等しい窮状を院長が世界赤十字に訴えたことがアメリカに利用されました。世界赤十字から医療物資を継続的に送ることを依頼された占領軍のアメリカは、「残留放射線や原爆の効果を調査する」という第一目的を広島の人々に悟られぬ為に、調査団を救済用の医療品を配布する名目で広島に送り込むことに成功しました。以後アメリカは自国の利益のためだけに広島をモルモットにして残留放射線と原爆の効果を調査し、その調査内容は、広島の原爆罹災者のために一切役立てられることはありませんでした。また、以後、約束されたはずの、継続的な支援は行われることもありませんでした。ここにはヒューマニズム、人間尊重という、彼らアメリカの建国の理念を、ひとかけらも感じる事が出来ませんでした。

そして、原爆投下から44日後の9月19日、GHQがプレスコードで原爆批判を規制してからは、日本政府は以後10年間、そして日本国内からの、諸外国からの、支援は一切広島に届かなくなりました。


広島赤十字病院には医療従事者として、原爆が投下される前、医師や看護婦、看護女学生など総勢501名が働いていました。原爆投下直後、250名が重傷を負い、その内の51名が死亡しました。そして一時も休む事の出来ない救急救命活動の中で、ひとつき後には、6名が過労入院し、262名が帰郷療養し、広島の医療従事者の不足は深刻な事態に陥りました。

病床日誌の記録によれば、原爆が発した放射能によって、医師たちは経験したことのない未知の症状に直面することになり、手も足も出ないまま、人々が次々と死んでいくのを見送り続けました。

そして原爆投下から63日後の10月8日、若い医師が病室で自殺しました。彼は以前に赤十字病院が広島の人々の希望となっていることを誇らしそうに院長に話していました。しかし亡くなる直前、彼は同僚に、「人間はこれでいいのか?人生とはなんなのか?」と打ち明けていたと云います。この言葉から、若い医師の絶望感が痛烈な痛みとなって伝わってきました。孤立無援、そして未知の脅威を前に無力であることの絶望、また自らも原爆罹災者であることから目の前の施しようのない患者を自分に置き換えたのかもしれない恐怖、想像しても、今の私では決して想像しきれない絶望に蝕まれたのだろうと思います。


そして、ドキュメンタリーの最後で、

今年6月24日、ウクライナ赤十字の医師たちが、「核兵器が使われた時、何が起きるかを知りたい」と、現在の広島赤十字原爆病院の知見を求めて訪問したことが記されていました。長崎を最後に、現実の戦争で79年間使われることの無かった核兵器が、ロシアのウクライナ軍事侵略により始まった戦争で、ロシアによる核兵器の使用が現実の脅威となったことが背景にあります。

日本が核兵器を保有していない国の中で、また唯一の原爆の被爆国として、原爆が引き起こす災いとその治療の知見を79年間積み重ねてきたことが、ウクライナに役立てられることには大いに意義を感じるとともに、核兵器の使用が現実の脅威となったことに落胆を覚えました。考えれば分かることですが、核兵器保有国は、決して公にはしませんが、日本よりもずっと進んだ知見を保有しているだろうと想像できます。しかしそういう知見は決して他国に明かされることはないでしょう。その理由でも、これは日本しか果たせない、悲しくも、他国を救う一助となる意義のある行為であると思いました。


日本は、いまはまだ戦時ではありませんが、ヒューマニズム、人権が非常に軽んじられる国へと陥っています。日々、「人間はこれでいいのか」と思わずにはいられない、残酷、残忍な事件や問題が噴出しています。人権が尊重されない個人主義、自由主義、拝金主義が世の中にまかり通っています。その反動として、私たちが国家による厳しい規制や統制を強く求める事態が来るならば、100年前と同じです。国家権力が絶大なものとなり、国民の人権は奪われ、為政者の利益のための戦争が始まって、国民は戦争ゲームの捨て駒に成り果ててしまうでしょう。現在のロシアやイスラエルの様にです。


2024年7月30日火曜日

ドラマ「新聞記者(Journalist)」を観て

『もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから。実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統は良いが、その大きさ故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思います。

その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのを止めない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単には現れないでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。』

