播磨の国ブログ検索

藪の中

先月、BSで黒澤明監督作品「羅生門」を観ました。同じ黒澤明監督作品である「用心棒」や「椿三十郎」の様な痛快な時代活劇ではなく、陰鬱な気分になってしまう平安時代が舞台の物語です。 物語は、ある殺人事件の重要参考人として捕らえられた盗賊の多襄丸、殺された若侍の新妻真砂、そして殺さ...

2024年8月24日土曜日

40-40 club

 テレビを付けると、今日のドジャーズvs.レイズ戦は同点で迎えた9回裏、二死二三塁で9番バッター、マックス・マンシーが打席に立っていました。マンシーで切れれば延長の場面で、レイズのコリン・ポッシュ投手はストライクが入らずマンシーは四球となって、満塁で大谷翔平です。8月に入り打球が上がらず絶不調となった大谷翔平もここ数試合は打撃が上向いてきた様子なので、なんとかここはサヨナラヒットを期待しましたが、その期待は初球で叶えられました。なんとサヨナラ満塁ホームラン!

このホームランと今日の試合で達成した40盗塁で、MLB 6人目の40本塁打40盗塁達成者の仲間入りとなりました。それもなんと出場試合数で最短147試合目で達成したアルフォンソ・ソリアーノ選手よりも21日も早い、8月中に達成したMLB唯一の選手となりました。

大谷翔平は、ようやく打撃の調子も上昇傾向にあるので、チームを優勝に導くとともに、是非とも前人未踏の50本塁打50盗塁を達成するところを見たいと思います。


本当に絵になりますね。凄いの一言です。


今日の試合記録

https://www.mlb.com/gameday/rays-vs-dodgers/2024/08/23/746111/final/summary/all


https://www.mlb.com/news/shohei-ohtani-40-40-club


2024年8月23日金曜日

信仰心について

「戦争になったら人が殺せるなぁ」という言葉を、軽口の中で話す人がいました。陽気で威勢のよいおじいさんでしたので、思わず「そんなこと言ったら、お釈迦様に叱られますよ」と返しました。

そういえば、今朝ドラ『虎と翼』でも、同じ様な不穏な言葉が発せられる場面がありましたね。新潟編で、寅子も一目置いていた、名士の娘で、清楚で美人でとても勉強が出来る高三の女生徒(この後、東大に合格)森口美佐江が、良家の子息たちが起こした集団暴行窃盗事件や子女たちが起こした売春未遂事件に関与していることを察した寅子が、美佐江に直接問い掛けたときに、美佐江が話した言葉です。美佐江はこんな話をしましたね。

「悪い人(美佐江の偏見)からものを盗んで、何故悪いのか」

「自分の体を好きに使って(売春してお金を稼ぐ、欲望を満たす)、何が悪いのか」

「人を殺して(もしかしたら自殺も含む?)、何が悪いのか」

「(法律では罰せられる罪であるが)何故悪いのか、私には分からない(納得出来ない)」

寅子は、美佐江が、良家の子息子女を「特別な人」という優越感を与えることで美佐江の思考で洗脳し、まるで実験でも行う様に犯罪行為に誘導して、その経過を冷徹に眺めていたことを理解し、戦慄を覚えます。


まず、戦争での殺人について、

戦闘行為以外で、捕虜の人権を侵害したり殺害する行為は、また、民間人の人権を侵害したり殺害する行為は、戦争犯罪行為に当たります。戦争犯罪が国際法で制定されたのは1946年です。ですから、先述のおじいさんの意見は間違いです。たとえ戦争の最中であっても、殺人は許されず重い罪になります。


ただ美佐江の様に、賢く、知識として法律の条文を理解していても、条文で禁止、あるいは規制された行為が、本質的に何故だめなのか、自分自身を真に納得させる理由が見つからず、自分を規制できない、抑制できない、或いはそのことで苦しむ人がいるということも、私たちは知っておかねばならないのだと思います。


『悪について』(英題 The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil)という20世紀半ばに書かれた本があります。作者は、ドイツ国籍のユダヤ人精神分析学者エーリッヒ・フロムです。

人間以外の動物は、生きるため、子孫を残すため、その本能の銘ずるままに、弱きもの、それが同種族であっても、親子兄弟であっても、殺し、その肉を喰らい、また強き子孫を残すために自分の体を差し出します。

