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寅次郎を通して考えた、学校ってなんだろう?先生ってなんだろう?
学校ってなんだろう? 勉強するところかな 友達をつくるところかな でも素朴に 学校に通う子どもにとって 楽しいところ 安全なところ 一人の人間として 誰とも違う個性を認めて貰えるところ 一人でなく回りの仲間と成長できるところ であって欲しいと思います。 ...
2018年12月24日月曜日
一本松連中の忘年会
発起人はいちゃさんとまんちゃんです。
18:30、まずはどんどんの焼きそばとにくてんで腹を満たし
そして、隣の野路菊に移動してカラオケ大会です。
歌うのは、昭和歌謡、昭和艶歌、昭和フォークソング、唱歌、そして島唄です。
若いときは勢いで歌っていたように思います。でも今は、一人ひとりの歌声と語る歌詞が心の中に深く浸みてきて、なんだかジンとなりました。
病気で闘病中の連中がいます。
遠くの空で、同じ満月を見上げる連中もいます。
ちなみに昨夜の満月、突然にいちゃさんが表に飛び出し、そして一年でもっと高い位置に来る満月を観ようと皆を外に引き出したのです。いちゃさんの腰に手を当て夜空を見上げる姿、写真に残したいほどれ惚れしました。(ベンチャラじゃなくほんまにそう思ったんやで)
カラオケの一曲目、歌いました。「誰か故郷を想わざる」です。
おとつい、テレビで古賀政男さんのドキュメンタリーを観ました。この歌、出した当初はヒットしなかったそうです。それで余ったレコードを戦地の兵隊さんへ送ったところ、歌が誘う望郷の念が兵隊さんの心を打って、そこからじわじわとヒットしたという逸話を知りました。
故郷を想う、地理的だけでなく過去を振り返る事も同じだと思います。
まだ毛が生え揃うか否かの頃からの連中です。若さで脱線してばかりいた頃を想いながら、これまでに出会い今もとても大切に思う友人を思い浮かべならが、唱いました。
そして一本松は、連中のふるさとである事、昨夜、しみじみと思いました。
久し振りに少し飲んだことと、煙草の煙(元喫煙者なので香り嫌いじゃないんです)、そして久し振りに声を張り上げて何曲も唱ったんで、朝起きると喉が無性に痛いです。
天皇陛下、平成最後の誕生日のお言葉
お言葉で語られたメッセージ、大切にしていきたいと思います。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
第二次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉えんを迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵どしています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来じらいこの伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労ねぎらいたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
2018年12月22日土曜日
詩 旅神戸
(訂正 去年でしたね 今年で151年でした m(__)m )
1868年、明治もこの年に始まりました。
神戸には、いつまでも旅情を誘う町で会って欲しいと思います。
2018年もそろそろ終わりを迎えましたが
そういう想いを詩にしてみました。
Google翻訳を使って、分からないながら英語詩を作ってみました。
後はメロディー、作曲の才は全くありませんので
どなたか曲を付けてくれませんか
そして、歌いたいです。
ジャンルは、ボサノバ風
どうでしょう・・・
旅神戸
開港150年
新しい音楽、新しい娯楽
新しい食、新しい出会い
多様な異国の文化がこの町に根付き
その芳しさに魅せられて旅人は神戸に集う
旅船の港
海風には異人の残り香が漂い
水面には異人の名残が漂う
異国への慕情がこの港を染めて
その情緒に魅せられて旅人は神戸に集う
山手の展望
異国の風情を伝える通り
新しく日々変化する通り
夜になれば百万の瞬く光に彩られ
その輝きに魅せられて旅人は神戸に集う
開明の町
共生の町
復興の町
神戸
いつまでも旅人を魅了し続けてと願う
journey kobe
150 years after opening the port.
New music, new entertainment.
New meal, new encounter.
Various foreign cultures take root in this town.
Attracted by its fragrance, travelers gather in Kobe.
A port of a journey.
A scent of foreigners in the sea breeze.
A memory of foreigners on the surface of the water.
A longing to foreign country dyed this harbor.
Attracted by that emotion travelers gather in Kobe.
View from the mountain.
A street that conveys the feelings of a foreign country.
A street that newly changing everyday.
The evening it is colored by the blink of a million.
Attracted by its glow, travelers gather in Kobe.
Civilization town.
Symbiosis town.
Revival town.
Kobe,
I hope to keep captivating travelers forever.
2018年12月14日金曜日
あおり運転事件が抱かせる人間の危機
交通死亡事故の被告人に対する日本の現在の量刑としては非常に重いものですが、それでも被害者の無念、また被害者家族の無念を思うと、やるせない気持ちは晴れません。
今も忘れることのできない事件があります。
2012年4月23日に京都府亀岡市で起こった、未成年者の無免許、無謀運転、居眠り運転が引き起こした交通事故により、登校中の児童、引率の保護者、10名が死傷した事件です。この事件では被告人に対し、
・無免許運転や居眠り運転は危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
・無免許運転にも関わらず被告人の未成年者が無免許運転の常習者で、未熟な運転技能という危険運転致死傷罪の構成要素を満たさない
ことから、危険運転致死傷罪が適用されませんでした。当時、被害者の無念、被害者家族の無念を思い、とてもとてもやるせない気持ちになったことを覚えています。
今回の事件も、その時と同じ気持ちにさせられます。
まず、今回の事件で一番に思うのは、「あおり運転」という言葉の不適当さです。
「あおる」、国語辞書には
・他人を刺激して、激しい行動に駆り立てる。
・おだてたりして、相手がある行動をするように仕向ける。たきつける。扇動する。