この言葉は、詩人のメトレス、手工業・政治家のアニュトス、民衆扇動家(デマゴーグ)のリュコンら三名によって、『国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた』という罪で訴えられたソクラテスが、裁判でアテナイ市民500名の陪審員の前で弁明を行う、プラトン著「ソクラテスの弁明」の中で、私が一番感銘を受けた言葉です。

ソクラテスは若い頃から、賢者・智者を自認する雄弁家、教育者、政治家、芸術家などとの対話を求め、その結果、彼らの愚かさを図らずも世間に知らしめたばかりでなく、ソクラテス自身の智者としての名声を高めたことにより、彼らや彼らのような人々から憎しみや怨みを買う存在となっていました。そして70歳の直前にソクラテスは、彼らから遂に、いわれのない罪を着せられ、裁判に掛けられ、彼らの煽動的な告発に感化された陪審員によって罪が確定したのみならず、罰として死刑が確定し、最後は、友人や支援者に見守られながら自ら服毒し死を遂げました。

私は、先のソクラテスの言葉から、ソクラテスこそがジャーナリストの祖なのではないかと考えるようになりました。ジャーナリストは、不明なることや不確かなことを自ら調査して明らかにし、明らかになった事実を世の中に問い、世の人々が正しいと考えられる行動を促す役割を担っています。それ故に、事実を明らかにされたくない者たちから憎まれ、恨まれ、狙われ、陥れられ、最悪の場合には命が奪われる存在だからです。


なんで、このように思いを馳せたかといいますと・・・

先日、Netflixで2022年に公開されたドラマ「新聞記者(英語タイトル:Journalist)」を観たからです。

このドラマ、見た方なら御存じでしょうが、安倍内閣の時代に世間を騒がせた森友学園問題や参与として政府の闇に深く関与する人物の犯罪疑惑、そしてコロナ感染初期の人間軽視などを彷彿とする物語であったために、公開当時、保守系の新聞や雑誌等から、現実の疑惑やその疑惑の調査過程とのそごが指摘され非難されていました。また、疑惑の中で亡くなられた方の遺族のドラマ化への賛同が得られぬままに、制作され公開されたことも、批判の理由となっていましたが、実際に鑑賞された視聴者の感想は、肯定的な意見や俳優の鬼気迫る演技を称賛する意見も多数見受けられました。


私も、素直に、このドラマが描き出す、疑惑に人生を傷つけられた人々や疑惑に荷担した人々の葛藤や苦しみに、大いに胸を痛め、また、隠蔽を指導し、隠蔽が暴かれることの無いように、どんなに人々が苦しもうと、手段を選ばず、脅し、世論を誘導し、弾圧する政府中枢に潜む冷血漢に心底恐怖を覚えました。

そして、それ以上にドキュメンタリーを思われるこの物語が、どんな結末を用意しているのかを見届けたいと強く思い、見届けました。

ドラマは、疑惑の中で亡くなられた方が、一体誰に殺されたのか、何で殺されたのかを明らかにするために必須であった、証拠や証人が現れて、ようやく、裁判が行われる場面で終わりを迎えました。

現実の疑惑の裁判は、政府の鉄壁に阻まれて、解明すら遅々として進まないでいる状況です。ドラマには疑惑を解明する一筋の光明が見出せたことも、現実と比べ楽観的と厳しく観られる点であるのかもしれませんが、現実でも、今後、解明を一気にするめるような証拠や証人が現れることを、私は希望してなりません。

また、これこそが、このドラマが作られ公開された意義ではないかと思いました。


古代ギリシャ世界では、賢者・智者として認められることが成功の糸口でした。この成功によって名声、金、地位、そして権力を手にすることができました。

ソクラテスは、若い頃に友人のカレイフォンが、アポロンの神託所において巫女から「ソクラテス以上の賢人はいない」との神託を授かってきたことにショックを受けて、自らは愚者であると自覚していたことから、自問し、遂に一生を掛けて神託の反証を試み続けました。それが賢者・智者を自認する人々との問答でした。ソクラテスは、問答を続ける中で、「知らないことを知っていると思い込んでいる人より、知らないことを知っている私の方が、少しは賢いのかもしれない」と神託の意味を考えるようになっていきます。

しかし、もしかしたらソクラテスは、アテナイに蔓延る様々な疑惑や問題に光を当て、アテナイ市民に善と悪について考える切っ掛けを与え続けていたのではないか、とも想像します。