しかし、人間社会には法があり、人間社会に生きる人間は、法の定めに従いながら生きなければなりません。そのために私たちは、法であったり善行を教育によって学び体得します。それを用いて私たちは、動物として本来もつ本能を、押さえ込み、人間社会を生きています。

この法や善行に逸脱する行為を、私たちは『悪』と呼びます。『悪』は、むき出しの動物的本能であったり、また病的に逸脱した欲望の衝動であったりします。

『悪』が動き出す時、そこには同調者が集まり、『悪』は肯定され、ブレーキの無いまま暴走します。そして、筆舌に尽くし難い、残虐行為、非道徳行為が起きてしまうのです。フロムのそれはナチズムが引き起こしたホロコーストであり、その悪の権化はヒトラーでした。

しかしフロムは、慈しみやヒューマニズムを尊重する心を、人間社会で生きていくためにしっかりと育み、悪の予兆があっても、早期に摘み取る術を人間社会が持つことで、悪の栄えを抑制できると述べていました。


私は、それが『信仰心』であると考えています。

『信仰心』は、人間が人間として目覚めた太古から、人間の心に芽生え育まれてきたものだと思います。『信仰心』とは、読んで字の如く、信じ敬うものに服する心です。誰からか強制されたり命令されたりして服するものではなく、自分の心が善と信じ服すると決めたのです。ですから、私たちは、自らの『信仰心』を裏切ることはありません。


私には、『信仰心』に服した人物で、見習いたいと思う人物がいます。

ひとりめは、ソクラテスです。

ソクラテスは、今から2500年前のデモクラシー都市国家アテナイの一市民でしたが、アテナイや古代ギリシャ世界で民衆を指導する、教育する、煽動する、地位があり発言力のある人物たちを訪問しては、彼らの土俵で対話することによって、彼らの愚かさを民衆に明らかにしました。現代でいえば、危険を顧みず真実を明らかにするジャーナリズムを体現した人であったと思います。このことで恨まれたソクラテスは、70歳を前に冤罪で訴えられて死刑に処されましたが、裁判では自らを弁明し、『もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから。実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統は良いが、その大きさ故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思います。

その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのを止めない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単には現れないでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。』とアテナイ市民に訴えかけていました。

ソクラテスは、真実にしっかりと目を向けて、自分の考えを持って、責任ある行動をすることを、時代を超えて、私たちに訴え続けているのだと、私は思います。


ふたりめは、お釈迦様です。

お釈迦様は、同じく、今から2500年前の古代インドの小国釈迦国の王子として生を受けましたが、王子という地位を捨て、人間の根源的な苦しみ、生老病死の苦しみ、際限のない欲望を渇望する苦しみから人間を救う術を求めて修行生活に入り、35歳で覚り(人間を苦しみから救う智慧)を開かれました。そして以後は、亡くなるその日まで、身分や性別、年齢に関係なく、苦しむ人々を救うための活動と、自らの智慧をあらゆる人々に布教することを願い弟子の育成に努められました。

お釈迦様をはじまりとする仏教には十六戒というものがあります。その戒には、悪業に手を染めず、善業に励むこと、利他に励むこと、そして、盗んではならない、淫らな欲を持ってはならない、欺いてはらない、言葉や暴力で傷つけてはならない、そして殺してはならないと、私たちを戒めます。この戒めを守り、お釈迦様の智慧に近づくことで、私たち人間の苦しみは、軽減され、そしていつか苦しみから解き放たれ、永久の平安の境地に達すると言われます。


さんにんめは、ナザレのイエスです。

ナザレのイエスは、今から2000年前の地中海東岸のローマ帝国の属地であったユダヤ人の国で大工の子として生まれますが、ユダヤの祖といわれるアブラハムの神を篤く信仰し、ユダヤの国の支配者層の腐敗や差別によって虐げられたあらゆる人々を慈しみ、神の子として愛されていることを布教し続けました。そのことが支配者層に恨まれて、ローマの総督に訴えられて、磔刑に処されました。

ナザレのイエスは、神のもと、人間は平等であると説き、その教えは現在に至り、キリスト教として人間の信仰の対象とあり続けています。


「(法律では罰せられる罪であるが)何故悪いのか、私には分からない(納得出来ない)」と問う森口美佐江さんに、彼ら聖人の生き様を学び、善行と利他を尊ぶ『信仰心』を育んでくれることを願うと、回答したいと思います。 