と書かれています。
「腹が立ったから」、「生意気だから」、「面白いから」等々の内面から湧き出る感情の赴くままにターゲットとなる人を車を使って襲う行為は、まさに凶暴そのものです。襲った相手を事故の危険にさらし、死の恐怖にさらします。
たとえ何も事故が起こらなかったとしても、誰ひとり死傷者が出なかったとしても、襲った相手には恐怖体験が残ります。それが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こし、日常生活に支障を来すのみならず、将来の希望や夢が絶たれる可能性だってはらみます。
まして今回の事件では、人が死んでいるのです。殺されているのです。
そして今回の事件では、追い越し車線上に停止している車に追突し、二人を殺してしまったトラックの運転手も被害者だと思います。たとえ減刑されたとしても、一生、人を殺してしまった罪を背負い続けなくてはなりません。ということは、被告はもう一人の人生まで奪ってしまった。否、その家族の人生も奪ってしまったことになります。
これは交通死亡事故事件ではありません。これは暴力事件、殺人事件です。
その事を社会に問い、社会で合意形成し、暴力運転者や殺人(もしくは殺人を犯す可能性のある)運転者、ならびに同乗者は殺人同様の厳罰に処す法整備を行わなければならないと思います。
しかし、これは運転者が暴力運転や殺人運転に走らないための理性に訴える抑止力でしかありません。
真の問題は、私達人間が、内なる過敏、過剰、過激な感情を自制できなくなっていることです。そして罰則などの抑止力さえ効かなくなっていることです。
他者を感情の赴くままに攻撃してしまうのは、他者を生きた血の通う人間と認知できないためだと思います。また、他者への愛情が湧いてこない、抱けないためだと思います。
これは人間の危機だと思います。
2018年12月12日水曜日
「帰ってきたヒトラー」が警報する未来
今年観た映画で、一番に衝撃を受けたのは「帰ってきたヒトラー」(原題 Er ist wieder da 直訳 彼が帰ってきた 2015年ドイツ映画)です。
この映画は、2012年にドイツの作家ティムール・ヴェルメシュが書いた風刺小説を映画化したものです。
1945年4月30日、ベルリンの総統地下壕で自殺したヒトラーが、現代のベルリンで目覚めてから、最初は道化の扱いを受けながらも、ナチズムが崩壊した後の世界の歴史を学び、プロパガンダの新たなツール(テレビ、インターネット、SNS)を学び、そして民の中に静かに潜む不満を学び、過去の失敗を学び・・・
そして満を持して、自分が現代に目覚めた目的、第二の我が闘争ともいえる「帰ってきたヒトラー」というベストセラーを著して、熱狂的な支援者を生み出し、再びナチズムの実現に動き出す端緒までが描かれます。
現代に現れたヒトラーを最初に見出したのは、落ちぶれたテレビ制作のディレクターであるザヴァツキでした。これまでのどんなヒトラーのそっくりさんよりも、どこからみてもヒトラーにしか見えないヒトラーのそっくりさんを、再びテレビ制作の世界に返り咲く野心の道具にしようとしたのです。
しかし、ヒトラーのそっくりさんはザヴァツキの想像を超えて、テレビ番組のスターになりました。物腰に威厳が満ち、卑猥さや卑屈さが微塵もありません。そして、その態で、雄弁で直情的で刺激的な言葉を発言するのです。そして、権力者には容赦がありません。それがテレビのコメディースターであっても、政治家であってもです。でも、町に出れば、市井の人々に同じ目線で語りかけ、彼らの心の中に潜む不満を引き出します。
表面的には満ち足りた現代社会で暮らす、しかし実際には、窮屈感と閉塞感、そして将来への不安に苦しむ若者達に、ヒトラーのそっくりさんは特に受け入れられました。若者達は、ヒトラーをアイコン化し、アイドル化して、ネット社会のスターへと押し上げていきました。
そして、ヒトラーは満を持して、一冊の本を世に出します。その著書「帰ってきたヒトラー」は、現代のドイツ社会で熱狂的に受け入れられて、映画まで作られることになります。
いまでは、ヒトラーのそっくりさんの腰巾着の様な立場となっていたザヴァツキですが、初めてできた恋人がユダヤ人の祖母を持つ混血であることをヒトラーになじられたこと、また恋人の祖母でホロコーストを生き抜いた老婦人がヒトラーのそっくりさんと面会したときに非常に激高したこと、そして自分自身、ヒトラーのそっくりさんと出会ってから感じている得も言われぬ不安の原因を明らかにするために、ヒトラーのそっくりさんが初めてベルリンに出現した時に撮られた映像を見返して、突如現れた光と煙の中からヒトラーが忽然と現れた様を認めます。そして、ヒトラーが本物であることを悟ります。
ザヴァツキはヒトラーを殺しに行きます。
銃を突きつけ、ビルの屋上に誘導し、ヒトラーに銃の照準を合わせます。そして、屋上の縁に上がって不敵に笑うヒトラーの顔面を打ち抜きます。ヒトラーは屋上から落下しました。ザヴァツキは縁に寄り、ヒトラーの最後を見届けようとしますが、地上にヒトラーの亡骸はありません。そして、ザヴァツキが振り返るとヒトラーが目の前に立っています。ヒトラーは言います。
ザヴァツキ君、
私を怪物というのなら、怪物を選んだ国民こそが罰せられるべきではないか。
国民は、ただ非凡なリーダーを選んだだけだ。
国民は、なぜ私を選んだ。心の中で私に共感しているからだ。
私は殺せない。私は、国民の中に存在し続けているからだ。
悪魔を見たザヴァツキは、心が壊れ精神病院に収監されました。
そしてヒトラーは、第一次ナチズムの宣伝大臣であったゲッベルスに代わる、新たなプロパガンダの片腕を見つけ、第二次ナチズムの実現に動き出します。
途中までは、コメディーかミュージックビデオの様な軽快な乗りで、斬新な風刺映画風でしたが、ラストはホラーでした。この映画はまさに、風刺映画というなまやさしいレベルではなく、リアルなホラードキュメンタリーでした。
ヒトラーが劇中で、インタビューする、また激論を交わす政治家やネオナチの運動家は、すべて実在の人物です。そして、ヒトラーを用いた、ユダヤ人を揶揄する際どいジョークも盛りだくさんありました。
作者は、第二次世界大戦が終わって、そして冷戦が終わって、ようやく訪れた平和や繁栄の礎となってきたデモクラシーという政治体制に、ほころびが生じ始めていることに警報を鳴らします。それは、デモクラシーの理想を強迫的に進める理想主義者の指導者に対する疲弊、そして重圧が国民に蔓延しつつあるからです。
ナチズムの全否定、
シオニズム、そしてユダヤ人に対する批判のタブー、
国家の利益よりも欧州連合の利益優先、
人道的な難民や移民の大量受け入れ、
等々です。
ドイツと同じくデモクラシーと自由貿易の先進国であったはずの、アメリカ、イギリス、フランスまでが急激に保護主義や民族主義に傾倒し始めています。
そして、全体主義で一度衰退した国家である中国、ロシアが独裁国家となって再び台頭し、世界中に力を誇示し始めています。
世界のそこかしこで、デモクラシー、自由な競争、人権の尊重、人権を守るための言論の自由が、厳しく統制され始めています。
そして国民は、大衆の耳に心地よい言葉を発する、大胆で強いリーダーに惹かれるようになりました。その人物が、平時では到底承服できないほどに破廉恥な人物であってもです。