現代の世界においても、報道の自由は、ヒューマニズム、参政権とともに、もっとも重要となる人間の権利です。

ジャーナリストが活躍できなければ、報道の自由が失われれば、一握りの絶大な権力を握る為政者の堕落を招き、組織もシステムも、国家でさえも、停滞や腐敗によって死に体に陥ってしまいます。その結果は、歴史を見れば明かです。独裁や戦争が始まり、国民の命が踏みにじられることになります。

ジャーナリストが活躍できれば、停滞や腐敗がいち早く捉えられ、それによって改革や改善に繋がり、組織やシステム、国家の新陳代謝をよくすることに繋がります。


現在の日本は、様々な組織やシステム、国家に対して不信が広がり、日本人が美徳としていた礼節、利他、そしてか弱き隣人、子ども、女性、高齢者、身体や精神に不自由を抱える人々に手を差し伸べる無償の行為、そして、社会の基盤となって働いてくれる保育士、教師、介護士、看護師、医師への感謝と尊敬がどんどんと失われ、すべてが拝金ビジネスに取って代わられ、人間がもの扱いされる事態となってきました。


本当にどこから手を付ければよいのか、難しいですが、私たち一人ひとりは物でなく、大切な命、人権が保障された人間であることに立ち戻れるように、ジャーナリストに活躍してほしいと願わずには居られません。

2024年7月8日月曜日

民主制の本当の選挙について考えてみました。

 56名が立候補した七夕都知事選は、現職の三選で幕を閉じましたね。兵庫県民からみれば関係のない首長選挙でしたが、現職や参議院議員を辞職して立候補した候補の学歴詐称疑惑が取り沙汰されたり、もっともえげつなかったのは多数の候補を擁立した政党が「供託金の有り様」に一石を投じるという名目で選挙ポスターの掲示板を広告板として売り出し、選挙とは全く無関係の広告、さらに云えば公序良俗に反する広告や画像が掲示されるという前代未聞の事態が起こった選挙戦となりました。選挙ポスターの件で云えば、こういう事態を取り締まる法律がないということで、よっぽどの公序良俗に反するもの以外は、選挙戦中広告板として利用され続けました。法律に規定がなければ何をしてもよい、そしてそれを取り締まれないというのは、日本人が大切にしてきた礼節というものが軽んじられたり、廃れたりしている何よりの証のように思えました。


ただ「選挙の供託金」については、私は無くさなければならないという考えです。高い供託金を課すことで、泡沫候補を候補者から閉め出すというのが供託金の名目です。

しかし、国政選挙だけでなく地方選挙でさえ、結局は何故か潤沢な資金力のある現職の候補に有利に働くばかりで、志あれども金も人脈もない人は、選挙に出て、公の場で声を発することが出来ないばかりか、潤沢な資金を要する既成政党におもねってロボット議員になるしかないのが実際です。

同時期に行われたイギリス総選挙では、現職のスナク首相に並んで泡沫候補の自称ゴミ箱伯爵が「クロワッサンの価格に上限を導入」と声高に訴えていました。彼がイギリス国民に訴える真の狙いは「誰を支持するかに関わらず、皆さんには是非投票に行って欲しい。そして何より皆さんの票を無駄にしないように」でした。


今回、都知事選の立候補者は56名でしたが、たとえばの話ですが、選挙権を持つ18歳以上は誰でも、立候補でき、供託金も必要がないとするならば、東京都の18歳以上の人口約1200万人の全員が立候補することも可能なのです。たった一言でも、自分の声を公共の場で発言することが出来るのです。その声に賛同した100人がその候補に投票したとする、これを無駄とは、私は思えないのです。

誰もが、志が高かろうが低かろうが無かろうが、ただ一言発したい、意見を述べたい、と云う理由だって、議員になりたい有無なんて構わない、立候補するに十分過ぎるほどの理由なのではないかと思えるのです。これこそ民主制の選挙の有り様ではないかと思えるのです。

選挙戦は、インターネットを利用したって構わない、公共に設置された会場で発言したって構わない、小さな集会所や自宅を利用して、有権者に訴えても構わない、但し、公序良俗に反しない限りにおいて。他の候補者を誹謗中傷したり迷惑行為、暴力行為は絶対に許さないという制限のもとに。有権者に立候補者としての自分の訴えたいことを訴える。