2024年8月16日金曜日

戦争の記憶

八月になると、毎年一年ずつ過去となっていく、日本人の戦争の記憶が呼び起こされます。戦争で亡くなった人々の慰霊祭は、空襲を受け甚大な被害を被った日本全国津々浦々の町で、戦後79年となる今年も開催され続けていますが、テレビ中継されるほどの大規模な慰霊祭が八月に立て続けに開催されること、これもまた戦争の記憶を呼び起こす一因だと思います。


8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式

8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典

8月15日、全国戦没者追悼式


テレビ番組でも、日本人の戦争の記憶をもとに新しく制作されたドラマが放送されたり、アメリカやオーストラリアなど海外の国の過去の公文書が新たに公開されるなどして、近年になって発見された戦争の映像や事実が、新しいドキュメンタリーとして制作されて放送されます。


しかし、一方で戦争を肌で体験した日本人は高齢化し、戦争体験の語り部として活躍された人々も、ひとり、またひとりと亡くなられ、日本人の戦争の記憶が途絶えてしまうことを危惧する論調も聞こえてくるようになりました。


日本人の戦争の記憶・・・、象徴的であるのが広島市原爆死没者慰霊碑の碑文、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」、そして長崎平和の泉の碑文、「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」だと思います。

戦争体験者にとって、戦争は、地獄の体験であり、できることなら誰にも語らず、心の奥に蓋をしたまま思い出すことなく忘れたい記憶であり、そして二度と再び苦しめられたくない、というものではないかと想像します。また、それ以上に、挙国一致の号令のもと、日本が戦争をすることは正義であり、必ず勝利するという教育と宣伝によって疑うことなく、戦争を賛美し、あらゆる物資、そして命まで供出した結果が、悲惨な体験と敗戦であったこと、その結果の責任を誰も負わず、謝罪もなく、戦争体験者の言いようのない怒り、悲しみ、苦しみは、自らの罪として背負わねばならず、生きなければならなかったことが、何より辛い体験であったのではないかと想像します。


今も、この様にわれわれ日本人は話します。

戦争はよくない。

原爆は二度と使ってはならない。

しかし、これはあまりにも抽象的で、本質については、われわれ日本人は、われわれ日本人の問題として、悩み、考え、答えを出そうという試練を、避け続けてきたと思います。


今朝ドラ「寅と翼」で、先日、次の様な会話がありました。主人公佐田寅子と上司の東京地方裁判所所長桂場等一郎との短い会話です。

「共亜事件の後、私、桂場さんに法とは何かというお話をしたんです。」

君は法律は綺麗な水、水源のようなもの、と言っていたな。

「嬉しい!覚えていて下さったんですね

憲法が変わっても尚、社会のあちこちに残る不平等を前にして思ったんです。

綺麗なお水、水源は、法律では無くて、人権や人の尊厳なのでは無いかと。」


私は、これだと思いました。悪法でも法律、人権を蹂躙する法律、人間の尊厳を認めない法律も、法律であり、われわれ法の下にある者は、従わなければならない。これが正しい行動であり選択である、とわれわれはずっと教育を受けて信じてきました。きっと法というものが定められた古代から、一貫して従うことが正しい、崇高なものであると、われわれはすり込まれてきたのだと思います。

しかし、法はあくまでも時の為政者が民を都合よく支配するための道具であるという側面があったことは否めません。近代になって理念として芽生えた人権意識や人間の尊厳は、為政者の道具としての法よりも、もっと崇高で、われわれ一人ひとりが守護者とならなければ、すぐに枯れてしまう、淀んでしまう、清らかな泉として保たれ続けなければならないものなのだと思います。


「正義の戦争」というものもあるのかもしれません。2022年2月にロシアがウクライナに軍事侵略を始めたことにより、ウクライナが、国土と国民、ウクライナの文化を守る為に、自衛のために立ち上がり始まったウクライナ戦争は、ウクライナ側から見たら「正義の戦争」といえるのかもしれません。しかし、二年が過ぎても終わりの見えない戦争に、ウクライナ国民も、武器や物資、戦費を支援し続けるウクライナ支援国の国民にも、厭戦気分が広がりつつあるのも事実です。ウクライナでは成人男性は徴兵が義務付けられ、戦地に送られ、命を落とすのが日常と化しています。「正義の戦争」でも、人権や人間の尊厳が著しく制限され、損なわれているのが実情です。