破廉恥で、大胆で強いリーダーは、プロパガンダを駆使します。そして国民を扇動します。彼らが国民を掌握するテキストは、ヒトラーでありナチズムです。
ヒトラーは死なず、ナチズムは死なず、いずれ再び台頭することに作者は、警報を鳴らしています。
2018年12月11日火曜日
いちゃさんから『小さな手袋』朗読の感想が届きました。
悲しいでもなく、苦しいでもなく、辛いでもない、
やるせない・・・気持ち、
『小さな手袋』は、本当にこの一言に凝縮された気持ちにさせられる物語でした。
この物語は、小学生の女の子シホちゃんのお父さんのまなざしで描かれた物語だと思います。
私は、幼さの残る夢見がちの少女から、悲しい出来事を経験して、少し感傷的な少女へと成長する娘を、心が傷付かないか心配し、また、そんなに急いで大人に成長しなくてもと戸惑いを覚えながら見守る父の心情に共感し、そして胸に切ない痛みを覚えました。
でも、父のまなざしから「やるせない」はどうしても繋がらないのです。
「やるせない」は、登場人物の父の位置よりもさらに遠く、そう、この物語全体を俯瞰できる、読者の立場だから受け取れた気持ちだと思います。
繰り返すことになりますが、この物語は昭和40年から50年辺りの、私が子供であったころが描かれているように思います。その時代の味わいがあるのです。
昭和20年に戦争が敗戦という結果で終わりました。多くの人が戦地で亡くなり、また国内でも空襲や、ライフラインの欠乏から、多くの人が亡くなりました。それでも、10年が経ち、20年が経ち、直接には戦争を経験していない若い世代が、日本の戦後復興の担い手となっていました。
それは、日本の家族の形が変わっていく時代でもありました。
親子三代は当たり前、場合によれば四代の大家族が、同じ屋根の下で、代々の仕事を繋いでいた、それが戦前の日本の、多くの地方で見られた家族の形でありました。
しかし、戦後、復興の最中、多くの産業が集約された都市部に、全国から人が集められました。都市部の近郊は宅地がどんどんと拓かれて核家族用の新興住宅がどんどんと作られました。
でも、大家族では当たり前にあった、子が親を介護する、大親が孫の世話をする、という機会はどんどんと廃れていきました。
そういう時代背景の中で、子供にとって、それが親族であっても無くても、子供を慕い、愛情も持って接してくれて、楽しいお話しや、知らなかった事を話してくれる、そして作ってくれる、与えてくれる、おじいさんやおばあさんは、良き妖精、魔法使い、と思っても不思議ではありません。
そしてまた、おじいさんやおばあさんというのは、一番始めに別れることとなる、そして死という想像出来ない恐ろしい世界を身近に感じさせる存在でもあったように思います。
私は、この物語の最後の方で、看護婦である中年の修道女が語った一言
「そう。宮下さんは、もう大連へ帰ってしまったんですよ。昔の大連にね。」
が心に残りました。
小学六年生に成長したシホちゃんが、二年半ぶりに妖精のおばあちゃんに会いたいと思った時、それはもう叶わなくなっていました。
妖精のおばあちゃん、宮下さんは亡くなったわけではないけれど、特にこの一年でボケが進んで、もう看護する、介護する病院の人たちのことさえ分からなくなっていました。
看護婦の修道女は、シホちゃんが記憶している優しい、そしてシホちゃんをとても慕っていた宮下さんは、もういないことを話しました。そして、もしかしたら、宮下さんの心は、遠い昔の、遠い国の、大連に行ってしまったのかも知れないと話しました。
この下り、実際に高齢の母と暮らしていて、もしかしたらと感じることがあります。
ある日の朝、母は「お父さん、今日はしんどいから学校を休まして」と私の顔を見て言いました。その時、母の心は子供時代にいたように思いました。私は母方のお祖父さんを知りません。私が生まれたときには既に亡くなっていたからです。でも、もしかしたら、私にはお祖父さんの面影があるのか、と少し嬉しく思いました。
ある日の朝、母は寝言で、伸ちゃんの着替えをしないと、と話していました。伸ちゃんとは、母とそう年の離れていない姪っ子の長男である伸一君のことだとすぐに理解しました。母は兄弟姉妹の一番上の姉と二十近く歳が離れていました。そして、その姉の長女、姪っ子とはまるで仲の良い姉妹の様にして子供時代を過ごしていました。そして伸ちゃんと私は同い年です。この朝母は、母の里で、共に小さな布団で寝かしつけていた私と伸ちゃんをあやしていたのかもしれません。それで、このように話したんだと思います。
ある夜、母はひとりであるはずの部屋の中で、大きな声で話しを始めました。部屋を覗くと、私にではなく、別の方向を向いて、会話をしているようなのです。母に尋ねると、〇〇が来ているから、御茶でも出してあげてと言いました。
初めて、その現場を見た時は、少しぞっとしたことを覚えています。でも、いまでは、私がいない時間、私がいない時代、私がいない場所と母の心は繋がっていて、二つの世界をなんの違和感もなく自由に往き来しているのだろうと思い、楽しい気分になって見守っています。
歳を取って、どんどんと物忘れが烈しくなって、そういう風になって家族に迷惑を掛けてしまうこと、ひとりになってしまうこと、孤独になってしまうこと、そんな風になっていくことを私達は恐れています。
認知症になること、痴呆になること、恐れています。
でも、もしかしたら、私達の心は、その時、時間を超える能力が目覚めるのかも知れません。死の世界とは、過去、現在、未来を自由に往き来できる世界だとイギリスの作家J・B・プリーストリーは、著書「人間と時間」の中で語っています。
※マシスンの純愛ファンタジー後編 『奇蹟の輝き』(What Dreams May Come)記事参照
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2012/04/what-dreams-may-come.html
死が身近になったとき、人は死後の能力が与えらるのかも知れません。過去の時間に旅をしたり、もしかしたら未来の世界まで垣間見ているのかもしれません。もし、家族がそうなったとき、寄り添い、家族の心が見聞きしていることを心で感じる事ができれば、とても素晴らしいと思います。
2018年12月9日日曜日
内海隆一郎作『小さな手袋』を朗読しました。
調べてみると、中学二年の教科書に掲載されている短編小説だということが分かりました。
また、インターネット上に、全文が掲載されていましたので、そちらを元にテキストを起こして、朗読しました。
http://kuge.town-web.net/201313Nihongo/130218.htm
http://kuge.town-web.net/201313Nihongo/130225.htm
物語が描く時代は、ちょうど私の子供時代の様に思います。昭和40年から昭和50年あたりです。当時は、いまのようにどこにでも総合病院があるなんて時代ではなく、町に町医者があったらいいほうで、また重い病気に掛かれば町外れの療養所に収容される、という様な時代であった様に思います。
そんな時代に、想像の翼を広げて過ごしていた少女が、悲しい出来事によって、これも大人の階段というのでしょうね。幼い少女が、少しセンチメンタルな少女へと成長する姿が、その父のまなざしで描かれていました。
読み終えて、キュッと胸が熱くなる物語でした。
2018年12月7日金曜日
スター誕生!