こんな選挙なら、実際に投票率100パーセントの選挙も夢では無いと思います。国民一人ひとりが声を発する、声を届ける、声を聞くお祭りとしての選挙、これこそ民主制の本当の選挙の有り様ではないかと思えるのです。

選ぶのも国民なのです。だれかれに指図されるものではないのです。

2024年7月4日木曜日

第3回「核なき未来」オピニオン募集!「核兵器に頼る国のリーダーへ ―今、あなたなら何を訴えますか?―」

午後のNHKニュースを見ていたら、長崎放送局から『核なき未来テーマに意見募集 若い人に核兵器問題考えてもらう』という話題が報じられました。


『核なき未来』をテーマにした意見を募集している長崎大学核兵器廃絶センター(略称:RECNA Research Center for Nuclear Weapons Abolition)のホームページを開くと、具体的な設問は、『核兵器に頼る国のリーダーへ 今、あなたなら何を訴えますか?』とあり、核兵器保有国のリーダー、或いは「核の傘」の下の国のリーダー(一人でも複数でも)に宛てたメッセージを書いてみてください、と書かれていました。

募集資格は、U-20の部が16歳~19歳、U-30の部が20歳~29歳で

応募期間は、2024年5月1日~7月31日でした。

https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/topics/45990


私は、募集年齢制限に抗って、私の意見を以下に綴りたいと思います。


と、その前にRECNAに問いたいことがあります。それは核兵器保有国のリーダーを一括りにしてよいのか?という問い掛けです。RECNAは核兵器保有国に、ロシア、米国、中国、フランス、英国、パキスタン、インド、イスラエル、北朝鮮の8カ国を挙げていますが、国の安定度合、発展度合、核兵器としての脅威の度合、そして戦争状態か否か、まったく異なります。一元化してよいものでは、私は無いと思います。

そして、もう一つは、核兵器保有国と核の傘の下の国とは、破壊力の保有という点で天と地ほどの差があるという事です。核の傘の下の国は条約という契約で保護受けているのです。その前提で話を始めなければいけないのではと思います。


地球上の世界は国連の下で平和が維持されるという幻想は、もはや世界中の誰一人として抱いてはいないでしょう。

20世紀末、経済と軍事力で世界中の国々を米国主義に従わせた格好の米国が、国内問題から二つの大戦前の内向きな米国へと退行し始めた結果、冷戦期に米国と世界を二分したロシアが再び軍事力で世界の脅威となり、この30年余りで米国と経済と軍事力で拮抗するまでに急成長した中国、そして中国を追う世界最多の人口を誇るインドも、近隣諸国に力を誇示するようになってきました。北朝鮮のような経済だけでみれば世界の最貧国である国が、国民を犠牲にした核兵器開発に邁進した結果、核弾頭ミサイルの保有国の一つに数え上げられるまでになりました。そしてイスラエルが現在進行形でパレスチナの人々に行ってきた非道は、まったくもって非人道的としか云えません。

これらの国が保有する核兵器は、隣国を脅し、最も強大で最悪の破壊をもたらす兵器であり、また、自国が核兵器による最悪の破壊を受ける代償として敵国にも同様の破壊を与える、それが為に敵の核兵器使用が抑止される武器、自国が敵国の攻撃から守ることができる唯一の武器という神話を帯びた武器となっています。

たった一つの国、一人のリーダーが「核なき未来」は世界中が我にひざまずく未来と掲げる限り、「核なき未来」を人類だけで導くことは出来ないと思います。

もし「核なき未来」が開けるとしたら、人類よりも遙かに進歩した知性が現れ、人類から悪癖、悪行を消し去るか、われわれ人類が滅びるしかないのではないかと思います。


そして、一つ確かなことは、核兵器が存在する限り、人類はいつ滅んでもおかしくないと云うことです。一握りの人間が、核兵器戦争の勃発を察知して、地中深くの核兵器に破壊されず、放射能の汚染にも晒されないシェルターに逃げ込めても、世界中が核兵器で破壊され、何十年、何百年にも及ぶ放射能汚染に晒されれば、シェルター内の人間も安全な食料、空気、水が尽きれば、死を免れることはないということです。


