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藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2020年7月13日月曜日

国内地域別感染者数

出典元:
朝日新聞Digital
https://www.asahi.com/special/corona/
発表日の0時点=前日
発表後に修正された数値があるが、このグラフでは更新していません。
特に(-数値)

公益財団法人ニッポンドットコム
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00663/





2020年6月22日月曜日

おやじの唄

先日の事です。
カンチャンの家で、イチャサンが歌を聴かせてくれました。その歌は吉田拓郎の「おやじの唄」でした。
酔ったイチャサンは、本当はオッチャンが亡くなった時に酷く落ち込んでいたマエダに聴かせたかった、でも聴かせることができなかったと話します。
マエダはお父ちゃんが大好きやったからこの歌聴かせたかった。でも歌詞の中に
「おやじが人のことを疑うことを教えてくれた」とか
「おやじが人を裏切ることを教えてくれた」という詩があって、それで気分を害するんじゃないかと思い、贈れなかった・・・
28年も前の出来事についての突然の告白に、少々戸惑いましたが、でもそれ以上に友の心遣いに感銘を受けました。

そして、今まさにイチャサンは28年前と同じ心模様である事も知りました。過日、長い闘病の末に逝った父を見送ったばかりの万ちゃんへの心遣いです。
万ちゃんもおっちゃんが大好きやった。だからこの歌贈りたい、でも・・・贈れない

吉田拓郎の「おやじの唄」は、1972年に拓郎を一気にスターダムにのし上げた「旅の宿」のB面曲として発表された歌でした。広島から一人上京し歌手活動に奮闘していた最中に、届いた父親の訃報。スケジュールの詰まった拓郎は帰省する事ができず、東京の自室に一人となってこの歌を作ったと云います。時に拓郎26歳。

※詩を転載させて頂きます。

「おやじの唄」
吉田拓郎

おやじが全てだなんて 言いませんよ
僕一人でやった事だって 沢山ありましたよ
一つだけ言ってみたいのは
おやじが人を疑うことを 教えてくれたこと
おやじは悲しいくらいに 強い人でしたよ

おやじが全てだなんて 言いませんよ
僕一人でやった事だって 沢山ありましたよ
一つだけ言ってみたいのは
おやじが人を裏切ることを 教えてくれたこと
おやじは泣きたいくらいに 酷い人でしたよ

おやじが全てだなんて 言いませんよ
僕一人でやった事だって 沢山ありましたよ
一つだけ言ってみたいのは
おやじが人を愛することを 教えてくれたこと
おやじは惨めなくらいに 独りぼっちでしたよ

おやじが全てだなんて 言いませんよ
僕一人でやった事だって 沢山ありましたよ
一つだけ言ってみたいのは
おやじが生きると云うことを 教えてくれたこと
おやじはやるせないくらいに 精一杯でしたよ

おやじが全てだなんて 言いませんよ
誰だって一人でできること位 ありますよね
一つだけ言ってみたいのは
おやじがいつもの口癖通りに 生き抜いて見せたこと
おやじは誰にも見られずに 死んでいきましたよ

おやじが全てだなんて 言いませんよ
だけどおやじもやっぱり 人間でしたよ
死んでやっと僕の胸を 熱くさせましたよ
死んでやっと僕の胸を 熱くさせてくれましたよ

youtube「よしだたくろう☆'70~'72をめぐる冒険⑨おやじの唄の巻」
https://www.youtube.com/watch?v=bjqRXySAr5g


詩にこもる父親への愛憎と感謝、
32歳当時の私は、もしかしたら複雑な感情や否定的な感情を覚えたかもしれません。
でも今60歳を前にした私には、精一杯生きた父親への賛歌です。
ありがとう拓郎
ありがとうイチャサン

2020年6月8日月曜日

弔意

連中の親が、また一人黄泉へと旅立たれました。
昨日、長きに渡る闘病を終えられてご自宅に戻られたと連絡があり、他の連中と共にお別れに行きました。
闘病の間、何度も危険な状態に陥られたという事で、おばさんの、もう覚悟はできていたという言葉が印象的でした。
今日も外は五月晴れが広がり、空気は涼やかで清らかです。おじさんの旅立ちの心情であればと思います。享年八十六歳、ご冥福をお祈り申し上げます。

2020年5月7日木曜日

学校の始業時期の変更について

新型コロナウィルスのパンデミックで、二月末から学校は休業状態が続いています。春から初夏へと向かうこの季節は、例年、学校では様々な行事やスポーツイベントが目白押しで、子供達や学生達の明るく賑やかな姿や声が町中を彩っていました。しかし、今年は未だ学校は休業状態で、学校行事もスポーツイベントも中止に追い込まれ、学校も町も静寂に覆われたままです。本当に異常で、残念でなりません。

5月4日、安倍晋三首相が記者会見し、非常事態宣言の一ヶ月延長を発表しました。
感染の状況を注視し、感染抑止の効果が見られれば前倒しでも解除する、という内容でしたが、これまでと同様に、国民が望む非常事態宣言解除の指針も国民の心に届く連帯や希望のメッセージもありませんでした。そして、医療崩壊、経済崩壊と同様に、深刻の一途を辿る学校教育崩壊に対する具体的な対策も打ち出すことはありませんでした。