2014年ソチ冬季五輪で伝説を残した浅田真央さん以後、ロシアのスペシャルなスケーター達の後塵を拝することになった日本の女子スケーターでしたが、今シーズン、紀平梨花さんが彗星の如く現れました。今シーズンが初出場となったグランプリシリーズで二連勝し、本日から始まったGPファイナル、2018平昌冬季五輪金メダリストのアリーナ・ザキトワ選手を超える今シーズン最高得点でショートプログラム首位に立ちました。
そのニュースを先ほど知りました。本当に凄いです。ザキトワ選手の完成された美のスケーティングとはまた趣の異なる、そう浅田真央さんのグランプリシリーズ初出場初制覇時のとびきりの可憐さと重なるのです。その可憐さに加え、誰よりも優れたジャンプ演技があるのですから、もうびっくりです。そして、それ以上に、マインドの強さに驚きです。
明日のフリースケーティングが最高に楽しみになってきました。
早速、映像がYouTubeにアップされていました。
https://www.youtube.com/channel/UCwwEpdRabKFSgTMXbOq51YQ
2018年12月2日日曜日
ウルちゃん、避妊手術を受けました。
ウルちゃんに盛りが始まりました。生まれて9ヶ月ちょっと、体は大きく成長しましたが、まだノルンのように腰回りが膨らみ丸みを帯びるという変化がなかったものだから、盛りを迎えるのはもう少し先だとばかり思っていました。
獣医さんに相談に行くと、この体つきだと十分に成獣となっていて子宮も卵巣も出来上がっているだろうから手術には支障が無いとの説明を受けました。それで避妊手術を受けることにしました。
そして、木曜日に避妊手術を受けました。
手術前の半日は絶食、そして術日から一日は食事制限をしましたので、ウルちゃんはすっかり軽くなりました。次の木曜日、獣医さんに経過を見て貰いエリザベスカラーが外れたら、以前のような超おてんばで、タンスも一っ飛びするウルちゃんに戻ってくれること願います。
ウルちゃんが手術をした翌日の朝、庭の床机の上に干していたウルちゃん用のマットの中に、迷い子猫が寝ているのを見つけました。寒空の下、雨露の当たらないベッドを見つけたのでしょう。安心した様に眠っていました。窓を開け、外に出ると、その子猫は飛び起きて逃げていきました。でも逃げた方向を見ると、影からこちらを見ているのが見えました。我ながら感心できないことですが、マットの上に小袋の餌をそっと撒き、その場を離れると、子猫は用心しながらも、マットに戻り食事を始めました。
猫ちゃんは大好きだけど、ウルちゃん以外、いまのところ飼うことはありません。飼わないのに餌をやるとはとても非常識な行為だと思います。でもその時、ウルちゃんへ最大の愛情を注いでいたので、その子猫にも愛情のいくばくか与えずにはいられなかったのです。
そして想いを巡らしました。
世は空前の猫ブームです。でも飼い猫は、外に出してはいけないといいます。外に出すと、近所から苦情があったり、また事故や病気を貰う機会が増えてしまうからです。
そしてもう一つは、盛りを取り除くために去勢や避妊手術をおこなわなければならないということです。盛りになると大変です。甘ったるく甲高い声を昼夜関係なく出し続け、そこいら中に臭いを付け回ります。でも避妊をすれば、このような困った事態はなくなります。結局は、人間のエゴ、私のエゴなんだろうと思います。
でも、本当に避妊が強制的におこなわれる世の中になったどうでしょうか。
可愛い猫ちゃんは一代で終わります。猫の寿命は長くて20年、すると、その様な世の中になれば飼い猫も自由猫も20年で絶滅です。そしてブリーダーが繁殖する血糖の良いものだけが生き残っていくのです。それは優生学、選民思想がのさばるおぞましい世界だと思います。
でも今それも含めて、なにを選ぶか、選べる立場にあるのは人間だということ、忘れないでいたいと思います。
2018年11月27日火曜日
「友を愛し、友に愛されるものは神の祝福に値する」、素晴らしき哉、人生の物語
その映画とは、先日テレビ放映されたフランク・キャプラ監督作品「素晴らしき哉、人生!」(原題 It's a Wonderful Life 1946年アメリカ映画)です。
自分の夢を犠牲にして、高潔な父から引き継いだ事業を必死に守ってきた男が、クリスマスの前夜に思いがけない罠に掛かって事業資金を失った上に、ありもしない横領の罪を着せられます。失意と後悔に塗れながら、それでも最後に自分の生命保険金で事業と家族だけは救えると自殺を思い立ち実行しようとします。そこに神様から使わされた二級天使クラレンスが現れて、彼が最初から存在しなかった世界へと彼を導きます。
その世界では、彼が存在し、彼が働きかけたことで命を落とすことのなかった人たち、罪を犯すことのなかった人たち、強欲な者から解放された人たち、成功の切符を手にした人たち、そして父の高潔な事業まで、存在しませんでした。彼の知る人たちは、強欲な資本家の奴隷に成り果てていました。そして彼が愛し共に家庭を育んできた美しく高潔な妻は、独り身の寂しい女になっていました。
彼はその世界から当てもなく逃げ出しました。そして自殺を実行しようとした橋のたもとに辿り着きました。そこで彼の事を心配し探していた友人と出会いました。彼は元の世界に戻ってこれたことを心から感謝しました。そして家族の待つ家に駆けていきました。
愛する子供達がいました。愛する妻がいました。彼を心配して駆け付けてくれた町中の友人達がいました。友人達は彼の苦境を救うために、自分たちの蓄えを寄付してくれました。成功した友人からも施しの申し入れがありました。彼を逮捕するために来た監察官や検事までが彼の善行に心を打たれ、彼を信じることにし寄付もしてくれました。
友人たちは、彼こそ冨し人だと讃え、オールド・ラング・サイン(良き古き親友を讃える歌)の合唱が始まります。
テーブルの上に集まった贈り物の上に、二級天使クラレンスが携行していた「トムソーヤーの冒険」が開いて置かれていました。そこにはクラレンスからのメッセージが書かれていました。
「ジョージ、忘れないで下さい。友を愛し、友に愛されるものは神の祝福に値することを。そして、翼を有り難う。」クラレンスはジョージを正しく導いた事で神様から翼を与えられ一級天使になりました。ジョージは天を仰ぎ、天界の友人への祝福と感謝を捧げました。
オールド・ラング・サインの歌声は何時までも続きます。
この短いあらすじを書き上げ、読み返すだけでも、感激の涙がこぼれ出てきます。
自分の振り返った人生が、この様に輝いていたならどんなに素敵でしょう。
しかし、主人公ジョージ・ベイリーは特別な男であったでしょうか。決してそうではありませんでした。
ジョージは子供の頃から貧乏くじを引いてきました。いつもこうしたい、こうできたらという欲望を持ち続けていましたが、いつも神様に恥じない方を選んできました。