そして、ウクライナ支援国の一つである日本のわれわれも、ウクライナの人々が受けている人権侵害、人間の尊厳が蝕まれる事態を、遠くで眺めているだけのようで、罪悪感を感じ得ずにはいらねなくなる時があります。


そして、戦争だけが、人権や人間の尊厳を著しく傷つけている訳ではありません。現在の日本においても、様々な問題が、人権や人間の尊厳を著しく傷つけているのは実情です。

BICMOTORの事件は、ブラック企業問題の象徴的な事件でした。創業一族の傲慢さ、圧倒的なパワハラによって、一万の従業員が犯罪に手を染めさせられ、犯罪が露見するや、犯罪者として社会から糾弾され、罰を受け職を失う事態に陥っているのです。それなのにすべての責任を負い、罪に服し、賠償を負わなければならない創業者一族は、犯罪が露見するや否や、事業から手を引いて、表舞台から消えただけなのです。

首相の暴走を正当化する為に、多くの官僚が公文書の改ざんや破棄に手を染め、その事で心を病んだ官僚が自殺しても、いまもって真実は明らかにされず、誰も責任を取ろうとしないのです。統一教会と政治家の癒着問題もしかりです。政治と金の問題もしかりです。犯罪があっても、悪しき行いがあっても、それが事実であっても、だれが首謀者なのか、誰が犯罪行為を指揮したのか、いつも不明のままで、誰も責任を取らないのです。皆がやっているから、決まっていたことだから、とまるで他人事の様に彼らは話し、被害者を装い、煙に巻いて、事件はいつも藪の中に追いやられ、忘れられてしまうのです。

ビジネス化された児童ポルノ問題や、売春問題もしかりです。善悪の判断のつかぬ子どもや未成年者が、盗撮され、写真をばらまくと脅され、或いは金をゆすられ、性の奴隷にさせられて、その映像や写真がビジネスとして取引される事態が社会問題化しても、日本においては、「表現の自由」や「通信の秘密」という法律に阻まれて、人権や尊厳を回復させるための戦いが一向に進まず、もう犯罪者天国と化しているのです。

悪い淀んだ空気や水の中で、何か善からぬものが、勝手に生まれたように振る舞い始め、同調者が現れ、悪しきシステムが構築されて、承認されぬままに動き出し、悪が金を生み、同調者の欲を満たしていくのです。


日本の戦争に戻れば、その戦争に一分の道理があったとしても、戦争捕虜の国際的な取り決めを無視して、「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓令し、兵隊だけで亡く民間人まで自決を強要し、或いは殺し、また、一億総玉砕を掲げて、如何に空襲で国土が焦土化し、国民が殺されても、一向に戦争を止めず本土決戦を唱え続けた為政者たちの罪は、計り知れないものと、私は思います。

日本に、日本人に、しっかりとした人権意識や人間の尊厳を守るという強い使命や意識が育まれ、宿っていたならば、少なくとも、この様な人権侵害が行われることは無かったのではと思います。

そこに、日本の戦争の記憶の本質があるのだと私は思います。


日本に、日本人に戦争で何が起こったか、体験者の記憶を、しっかりと記録し、後世に残す事も重要ですが、戦争の本質、当時の日本人が陥ってたい本質に向き合い、戦争も、そして戦争以外のあらゆることについても、人権が蹂躙されぬ様に、人間の尊厳が損なわれない様に、私たちがその守護者として、責任ある一人として振る舞えるように、行動できるようにするために、戦争の記憶を役立てなければならないのだと、今、強く思います。

 

2024年8月11日日曜日

パリ・オリンピックで感じたこと

 ヨーロッパの古都、パリで開催中のオリンピックも、今日が最終日となりましたね。

トラディショナル・スポーツとは一線を画すエクストリーム・スポーツが注目が浴びたオリンピックともなりました。前回の東京オリンピックから関心を持ってテレビ観戦しましたが、今回は少しだけルールを理解する事が出来ました。ゲーム中も選手同士が笑顔で会話したり、声援したり、讃え合う姿が、トラディショナル・スポーツと一線を画すところです。それは、トラディショナル・スポーツの勝敗を分ける対戦選手同士の駆け引きというものがなく、エクストリーム・スポーツは、主宰者が準備したコースを、選手個々が持てる技術、体力、勇気で果敢に挑戦するものであるからだと感じます。