学校教育では教育機会の格差の広がりを是正することが緊急の問題です。
一部の学校では、ITを活用したオンライン授業をスタートさせて、授業の継続を図っています。このオンライン授業を全ての学校で実現することを今、求められるようになりました。しかし、これから新たにオンライン授業をスタートさせるには、周到な準備が必要です。
インフラを整え、それを維持し続けるには、それなりの人・物・金が必要です。そして教師は、ディスプレーと音声だけで円滑に授業を進めるためのプログラムとその実践スキルが必要です。なにより生徒側のデジタルデバイドが解消されなければなりません。
付け加えるならば、ネットワークは現状のままではパンクしてしまうでしょうし、通信費、イニシャルコスト、ランニングコストを全ての家庭が負えるわけはありません。無理が生じれば、それが次なる教育格差を生じることにもなりかねません。
私は、オンライン授業がこれまでの学校教育に置き換えられるものか、検証しないかぎり、これまでの学校教育の補完に留めるべきだと考えます。

それよりも「学校の9月始業」の実現です。
「学校の9月始業」を推奨する有識者の人々は、この際、欧米のスタンダードである「秋始業」に切り替え、世界の学生や指導者との知性の交流を活性化することで、近年懸念される子供達や学生の学力低下を是正し、向上を図ると共に、グローバルに活躍することができる人財を育成できると訴えています。それは非常に有意義な目的です。
しかし、現在の本来の義務教育がストップし、地域や学校によって教育機会や習熟に格差が広がっている現状を抜本的に改善するためにも実現は必要だと考えます。

秋からのリスタートを決定することで、学校や教師は、秋までの3~4ヶ月をリスタートの準備や、補完のためのオンライン授業の準備に充てることができます。また子供達や学生は、リスタートまでの期間を予習や復習、そして、さらに見識や視野を広げる為の読書などの学び、体力作りに充てることができます。マイナスをプラスに換えることができると考えます。またそうしなければいけないと考えます。

学校の終業を春から秋に変えることで、社会は様々な変化を求められるでしょう。でも社会は変化することで応えなればなりません。教育を、未来の有る子供達や学生を支援することは社会の大事な使命だからです。社会こそ試行錯誤すればいいし、それが良い新陳代謝に繋がると考えます。

2020年5月6日水曜日

デモクラシーの国の、リーダーの有るべき姿

新型コロナウィルスのパンデミックは、私たちに一つ、とても重要な事を気づかせてくれました。それは「リーダーの有るべき姿」です。

デモクラシーを標榜する国家において
平時にリーダーに求めるものは、誰もが活躍することができる社会を作り、それが維持出来るように見守ることです。それには公平さと愛と忍耐が必要です。
しかし有事にリーダーに求めるものは、先頭に立って、明確に進路を示し、切り開くために行動することです。それには、鉄の意志と真心と責任感が必要です。
ですから優れた真のリーダーには、平時にも有事にも対応できる特性を併せ持たなければなりません。しかし、そうでなくとも、局面に対応できる特性を持つ人がリーダーであれば、私たちは安心です。

しかし、私たちの国のリーダーは、
平時には強いリーダーを自ら名乗り、雄弁に美辞麗句を並び立てました。リーダーの公私混同や私利私欲がどんなに酷くても、世の中が回ってさえいれば、国民は目をつぶり穏便に済ませてきました。
しかし、未曾有の国難を前にしても、役人が用意した台本を棒読みするだけで、自らの意志を示す言葉を持たず、国民に寄り添う言葉を持たず、責任を負う意志を持たない、つまり「三無し」であることを私たち国民は見ました。

ドイツやイギリスの首相は、自らがウィルス感染の恐怖を経験し、この国難に共に戦う国民に、心からの感謝を示しました。
アイルランドの首相は、医師として医療現場に復帰しました。
台湾の総統は、流行する前に対策を国民に示し、優秀で意志の強い人材を対策チームに配置して、そのリーダーシップで国内の感染拡大を封じました。
日本よりもさらに個人の人権が尊重される韓国では、日本とは真逆の対策、誰でもウィルス陽性検査が受けられる対策で、感染の信頼できるデータを把握し、それによって感染拡大を封じました。

私たちの国のリーダーは、
もしかしたら、もっと崇高に、国民の命よりも国家の形、これまでと変わらぬいにしえからの器を残すことに重きを置いているのかもしれません。
しかし、繋ぐ人、紡ぐ人がいなければ、器は遺物でしかありません。
遺物はなくても、繋ぐ人、紡ぐ人さえいれば、さらによい器、いや、物ではなく精神を後の世に残せるでしょう。それが如何に、はるかに崇高であるかを、この国のリーダーを目指す人たちは学ばなければなりません。

2020年5月2日土曜日

パンデミックの後の社会

私たち日本人は、人権が尊重されていること、また言論や行動の自由が保障されていることを、当たり前の権利として、享受してきました。
これらの権利は、日本国憲法で定められています。そして私たち日本人は、日本国民である限り、日本国憲法を守る義務があります。つまり日本人が享受する権利は、私たち日本人が他者の権利を守るという義務を果たすことで成り立っています。