しかし、クリスマスの前夜、強欲な資本家に罠を仕掛けられ、窮地に陥り、わらにもすがる気持ちで、罠を掛けた張本人とも知らずに強欲な資本家に助けを求めに訪ねたところ、不明をなじられた上に、横領の罪までなすりつけられました。そして、生まれて初めて強欲な資本家に強い敗北感を抱きました。そして自分のこれまでの選択は誤りだったと嘆きました。
ですから、私達は誰もがジョージなのかもしれません。
そして、私達は誰もが、気づかないかも知れないけれど、愛し愛してくれる友人いることを、この映画は気づかせてくれます。
「友を愛し、友に愛されるものは神の祝福に値する」
クリスマスの金言として心に刻みたいと思います。
そしてまた、「素晴らしき哉、人生!」は、大切な一冊の本「この世で一番の奇跡」(原題 The Greatest Miracle in the World 1975年オグ・マンディーノ著)から受けた感銘と同じものを受け取りました。
私はこの本とずいぶん前に出会いましたが、この本の福音をこれまで理解していませんでした。最近、あらためて読み返すことがあり、その福音をこれからは大切にしていきたいと思っているところでした。
この本の中に、「神の覚え書き」という章があります。最近、ある滝の前で寒さに震えながら読みました。詰まらずに読んでも一時間以上掛かります。詰まりながら読んだので三時間以上も掛かりました。でも、とても神聖な心持ちになれました。
思いっきり下手な朗読ですが、添付したいと思います。
2018年10月18日木曜日
祭りの伝統
でも、一本松連中が世話人をしたとき、少年野球の父母会の一員として一緒に活動した友人が世話人をしたとき、また我が子もふくめ、小さい頃から見守ってきた子供らが成長し、いっぱしの祭りの担い手になったとき、そこに自分はいないけれど、晴れ晴れしい気持ちになれました。
でも今年の祭りでは、自分の中の祭りの伝統が蘇ってきました。
本宮、自治会評議員の一員として、北脇丁のテントの下の車座でヤッサがあがるまで過ごしました。そこに年長の評議員の方の同級生も集まってきて車座の中に入ってきました。どなたも面識のない人たちです。と思っていたのですが・・・
その中のお一人が突然に「前田くん、覚えているか?」と話しかけられたのです。
その方は、私を含め、高校生だったころの一本松連中の事をよく覚えていました。その筈です。その方は、私らが一番祭りに夢中になっていたころの青年団の団長でした。あの頃は、祭りの季節になると、毎晩集会所で獅子舞の稽古をし、その後決まって酒が出、酒をあおりながら祭りの話や艶っぽい数え歌、昭和の歌を歌って過ごし、最後は決まって泥酔状態でぶっ倒れていました。私ら一本松連中は、祭りで酒と歌を腹一杯覚えました。それを見守ってくれていたのが団長でした。
車座の中でだらしなく座っていたのですが、その事実を聞かされてからは背筋が伸びました。久々に嬉しい緊張感に浸ることになりました。
テントの中から望む空があかね色に染まり、そして夕闇に染まった頃、座はお開きとなって、銘々シデ棒を持って、最後のヤッサの練り合わせを待ちました。
北脇丁のヤッサはしんがりで、ヤッサが練り場の大塩公園に入ってきたのは夜でした。そして同僚の評議員や班長さんらとともにシデ棒を持ってヤッサに近づきます。
そして練り合わせが始まります。ヤッサの太鼓の音に集中していると、突然に昔のように太鼓の音の心地良さに心がざわついてきて、ヤッサを担いでもいないのに、シデ棒を振りながら、わーっショイっ、ヨイヤサの声の一朶になっていました。
同僚の評議員も皆、真っ赤になって声をからして一朶となっていました。
練り合わせの合間、周りを見渡せば、一本松連中のぼーさん、かんちゃん、かずやもいました。その時、その感覚、そのなんとも言えない誇らしい感覚こそが、私の祭りの伝統、大切にしたい伝統なんだと思い気づいた次第です。
でも年甲斐もなく騒いだ結果、以後数日、体まったく動きません。40年近く忘れていた感覚は、老体には非常に堪えたこと、付け加えさせて頂きます。
2018年10月6日土曜日
さらさらで口当たりの軽い豚のカレーレシピ
さらさらで口当たりの軽い豚のカレーレシピ
https://cookpad.com/recipe/5281048
私が連続して集中が持続できる時間は、だいたい2時間です。
結構長いのですが、その間で、作業を完了したい、完了できたら満足感を覚えるのです。
絵を描くことも、料理をすることもです。
ですから、このカレーの調理も、だいたい2時間で完了です。時短です。お急ぎの方は一度お試し下さい。
ただし、通常カレーに入れる芋類は、スープのさらさら感になじめず、鍋の焦げ付きを招くため、スープカレーには入れません。後は、なんでもいいのかな、と思います。
2018年9月30日日曜日
日本が目指すべきチャレンジは、改憲や護憲以外に、あるのではないかと思えるようになりました。
そして、「言論・表現の自由」とともに疑問を持つようになったのが「憲法第9条」です。
若い頃は、日本の平和は永久に続くと思っていました。その一つの理由が「憲法第9条」です。日本は戦争を放棄したのだ。とても日本人は平和を愛する国民で、私もそんな日本人であることを当たり前に受け入れていました。
でも、少しずつ世間に感心を持つようになってきた時、中国で天安門事件が起こり、ユーゴスラビアで内戦が勃発し、湾岸戦争が起きました。そして2000年になってから、アメリカ同時多発テロが起こり、イラク戦争、アラブの春もあっけなく、シリア内戦、そしてイスラム国で震撼は一つの頂点に達します。
日本も平和な幻想は今は昔になって、中国、ロシア、北朝鮮、にとどまらず、韓国、そしてアメリカまで脅威に思えるようになりました。
そして、政治は二流、経済は一流の幻想も今は昔になって、権威は自ら墓穴をほって、遂には悪行に手を染めても開き直るが勝ちと言わんばかり、また、言論・表現の自由を笠に着て、言論・表現が暴力となって人の心も体も傷つけるようになりました。
私たち日本人の最後の砦は「日本国憲法」だけ、憲法だけが為政者の暴走の歯止めとなり、権力者の暴力から市井のわれわれを守ってくれると思っていましたが、最後の砦の憲法も為政者の手に落ちそう・・・
そう思ったとき、改憲や護憲についても考えるようになりました。そしてまたいろいろな書籍を読んで、日本が目指すべきチャレンジは、改憲や護憲以外に、あるのではないかと思えるようになりました。
それについて、支離滅裂になるかもしれませんが、とりあえず書き出したいと思います。
まずは日本国憲法についてです。
日本国憲法
昭和21年11月3日(日)公布
昭和22年5月3日(土)施行
前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏からまぬがれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。
前文で掲げられた崇高な理想と目的とは、次の四点と理解できます。
①日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