スポーツクライミングは夜の早い時間帯で決勝が行われましたので、テレビにかじりついて見ました。もう選手皆がスパイダーマン(蜘蛛人間)、超人でした。

ブレイキンやスケートボードは、技が複雑な上に高速で行われるために、何が何だか理解できませんでしたが、もうホント、エクストリーム!理解の先の超人的演技で、魅了されました。すべての選手を讃えたいと思います。


しかし、選手個々が情報発信するSNSに心ない誹謗中傷が書き込まれ、選手が傷ついているというニュースには、心が暗い気持ちになりました。

SNSは個人が、世界中の人々に情報を発信できる素晴らしいツールでありますが、近年はSNSが個人を貶める誹謗中傷だけでなく、個人が様々な形で犯罪に巻き込まれる切っ掛けとなっています。

現代の私たち、もっと云えば、自らの輝かしさを発信して、「いいね!」を沢山貰いたいという承認欲求をSNSツールはいとも簡単に満たしてくれるために、誰もが危険性を感じずにSNSに情報発信する様になりましたが、ネットの向こうには顔も名前も分からない人々、考え方が違う、性的嗜好が違う、もっといえば犯罪者もいて、傷つけてやろう、犯罪に巻き込んでやろうと手ぐすねを引いている者がいることを、意識して、自らの責任で使わなければいけないと思います。

まして、責任をまだ負えない子どもや、精神的に傷ついてしまう恐れがある人は、保護者や信頼の置ける人が指導するか、もしくは使わせないことが必要だとも思います。

色んな意見や考え方、称賛や妬みがあるのが人間世界です。テレビを見ながら愚痴るとか、便所の落書き程度なら(落書きも立派な犯罪行為ですが)、目にすることも耳にすることも無いでしょうが、自分の情報発信するSNSの書き込みは、ダイレクトに自分に返ってきてしまうことに注意はすべきです。

SNSの外部からの書き込みを、自動公開せずに、自ら、もしくは信頼できる人が判断しで公開非公開できれば、この問題は、少しは改善できるのではないかと思います。

2024年8月10日土曜日

人間はこれでいいのか?

 8月6日夜に放送された「NHKスペシャル 原爆 いのちの塔」を観ました。

数十万の人間が生活する都市の頭上に、人類史上初めて投下された原子爆弾が炸裂して地上数キロメートルを一瞬で廃墟にした直後から、爆心地から1.5キロメートルの辛うじて全壊を免れた広島赤十字病院の医療従事者たちは、自らも大いに傷つきながら、次から次と運び込まれる原子爆弾によって重傷を負った人々の救急救命活動を開始しました。

このドキュメンタリーは、今年新たに見つかった、当時の病院長竹内釼軍医が書き記した手帳と601名の病床日誌を丹念に調べて、当時この病院で何があったのかを再現ドラマを交えて、時系列で辿るものでした。


これまでも、原爆を題材にした文学・絵本、長田新先生が編纂された作文集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を読み込み、また映画「ヒロシマ」や数々の調査ドキュメンタリーを見てきて、原爆によって未曾有の被害を被った広島の人々が、その後も、アメリカから原爆の効果を調べるためのモルモットの様な扱いを受けたこと、同じ日本人から様々な差別を受けたこと等々を、学んで知っている気になっていました。

しかし、このドキュメンタリーを見て、広島赤十字病院で起こった出来事に戦慄を覚えました。

医療器具も物資も無いに等しい窮状を院長が世界赤十字に訴えたことがアメリカに利用されました。世界赤十字から医療物資を継続的に送ることを依頼された占領軍のアメリカは、「残留放射線や原爆の効果を調査する」という第一目的を広島の人々に悟られぬ為に、調査団を救済用の医療品を配布する名目で広島に送り込むことに成功しました。以後アメリカは自国の利益のためだけに広島をモルモットにして残留放射線と原爆の効果を調査し、その調査内容は、広島の原爆罹災者のために一切役立てられることはありませんでした。また、以後、約束されたはずの、継続的な支援は行われることもありませんでした。ここにはヒューマニズム、人間尊重という、彼らアメリカの建国の理念を、ひとかけらも感じる事が出来ませんでした。