如何様なリーダーも、独裁者も殺戮者も、いつか死が訪れます。自分の子、孫、遠い未来まで子孫を存続させたければ、核兵器を廃絶するしか手がないのです。

しかし、自分の死を持って世界を終わらせたいとする独裁者、殺戮者、いわゆるヒトラーのようなリーダーが再び現れれば、躊躇することなく核兵器を実践で使用するでしょう。

ということは、リーダーを、というよりも、そのようなリーダーを持たない、作らない、許さないという、われわれ一人一人の意志の決意こそ、本当に大事なのだと思います。

民主的でないかもしれない、でも、決意してわれわれが実行しなければ、遠からずわれわれは、われわれの子孫は、悪に取り憑かれたリーダーによって滅ぼされてしまうことになってしまうでしょう。

その為にも、われわれ、それぞれが欲望を抑えて、世界中の人々と連帯し、核兵器保有を良しとするリーダーを排除し、そして二度と、そのようなリーダーを持たない、作らない、許さない、という意志の決意を強い行動で示し続けなければなならないと思います。

 

2024年6月23日日曜日

ありったけの地獄を集めた戦場

沖縄県が制定している記念日『慰霊の日』(6月23日、沖縄戦等の戦没者を追悼する日)の今日、朝日新聞の

記事:「ありったけの地獄」沖縄戦とは何だったのか?

https://www.asahi.com/articles/ASS6P3T3XS6PUTIL032M.html?iref=pc_ss_date_article

の記事は『米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだ。』という書き出しで始まっていました。が、この一文についての解説や補足説明はありませんでした。


ググって見ますと、ある方のブログに、

『アメリカ軍兵士が、目の前の惨状を見て口にしたと言われています。』

と書かれていました。


ウィキベディアの沖縄戦の概要説明には、

『沖縄戦は、1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了した。』

『使用された銃弾・砲弾の数は、連合軍側だけで2,716,691発。この外、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われた為「鉄の暴風」と表現される。』

『残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる不発弾処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。』

『沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援助課の1976年3月発表によると、日本の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4分の1がなくなったことになる。』

住民の犠牲者数については、

『沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明で94,000人は推定である。終戦直後の1946年統計は戸籍が消失したり一家全滅が少なくないなどの諸事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、また海外からの引き揚げ者4万人以上や復員兵が多数含まれる為、計算上の人口減少より実際の戦没者の方が大きいと推定される。』

『また、日本側死亡者のうちに朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から洩れているとの見方もある。』

アメリカ軍側の戦死者については、

『アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人となったが、これは1944年12月に戦われた西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人を上回り、アメリカ史上での、オーヴァーロード作戦(ノルマンディーの戦い)、第一次世界大戦におけるムーズ・アルゴンヌ攻勢に次いで3番目に死者数が多い戦いであった。』

『戦傷者は最大で55,162人、戦闘外傷病者26,211人を加えた人的損失は実に投入兵力の39%という高水準に達した為、ハリー・S・トルーマン大統領らアメリカの戦争指導者たちは大きな衝撃を受けて、のちの日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の方針決定に大きな影響を及ぼした。』

などが書かれていました。


沖縄戦の激戦の1つとされる「前田の戦い」という日本軍陣地「前田高地」を巡る戦いを描いた映画があります。2016年に公開された「ハクソー・リッジ」です。監督メル・ギブソンは、前田高地をこの世ではない地獄の世界として映像表現していました。日本兵は殺しても殺しても立ち上がり向かってくる屍人として表現していたのも印象的でした。


これほどまでに、アメリカ軍兵士におぞましいと言わしめた惨状は、誰が引き起こしたのか?何が引き起こしたのか?誰も止めようとはしなかったのか?


沖縄県の平和記念公園の平和の礎(いしじ)には、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名が、国籍や軍人、民間人の区別なく、刻まれ続けています。掲げられた理念には、『国内外の20万人余りのすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和の享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。』と書かれていました。


現在は、やはりかりそめ平和なのだと思います。沖縄戦ひとつをとっても、79年と年月ばかり過ぎて、日本政府すら総括したことがありません。アメリカは尚更です。

現状のなし崩しの平和を受け入れている状況では、いつまでも戦没者の御霊は彷徨うばかりなのではと思います。