⇒ 政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意
②日本国民は、恒久の平和を念願し、
⇒ 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意
③いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。
④政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、
⇒ 自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうする各国の責務
第2章 戦争放棄
第9条
第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
そして、敗戦し占領された日本が、独立国として生まれ変わる為の憲法改正に、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーから示された守るべき三原則(マッカーサー・ノート 昭和21年2月3日)です。
1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務と権限は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、されに自己の安全を保持するための手段としての戦争も、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
3.日本の封建制度は廃止される。貴族院の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
そこからさかのぼる5年前の1941年、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは枢軸国との戦争目的と戦後の国際協調に関する基本的な合意(大西洋憲章)を行います。
1.両国は、領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない。
2.両国は、関係する人民の自由に表明された願望に合致しない、いかなる領土の変更も欲しない。
3.両国は、すべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権および自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。
4.両国は、現存する義務に対して正当な尊重を払いつつ、あらゆる国家が、大国小国を問わず、また勝者敗者にかかわらず、経済的繁栄に必要とされる世界の通商および原料の均等な解放を享受すべく努力する。
5.両国は、労働条件の改善、経済的進歩および社会保障をすべての者に確保するために、経済分野におけるすべての国家間の完全な協力を実現することを希望する。
6.ナチスの独裁体制の最終的崩壊後、両国は、すべての国民が、彼ら自身の国境内で安全に居住することを可能とし、すべての国のすべての人が恐怖と欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保障するような平和が確立されることを希望する。
7.このような平和は、すべての人が、妨害を受けることなく、公海・外洋を航行することを可能とするものでなければならない。
8.両国は、世界のすべての国民が、現実的および精神的なるいずれの理由からも、武力行使の放棄に到達しなければならないと信じる。陸・海・空の軍備が自国の国境外に侵略の脅威を与え、もしくは与えそうな国々によって行使される限り、いかなる将来の平和も維持され得ないのであるから、一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムが確立されるまで、こうした国の武装解除は不可欠であると信じる。両国は、同様に、平和を愛好する国民のために、軍備の圧倒的負担を軽減するすべての実行可能な措置を支援し、かつ促進させるであろう。
※世界史用語解説 授業と学習のヒント「大西洋会談/大西洋憲章」から抜粋させて頂きました。
https://www.y-history.net/appendix/wh1505-042.html
日本国憲法の「第2章 戦争放棄 第9条」は、マッカーサーノートの第二項が基であると理解できます。そしてマッカーサーがその中で「崇高な理念」と讃えたものは、大西洋憲章第8項であると理解できます。
そして、広範かつ恒久的な全般的安全保障システムを希望して設立されたのが国際機関”United Nations”であったのだと思います。
”United Nations”、第二次世界大戦では枢軸国と戦争した連合国の名称です。そして、第二次世界大戦終結後、勝利国の主要5カ国が中心となって設立した国際機関の名称に継がれました。日本では国際連合と呼んでいる国際機関です。
しかし”United Nations”は、その設立時から主要5カ国、常任理事国となった大国同士の冷戦によって、70年を経過した現在も広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの理想を体現できていない状態です。
そして日本は、戦後70年を経過してもなお、大西洋憲章第8項の
「陸・海・空の軍備が自国の国境外に侵略の脅威を与え、もしくは与えそうな国々によって行使される限り、いかなる将来の平和も維持され得ないのであるから、一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムが確立されるまで、こうした国の武装解除は不可欠であると信じる。」の対象にされたままであるように思います。
日本は、国際的な広範かつ恒久的な全般的安全保障システムという崇高な理念が実現されない限り、日本国憲法第9条の矛盾は解消されないと理解できます。
日本の政界では、戦後まもなくから改憲、護憲の勢力が争ってきました。そして、改憲の急先鋒で現在絶大なる権力を握った安倍晋三内閣総理大臣は、まず第9条に「自衛隊」を明記することを推し進めています。
自衛隊は、日本国民にとって、災害から救助してくれる、外国の脅威から守ってくれる、とても頼り甲斐のある組織です。しかし、自衛隊は外国からみれば日本国の国防軍ですが、日本国内では憲法第9条第二項によって国を守る軍隊と見なすことができないという矛盾を孕む組織でもあります。
安倍総理大臣が推し進めようとする憲法改正では、さらに「自衛隊」を憲法上、矛盾した組織にしてしまいます。
では護憲かというと、護憲は現在の憲法の矛盾を解消しようとしないことであり、国民のために憲法に向き合う姿勢にはまったく思えず、一層賛同ができません。