そして、原爆投下から44日後の9月19日、GHQがプレスコードで原爆批判を規制してからは、日本政府は以後10年間、そして日本国内からの、諸外国からの、支援は一切広島に届かなくなりました。


広島赤十字病院には医療従事者として、原爆が投下される前、医師や看護婦、看護女学生など総勢501名が働いていました。原爆投下直後、250名が重傷を負い、その内の51名が死亡しました。そして一時も休む事の出来ない救急救命活動の中で、ひとつき後には、6名が過労入院し、262名が帰郷療養し、広島の医療従事者の不足は深刻な事態に陥りました。

病床日誌の記録によれば、原爆が発した放射能によって、医師たちは経験したことのない未知の症状に直面することになり、手も足も出ないまま、人々が次々と死んでいくのを見送り続けました。

そして原爆投下から63日後の10月8日、若い医師が病室で自殺しました。彼は以前に赤十字病院が広島の人々の希望となっていることを誇らしそうに院長に話していました。しかし亡くなる直前、彼は同僚に、「人間はこれでいいのか?人生とはなんなのか?」と打ち明けていたと云います。この言葉から、若い医師の絶望感が痛烈な痛みとなって伝わってきました。孤立無援、そして未知の脅威を前に無力であることの絶望、また自らも原爆罹災者であることから目の前の施しようのない患者を自分に置き換えたのかもしれない恐怖、想像しても、今の私では決して想像しきれない絶望に蝕まれたのだろうと思います。


そして、ドキュメンタリーの最後で、

今年6月24日、ウクライナ赤十字の医師たちが、「核兵器が使われた時、何が起きるかを知りたい」と、現在の広島赤十字原爆病院の知見を求めて訪問したことが記されていました。長崎を最後に、現実の戦争で79年間使われることの無かった核兵器が、ロシアのウクライナ軍事侵略により始まった戦争で、ロシアによる核兵器の使用が現実の脅威となったことが背景にあります。

日本が核兵器を保有していない国の中で、また唯一の原爆の被爆国として、原爆が引き起こす災いとその治療の知見を79年間積み重ねてきたことが、ウクライナに役立てられることには大いに意義を感じるとともに、核兵器の使用が現実の脅威となったことに落胆を覚えました。考えれば分かることですが、核兵器保有国は、決して公にはしませんが、日本よりもずっと進んだ知見を保有しているだろうと想像できます。しかしそういう知見は決して他国に明かされることはないでしょう。その理由でも、これは日本しか果たせない、悲しくも、他国を救う一助となる意義のある行為であると思いました。


日本は、いまはまだ戦時ではありませんが、ヒューマニズム、人権が非常に軽んじられる国へと陥っています。日々、「人間はこれでいいのか」と思わずにはいられない、残酷、残忍な事件や問題が噴出しています。人権が尊重されない個人主義、自由主義、拝金主義が世の中にまかり通っています。その反動として、私たちが国家による厳しい規制や統制を強く求める事態が来るならば、100年前と同じです。国家権力が絶大なものとなり、国民の人権は奪われ、為政者の利益のための戦争が始まって、国民は戦争ゲームの捨て駒に成り果ててしまうでしょう。現在のロシアやイスラエルの様にです。


2024年7月30日火曜日

ドラマ「新聞記者(Journalist)」を観て

『もし私を死刑にしたら、もう簡単にはこんな人物を見出すことはないでしょうから。実際、可笑しな言い方かもしれませんが、私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統は良いが、その大きさ故にちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思います。

その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのを止めない存在なのです。ですから、皆さん、こんな者はもうあなた方の前には簡単には現れないでしょう。むしろ、私の言うことを聞いて、私を取っておくのが得策です。』

この言葉は、詩人のメトレス、手工業・政治家のアニュトス、民衆扇動家(デマゴーグ)のリュコンら三名によって、『国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた』という罪で訴えられたソクラテスが、裁判でアテナイ市民500名の陪審員の前で弁明を行う、プラトン著「ソクラテスの弁明」の中で、私が一番感銘を受けた言葉です。