もし、日本国が滅びたり、日本国憲法が改正されて上記の権利が廃止されたり、また日本国の国籍が剥奪されれば、私たちは上記の権利を失います。また、他者の権利を守らなければ、権利は有名無実なものになってしまいます。

世界に目を向ければ、戦争や悪政によって祖国を追われ難民となった人々や、国籍が与えられず無国籍のままの人々が非常に多く存在します。彼らは人権を保障されず、言論や行動の自由もありません。彼らが命を繋ぐ場所は、人口密度が恐ろしく高い、狭い収容施設や収容キャンプ、保護地区といった隔離された場所しかありません。そこに彼らは留め置かれ、保護者の施しだけを頼りに命を繋ぐしかありません。
そして日本国民が、この様な難民や無国籍の民にならない保証はどこにもありません。

私たち日本人が当たり前にあると思っている人権や言論の自由、行動の自由は、国があって、国を司る法律があって、そして私たちが法律を守るという義務を果たして、ようやく手にすることができる「尊い理念」であることに、私たちは立ち戻らなければなりません。

ではあらためて、人権や言論の自由、行動の自由は誰の権利なのでしょうか。
私たちは戦後の学校教育を通じて、日本型民主主義や自由主義を学びました。しかし私たちは教科書を丸暗記しただけでした。そして民主主義は多数決主義と覚えました。多数決主義が行き過ぎれば個人や少数派が尊重されない社会を生み出します。また、自由主義は個人の自由と覚えました。個人の自由が行き過ぎれば独裁者を生み出します。
日本人が学ぶ民主主義や自由主義は、18世紀に欧米で生まれた新しい思想「デモクラシー」が源です。しかし「デモクラシー」の本質は、他の人民の人権、言論、行動を尊重する、そして全ての人民の機会均等を尊重するというものです。それが結果として、自分の権利が尊重される社会を作ることに繋がります。言い方を変えれば、個人や少数派が尊重されない社会を作らない、そして独裁者を作らない、ということに繋がります。

現在、私たちの世界は、新型コロナウィルスのパンデミックで、未曾有の大災害の渦中にあります。昨年11月に中国の武漢市で最初の感染者が記録されてから、半年で300万人を超える感染者と20万人を超える死者を出す事態となっています。しかも私たち人類は、未だウィルスの全貌を掴むことができず、このウィルスを制圧する力を得る為には、まだまだ長い時間が必要です。
日本においても、このパンデミックは日本社会の崩壊を招きかねない事態を引き起こしています。
この事態に欧米諸国の政府は、人民の命を守るために、人民の行動の自由を制限する法的に強制力のある措置に踏み切りました。人民は他の人民の命を守るという義務を受け入れ自宅に留まることに同意しました。
日本政府もようやく4月7日に非常事態宣言を発動し、国民に自宅待機を要請しました。しかし日本国民は何よりも個人の人権が尊重されるという社会通念が徒となり、政府は強制力を伴う措置に踏み込めません。それでも大多数の国民は、自分が感染しない為に、また他者に感染させない為に、そして治療の前線で感染のリスクを負いながら治療という過酷な戦いを続けている医療従事者の負担にならないために、自宅待機を受け入れています。

しかし、個人の権利をかざして、要請に従わない人もいます。言論の自由をかざして、医療従事者を貶める言論を吐き続ける人もいます。
このパンデミックの顛末は、まだ誰にも分かりませんが、デモクラシーの本質を逸脱する行為を続ける人がいる限り、感染の拡大を抑えることはできないでしょう。そして心身ともに疲弊した医療従事者が一人また一人倒れれば、言論の暴力によって医療に従事できなくなれば、日本の医療システムは崩壊します。そうなれば、これまでならどおってことのない風邪や怪我でも人は命を落としかねません。まして、病歴のある人や、現在病気を抱えている人は、これまでの様なきめ細やかな医療を受ける事ができず、命を落とすリスクが高まります。その顛末なら想像できます。現在の日本的自由民主主義社会の崩壊です。それは日本国の滅亡や人権が著しく損なわれる社会への転換を意味します。

パンデミックによって、これまでの社会システムや社会の慣習は大転換を余儀なくされるでしょう。しかし、どんなシステムに大転換するにせよ、デモクラシーの理念の上に構築されるものでなければいけないと考えます。デモクラシーの理念を蔑ろにすれば、後の社会は全体主義化、もしくは独裁化を免れることはできません。
その意味でも、私たちは、この自宅待機の時間をデモクラシーの理念を深める有意義な時間にしなければなりません。それこそテレワーキングやテレラーニングのツールやSNSツールを活用し、ネットワークを通じて学び、考え、議論し、皆で理解を深められれば、デモクラシーの理念に則った望ましい社会システム、政治システムを再構築できる可能性が高まります。そして一人ひとりが、再構築に積極的に参画する意義を見出すことができるでしょう。
そしてなにより、今のこの自宅待機を続ける意義も見出すことができるでしょう。