私はいまこそ、「崇高な理念」を念頭に作られた第9条を、理想から実現に推し進めるために、広範かつ恒久的な全般的安全保障システムを日本が主導して構築して欲しいと思います。
それが叶えば、
沖縄や日本国内に点在する米軍基地問題も、そして東アジアの安全保障上の脅威も解消されるでしょうし、なにより憲法第9条の矛盾を解消することができると考えます。
しかし、これははるかに高度で非常に困難なミッションです。そのためにも日本は、日本人は、国民が選んだ代表を守り立てて、「平和な世界を作る」を作る「崇高な理念」を具現化するミッションに挑むべきだと思います。
これは私の遙かなる理想の話です。
沖縄に現在の”United Nations”に変わる広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの本部が設置されました。沖縄は、いまや古代ローマ都市のように、その都市に集う世界中の人々が平等に、互いを尊重しながら自由に意見を交換して、世界で起こる様々な問題を平和的に、そしてスマートに解決していきます。そして沖縄は、世界の人々が気軽に平和を体現できるリゾートとしても機能する。
そして沖縄をモデルとした平和のシンボル、平和の楽園が、朝鮮半島、シナイ半島へと展開されて、過去の紛争地が平和の地へと変わっていく・・・
兵庫県の防災情報ホームページ
- 兵庫県
- 兵庫県 防災(気象)情報
- http://web.bosai.pref.hyogo.lg.jp/
7時の台風24号、台風25号 情報
2018年9月28日金曜日
台風24号の後ろに台風の卵が追走
現在の進路予報で台風24号が進んだ場合、9/30の夜、大阪、関西国際空港辺りを通過しそうです。その日の夕方に四国に945hPaという非常に強い勢力で上陸し、速度を上げながら近畿地方に近づくというのは、まさに台風21号と同じです。
しかも、台風24号は、暴風被害だけでなく、秋雨前線を活発化して明日から大雨をもたらしそうです。
今、割と真剣に避難するかどうかを家族で話しています。
避難のタイムリミットは、四国に上陸すると予報が出ている9月30日の夕方です。
来年以降の大谷選手への期待
エンジェルス大谷選手の波乱のMLB1年目は、波乱含みでしたね。
二刀流で鮮烈なデビューを飾るものの、6月に右肘靱帯断裂が見つかって9月に復帰登板するものの新たな靱帯断裂が見つかって、レギュラーシーズン終了後に靱帯再建手術を行うことになりました。投手としての復帰は2020年まで待たなければなりません。
しかし同じく9月、投手として厳しい現実を突きつけられながら、打者としてファンの不安を一掃する活躍を見せてくれました。
今年の成績ですが、
打者として
HRは、現在22本で33位
AVGとOPSは、規定打席数に達していないので参考ですが、
AVGは、0.283で、19位に準じ
OPSは、0.93で、6位に準ずる成績です。
投手としては、同じく規定投球回数に達していないので参考ですが、
WHIPは、1.16で、13位に準じ
ERAは、3.31で、8位に準ずる成績です。
新人王を大谷選手と争うヤンキース、アンデゥーハ選手は打者成績では大谷選手を一歩リードしています。大谷選手の二刀流がどう評価されるかで、新人王は決まると思います。
そして打者として、大谷選手の目標は、すべての成績で抜きん出ているチームメイトのトラウト選手です。来年、再来年にはトラウト選手を人気実力両面で脅かし追い越す選手になることを期待します。
そして投手ですが、目標は、アストロズに二枚看板であるバーランダー投手とコール投手です。試合数、投球回数、防御率、WHIPすべてに抜きん出ている両投手の成績を、二年後の2020年には、脅かし追い越す投手として復活してくれることを期待します。
但し、大谷選手にも、そしてトラウト選手にも、どうすることもできないのがエンジェルスの弱体ぶりです。打者として規定打席に達しているのは三選手。そして投手で規定投球回数に達しているのは一選手、このままでは来年のチーム順位を上げることは難しいでしょうね。
2018年9月27日木曜日
東京オリンピック大会のボランティアにこそ、本当の光を当てよう!
競技それぞれについては、選手達らが大舞台で活躍するのを観たいとは思いますが、商業主義で誰のためのものかもわからないオリンピックそのものには懐疑的であり、その懐疑的なオリンピックを莫大な金額を使って誘致して、さらには当初はコストを抑えた効率的でスマートなオリンピックになるかと期待していたのですが、いざオリンピックの開催が決まるや、どんどんとコストは膨れ上がるばかりです。日本政府や日本の大企業が下支えしているからハードウェアの完成が遅れるということは無いでしょう。メダル獲得のために、選手の育成強化にも競技によって差異はあるでしょうけれど、不足することなしに予算は投入されると思います。
でもボランティアには、無償でスキルを求めるばかり、さも古くさい言い回しになりますが、「参加することに意義がある」と言わんばかりに思います。
大会準備、さらには大会期間中に長期間拘束された上、その経費のほとんどを自分の財布から出費してでも「参加することに意義がある」或いは「オリンピックの運営に参加して楽しむ」ことができる人も、大勢いるとは思います。でも「オリンピックの運営に参加して貴重な経験をしたい」と思ってみても、まとまった出費ができないために断念する人も大勢いるのではと覆います。
この件について、海外留学を経験した方が海外でのボランティア経験について次の様に綴られています。
学生ビザであるために労働の対価としての報酬は受け取る事はできなかったけれど、ボランティア活動に掛かる交通費、食費などのすべての費用を学校側が負担してくれて、またボランティア活動によって得た貴重な体験を、学校からちゃんと評価して貰えた。
https://youpouch.com/2018/06/27/514591/
と語られていました。
TOKYO2020ボランティアのサイト
http://www.city-volunteer.metro.tokyo.jp/jp/join/application/index.html
を見ると、
募集人員は
・都市ボランティア 3万人
・大会ボランティア 8万人
で、応募条件は
・2002年4月1日以前に生まれた方
・日本国籍を有する方、又は日本に居住する資格を有する方
・日本語による簡単な会話ができる方
と書かれています。
そして、サイトの中を幾つもリンクを辿った先にあった募集要項に中に、
活動に「あたりお渡しする物品等」という名目で支給されるものが書かれています。
都市ボランティア募集要項
http://www.city-volunteer.metro.tokyo.jp/asset/img/about/tokyo2020/requirements/requirements.pdf
・ユニフォーム一式
・活動中の飲食
・ボランティア活動向けの保険