ソクラテスは若い頃から、賢者・智者を自認する雄弁家、教育者、政治家、芸術家などとの対話を求め、その結果、彼らの愚かさを図らずも世間に知らしめたばかりでなく、ソクラテス自身の智者としての名声を高めたことにより、彼らや彼らのような人々から憎しみや怨みを買う存在となっていました。そして70歳の直前にソクラテスは、彼らから遂に、いわれのない罪を着せられ、裁判に掛けられ、彼らの煽動的な告発に感化された陪審員によって罪が確定したのみならず、罰として死刑が確定し、最後は、友人や支援者に見守られながら自ら服毒し死を遂げました。

私は、先のソクラテスの言葉から、ソクラテスこそがジャーナリストの祖なのではないかと考えるようになりました。ジャーナリストは、不明なることや不確かなことを自ら調査して明らかにし、明らかになった事実を世の中に問い、世の人々が正しいと考えられる行動を促す役割を担っています。それ故に、事実を明らかにされたくない者たちから憎まれ、恨まれ、狙われ、陥れられ、最悪の場合には命が奪われる存在だからです。


なんで、このように思いを馳せたかといいますと・・・

先日、Netflixで2022年に公開されたドラマ「新聞記者(英語タイトル:Journalist)」を観たからです。

このドラマ、見た方なら御存じでしょうが、安倍内閣の時代に世間を騒がせた森友学園問題や参与として政府の闇に深く関与する人物の犯罪疑惑、そしてコロナ感染初期の人間軽視などを彷彿とする物語であったために、公開当時、保守系の新聞や雑誌等から、現実の疑惑やその疑惑の調査過程とのそごが指摘され非難されていました。また、疑惑の中で亡くなられた方の遺族のドラマ化への賛同が得られぬままに、制作され公開されたことも、批判の理由となっていましたが、実際に鑑賞された視聴者の感想は、肯定的な意見や俳優の鬼気迫る演技を称賛する意見も多数見受けられました。


私も、素直に、このドラマが描き出す、疑惑に人生を傷つけられた人々や疑惑に荷担した人々の葛藤や苦しみに、大いに胸を痛め、また、隠蔽を指導し、隠蔽が暴かれることの無いように、どんなに人々が苦しもうと、手段を選ばず、脅し、世論を誘導し、弾圧する政府中枢に潜む冷血漢に心底恐怖を覚えました。

そして、それ以上にドキュメンタリーを思われるこの物語が、どんな結末を用意しているのかを見届けたいと強く思い、見届けました。

ドラマは、疑惑の中で亡くなられた方が、一体誰に殺されたのか、何で殺されたのかを明らかにするために必須であった、証拠や証人が現れて、ようやく、裁判が行われる場面で終わりを迎えました。

現実の疑惑の裁判は、政府の鉄壁に阻まれて、解明すら遅々として進まないでいる状況です。ドラマには疑惑を解明する一筋の光明が見出せたことも、現実と比べ楽観的と厳しく観られる点であるのかもしれませんが、現実でも、今後、解明を一気にするめるような証拠や証人が現れることを、私は希望してなりません。

また、これこそが、このドラマが作られ公開された意義ではないかと思いました。


古代ギリシャ世界では、賢者・智者として認められることが成功の糸口でした。この成功によって名声、金、地位、そして権力を手にすることができました。

ソクラテスは、若い頃に友人のカレイフォンが、アポロンの神託所において巫女から「ソクラテス以上の賢人はいない」との神託を授かってきたことにショックを受けて、自らは愚者であると自覚していたことから、自問し、遂に一生を掛けて神託の反証を試み続けました。それが賢者・智者を自認する人々との問答でした。ソクラテスは、問答を続ける中で、「知らないことを知っていると思い込んでいる人より、知らないことを知っている私の方が、少しは賢いのかもしれない」と神託の意味を考えるようになっていきます。

しかし、もしかしたらソクラテスは、アテナイに蔓延る様々な疑惑や問題に光を当て、アテナイ市民に善と悪について考える切っ掛けを与え続けていたのではないか、とも想像します。


現代の世界においても、報道の自由は、ヒューマニズム、参政権とともに、もっとも重要となる人間の権利です。

ジャーナリストが活躍できなければ、報道の自由が失われれば、一握りの絶大な権力を握る為政者の堕落を招き、組織もシステムも、国家でさえも、停滞や腐敗によって死に体に陥ってしまいます。その結果は、歴史を見れば明かです。独裁や戦争が始まり、国民の命が踏みにじられることになります。

