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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2020年2月8日土曜日

歪んだUnited Nationsの世界 2

United Nationsの構想は、第二次世界大戦の直前にチャーチルとルーズベルトによって作られました。

第一次世界大戦による甚大なる国家の崩壊を目の当たりにした二人の大国の指導者は、もちろん100年前の西欧の道徳観を基に、世界中の国家を解体して白人による世界政府(United Nations)による世界の統治を構想しました。


その構想は、日本国憲法第九条にも引き継がれています。

前文の中の

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」です。

日本国憲法は、日本が将来United Nationsの枠組みに入ることを前提に作られたとすれば、第九条の戦争と武力の永久放棄は、建設的な意味を帯びると思います。


しかし、第二次世界大戦で枢軸国と戦った連合国(United Nations)の主要5カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中国※当時は中華民国、戦後は中華人民共和国)は、戦後にボードメンバーとして国際連合(United Nations)を組織しますが、それは世界政府とはほど遠いものでした。国際連合はボードメンバーの5カ国全てが承認しなければ、何も決まらない、行動できない硬直した組織となりました。

そして主要5カ国が先導する軍拡と核開発競争が始まりました。その波は、戦後に植民地から独立国家として成立した多くの国に広がりました。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」という崇高な理念に一国家の安全保障を委ねるという理想の実現は遠退きました。


何よりUnited Nationsは、戦後75年を経過しても枢軸国であった国は、形骸的であるにせよ敵国扱いのままで、戦後から今日まで、特に主要5カ国が直接的にも間接的にも関与した戦争の罪は、問われることはありませんでした。

それどころか、その戦争が巻いた、残した、生んだ、憎悪が、世界中で差別や排斥、殺戮の連鎖を生み続けています。

ナショナリズムが台頭し、民族差別、人種差別、信仰差別が台頭しています。悪夢の再来を予感させます。



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