・活動期間中の活動日における滞在先から活動場所までの交通費相当として一定程度
※面談・説明会等、研修及び活動期間中における滞在先までの交通費及び宿泊は、自己負担・自己手配となります。
大会ボランティア募集要項
https://tokyo2020.org/jp/special/volunteer/data/volunteer-leaflet-JP.pdf
・オリジナルデザインのユニフォーム一式
・活動中の飲食
・ボランティア活動向けの保険
・活動期間中の活動日における滞在先から活動場所までの交通費相当として一定程度
※オリエンテーション、研修及び活動期間中における滞在先までの交通費及び宿泊は、自己負担・自己手配となります。
オリンピック憲章には、その意義について次の様に書かれています。
「オリンピック憲章に基づいて行われるスポーツを通じて、青少年を教育することによって平和でより良い世界づくりに貢献し、スポーツ文化を通じて、世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いの理解の度を深め、友情の環を広げることにより、住みよい社会を作り、ひいては世界平和の維持と確立に寄与することをその主たる目的とする。」
本来のオリンピックは、戦争のかわりにスポーツで勝ち負けを争うものではなく、国際間の紛争解決のために相互の理解増進と平和を目的としたものであると書かれています。
その本分にこそ、予算を傾けるべきだと思います。
日本の、18歳以上とはいわず、18歳以内でも経験を求める者に、身一つで参加できる機会を開き、かつ、近隣のアジア諸国はもとより世界中の学生をボランティアとして招待し、ともに活動する中で、ともに生活する中で、相互理解と友情を深めることこそ、将来にわたる平和活動に繋がるのではと思います。
しかし、すでに予算に縛られてボランティア活動に費用を回せないというならば、オリンピックスポンサー以外の企業に、ボランティア活動スポンサーを募ったり、ふるさと納税のようなオリンピックボランティア納税を作って、日本の将来への有意義な投資を国民に募るというのは如何でしょうか。
もうオリンピックまではそんなに時間はないだろうけれど、スマートで志の高い日本人も大勢います。できない事はないと思います。
でも、国民からの浄財を間違っても1円たりとも無駄にできない、しっかりとした会計管理、会計監査が必要な事は言うまでもありません。
2018年9月24日月曜日
秋の夜長、太宰治の「葉桜と魔笛」を読みました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/42376_15545.html
美しい姉妹の切ない嘘に、すっかり心を揺さぶられました。
太宰治はやっぱり少女の心が宿っていたのだと思えます。
朗読しました。下手な朗読ですが、秋の夜長に聴いて頂ければ嬉しいです。
台風24号
北浜町北脇自治会でも、最近の自然災害の甚大さを受けて、住民の方から防災への真剣な声が届けられるようになりました。
北浜町のある土地は、その昔、山の麓まで海だったそうです。いまでも下水工事などで道路を深く掘り返すと砂の層が出来てきたり、水が染み出たりするといいます。
高砂市が作った防災マップをみると、北浜町のあたりは真っ赤に色づけられ、地震に非常に弱い土地である事が示されています。また先般の台風21号同様の勢力の強い台風が赤穂から岡山辺りに上陸したとすれば、この辺りの海岸線も暴風や高潮で甚大な被害を被ることになるかも知れません。
※高砂市
揺れやすさマップ
洪水・内水ハザードマップ
阪神大震災時のポートアイランド等の人口島で起きた液状化現象による地盤沈下のことは今でも鮮明に覚えていますし、先日の北海道胆振東部地震による札幌市街住宅地の液状化現象による地盤沈下を見ては、もう人ごとではありません。いつ自分の町が家が同様の災害に見舞われるかもしれないという危機感を強く覚えます。
また先日の地震の震源地に近い厚真町で発生した大規模な山崩れも、人ごとではありません。北脇町も同じく山の麓まで住宅地になっています。こういった風景は、どこの町でも見られるのでは無いでしょうか。これも社会問題になっている里山の維持が難しくなって山がどんどんと荒れ放題になり、木々は大きく成長するとともに古木となって倒壊の危険が増大していることと相まって、危険はまさに近づいていると思います。
公共の避難場所の問題、避難経路の問題、また高齢者世帯や要介護者要支援者の避難の問題、実は自治会などの公共機関だけで決められる問題ではないと思います。
東日本大震災時、東北地方で伝えられる「津波てんでんこ」の伝承は、現代では「薄情」とも捉えられることがありますが、公共の防災が無かった昔は、まず自分の命は自分で守り、生き残る、そして生き残った者が、町を復興するという決意の賜物であったと思います。
ですから私たちは協力するとともに自分のことはあらかじめ決めておく
例えば
①家族で防災について話し合い、いつ避難するか、誰が誘導するか、離散した場合にどこで合流するか、どのようにして連絡を取り合うかを決めておく
②地域で防災について話し合い、地域やご近所で共に避難するタイミングを決めておく、高齢者や要介護要支援者、また傷病者、子供、女性をいつ避難させるかを取り決めて、分担して避難誘導、避難支援を行う
③自治体に防災について対策を講じてもらう
少し考えるだけでも、行動を決める事項が多々あります。
先般の台風でのJR西日本の計画運休は英断であったと思います。
大きな災害があらかじめ予測できる場合は、現在、自治体が出す避難準備では遅すぎると思います。たとえ過剰と言われようが、オオカミ少年と言われようが、極端な話、前日から避難を完了させるという英断も必要ではないか、と思います。
そして災害時の避難等で何らかの被災を受けた際には、誰も責任を問われないという、「津波てんでんこ」の精神を私たちは思い出さねばならないとも思います。誰の所為でもないこと、その上で思い切って平時の内に自主的に避難する、協力して避難することも考えなければいけないと思います。
もう一つ付け加えると
イージス・アショアに何千億円も注ぎ込むのなら、被災地や来る南海トラフ大地震やスーパー台風に備えるべく、平時は市民の交流の場として、緊急時には堅牢なシェルターとなる施設を作る事のほうが、国民の生命財産を守るという点で大事ではないかと思います。
砥峰高原はフレームに収まらない大空とススキ群生する大湿地でした。
雄大な風景の中を1時間ほど散策しました。スタート地点は18時から始まる観月会に集まってきた人たちの騒音がありましたが、ススキ野原を上へ上へと登るほど人はまばらになってきて、湿原の水音、虫の音、風の音がハッキリと聞こえてきました。その心地よさに包まれながら散策をしていると体の中からホッコリとしてきました。とても心地よかったです。今度はもう少し秋が深まった時期に来たいと思います。