ジャーナリストが活躍できれば、停滞や腐敗がいち早く捉えられ、それによって改革や改善に繋がり、組織やシステム、国家の新陳代謝をよくすることに繋がります。


現在の日本は、様々な組織やシステム、国家に対して不信が広がり、日本人が美徳としていた礼節、利他、そしてか弱き隣人、子ども、女性、高齢者、身体や精神に不自由を抱える人々に手を差し伸べる無償の行為、そして、社会の基盤となって働いてくれる保育士、教師、介護士、看護師、医師への感謝と尊敬がどんどんと失われ、すべてが拝金ビジネスに取って代わられ、人間がもの扱いされる事態となってきました。


本当にどこから手を付ければよいのか、難しいですが、私たち一人ひとりは物でなく、大切な命、人権が保障された人間であることに立ち戻れるように、ジャーナリストに活躍してほしいと願わずには居られません。

2024年7月8日月曜日

民主制の本当の選挙について考えてみました。

 56名が立候補した七夕都知事選は、現職の三選で幕を閉じましたね。兵庫県民からみれば関係のない首長選挙でしたが、現職や参議院議員を辞職して立候補した候補の学歴詐称疑惑が取り沙汰されたり、もっともえげつなかったのは多数の候補を擁立した政党が「供託金の有り様」に一石を投じるという名目で選挙ポスターの掲示板を広告板として売り出し、選挙とは全く無関係の広告、さらに云えば公序良俗に反する広告や画像が掲示されるという前代未聞の事態が起こった選挙戦となりました。選挙ポスターの件で云えば、こういう事態を取り締まる法律がないということで、よっぽどの公序良俗に反するもの以外は、選挙戦中広告板として利用され続けました。法律に規定がなければ何をしてもよい、そしてそれを取り締まれないというのは、日本人が大切にしてきた礼節というものが軽んじられたり、廃れたりしている何よりの証のように思えました。


ただ「選挙の供託金」については、私は無くさなければならないという考えです。高い供託金を課すことで、泡沫候補を候補者から閉め出すというのが供託金の名目です。

しかし、国政選挙だけでなく地方選挙でさえ、結局は何故か潤沢な資金力のある現職の候補に有利に働くばかりで、志あれども金も人脈もない人は、選挙に出て、公の場で声を発することが出来ないばかりか、潤沢な資金を要する既成政党におもねってロボット議員になるしかないのが実際です。

同時期に行われたイギリス総選挙では、現職のスナク首相に並んで泡沫候補の自称ゴミ箱伯爵が「クロワッサンの価格に上限を導入」と声高に訴えていました。彼がイギリス国民に訴える真の狙いは「誰を支持するかに関わらず、皆さんには是非投票に行って欲しい。そして何より皆さんの票を無駄にしないように」でした。


今回、都知事選の立候補者は56名でしたが、たとえばの話ですが、選挙権を持つ18歳以上は誰でも、立候補でき、供託金も必要がないとするならば、東京都の18歳以上の人口約1200万人の全員が立候補することも可能なのです。たった一言でも、自分の声を公共の場で発言することが出来るのです。その声に賛同した100人がその候補に投票したとする、これを無駄とは、私は思えないのです。

誰もが、志が高かろうが低かろうが無かろうが、ただ一言発したい、意見を述べたい、と云う理由だって、議員になりたい有無なんて構わない、立候補するに十分過ぎるほどの理由なのではないかと思えるのです。これこそ民主制の選挙の有り様ではないかと思えるのです。

選挙戦は、インターネットを利用したって構わない、公共に設置された会場で発言したって構わない、小さな集会所や自宅を利用して、有権者に訴えても構わない、但し、公序良俗に反しない限りにおいて。他の候補者を誹謗中傷したり迷惑行為、暴力行為は絶対に許さないという制限のもとに。有権者に立候補者としての自分の訴えたいことを訴える。

こんな選挙なら、実際に投票率100パーセントの選挙も夢では無いと思います。国民一人ひとりが声を発する、声を届ける、声を聞くお祭りとしての選挙、これこそ民主制の本当の選挙の有り様ではないかと思えるのです。

選ぶのも国民なのです。だれかれに指図されるものではないのです。