日本は、大日本帝国の時代に第二次世界大戦の敗戦国となり、アメリカを主体とする戦勝国の連合軍による占領統治下で、民主主義と人権第一主義、そして戦争放棄と武力の不保持を掲げる新憲法『日本国憲法』を、1946年(昭和21年)11月3日に公布し、1947年(昭和22年)5月3日に施行して、新たな民主主義国家日本として歩み出しました。
現在の祝日である「憲法記念日(5月3日)」、そして「文化の日(11月3日)」は、1948年(昭和23年)7月20日に制定された国民の祝日に関する法律で、「憲法記念日」は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」を趣旨として、「文化の日」は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として制定されました。
そんな「憲法記念日」ですが、現在の市井の日本人にとってはゴールデンウィークの連休を構成する「一日」という意味合いしかないように思います。
しかし、昨日は私にとって「憲法」というものを考える日となりました。
一つのきっかけは、読売テレビの討論番組「そこまで言って委員会NP」です。
日本において、憲法改正論の最重要争点は、戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認を定めた『憲法第九条』です。右派、保守派の人々は、現在の日本を取り巻く安全保障上の危機的状況を踏まえ、日本が自ら日本人と日本国土を守れる国になるために憲法改正が必要と訴えています。逆に左派、革新派の人々は、日本が再び戦争ができる国となって侵略戦争に歩み出さない為に、世界に冠たる平和憲法を守り抜くことを訴えています。
しかし、二月末にアメリカとイスラエルが始めた中東の大国イランへの武力攻撃で、イランがホルムズ海峡を封鎖した事で世界中の国々の経済活動が大打撃を受けたことで、アメリカが同盟国に対して、ホルムズ海峡を開放するために派兵をすること、遊軍として協力することを求めた時に、アメリカと同じNATO加盟国は一様に、大義の無い戦争に与することは出来ないと拒絶しましたが、日米安保の同盟国である日本は、高市総理がアメリカに出向いた上で、憲法第九条を盾にして、紛争地に自衛隊を派遣する事は適わない旨を説明した。
この行動に対して、現在、自民党と連立を組み与党となった日本維新の会の創設者のひとりである橋下徹氏が、急進的保守として頭角を現し、遂に日本において初の女性首相となった高市早苗氏、憲法改正にも積極的である高市早苗氏も、結局は吠えるばかりで、これまでの保守政治家と同様に何も出来ない、何も変えられないと批判をしました。
この批判に対して、同じく保守派の論客である作家門田隆将氏は、(立憲民主国の長である高市総理の行動は)非難されるものではないと擁護した上で、橋下氏ならどうするの?と問うと、橋下氏は、(憲法の是認)など無視して、信念を持って行動する旨の発言をしました。(一日経っているので、うろ覚えで正確ではありません。)
ビデオ出演された社民党党首は、一貫して、日本が再び戦争ができる国にならないために護憲を主張されていましたね。安全保障の危機は外交努力だけで解決することを主張されていました。
憲法とは何か?私の理解は、立憲主義の国家において、統治者の権力や行動を縛る、何ものも侵すことのできない最高法規です。そして、日本などの民主制国家における統治者は、すべての国民です。国民が公平な選挙で代表者を選出し、代表者の考えに同意ならば従って行動し、考えに反対ならば代表者に翻意を促すか、もしくは代表者を選び直す。それが統治者である国民の責任です。
ですが、上の討論を聞いているだけでも、そもそも今の日本の為政者は、国民は無垢、或いは無知、或いは悪人であって、自分たちが導かなければ何をしでかすか分かったもんじゃない、だから、自分たち各々の正義を声高に主張して、国民を従わせなければならない、と考えている様に思えるのです。
そして二つ目、極めつけは、NHKの夜ドラで放送された『対決』の最終話を見た事です。
このドラマは、実際に大学の現場で常態化していた不祥事を題材にした社会派ドラマで、私たち一人ひとりに、社会における正しさとは何か?を問い掛けて来ました。
こんな表現がありました。「誰かが笑えば、誰かが泣く」「社会を回すために、必要な悪もある」、それは言わば、「必要悪の為に、誰かに犠牲を強いる社会」を黙認することです。
『大事の前の小事』ということわざがあります。
このことわざには、二つの意味があります。
一つは、大きな成功のためには、油断せずに細かい点まで注意を払うべきだという戒め。
もう一つは、大きな目的を達成しようとする際には、小さな犠牲や些細なことには構っていられない。
第二次世界大戦から戦後今日まで、為政者や権力者は、この『大事の前の小事』の二つ目の意味を、国民に浸潤させて追従するように仕向けてきたように思います。国民は、戦後、日本国憲法の施行により、臣民の立場から統治者に変わったにも関わらずです。そして、市井の国民が被る不利益や犠牲は、様々な場面で、黙殺し続けてきたのだろうと思います。
あらためて、憲法は、国民の不利益や犠牲を是認するためのものでは決してなく、すべての国民の幸福と利益を希求する礎となるものです。
その事の理解を、わたしたち国民は、幼き頃から学び、それぞれが統治者として、憲法に従う者にならなければならないのだと思います。
加えて言うなら、幸福と利益を希求する対象として、国を越え、すべての人々、人類、更にはこの地球上に生きるすべての生き物を、加えることを究極の目的としなければいけないとも思います。身勝手、独り善がり、独占こそ、危機の種であることを私たちは嫌というほど経験して学んできたからです。
また、幸福と利益を希求する礎であり続けるために、必要となれば、国民皆で議論を行い、憲法をより良きもの、実体に即したものに更新していくことも必要であると思います。
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