播磨の国ブログ検索

映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2020年2月4日火曜日

凡庸な悪について考えさせられた小説「あん」

ドリアン助川さんの「あん」という小説読んだことがありますか?2011年の作品です。私はこの小説を原作とする2015年の映画作品「あん」を最近観て、小説に辿り着きました。

樹木希林さんの、小説の登場人物が憑依したかの様な、人としての権利をすべて奪われても、その苦しみが死ぬまで続こうとも、人への優しさを保つことで生きてこられた人物の自然な表現に、まるでドキュメンタリーを観ている感覚で心が揺さぶられました。

ハンセン病、日本では古くかららい病と呼ばれ、発症者は天からの刑罰が下されたとして忌み嫌われ続けた感染症です。そして1953年に発布された「らい予防法」によって発症者は国の主導で隔離されることになりました。

しかしその本質は医療政策とは程遠いもので、絶滅政策と見紛う程に発病者は人権を奪われ命を奪われました。

ハンセン病は不衛生な環境の中で感染する可能性のある感染症ですが、その感染力は非常に弱く、遺伝する事はなく、そして1940年代にアメリカで特効薬が開発されてからは、治療法が確立した完治出来る病気となっていました。

日本でも1960年には治療法が知られるようになって、その後に隔離された患者は全員完治しましたが、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで隔離政策は続きました。

隔離された人々は、社会から存在を抹消され、身一つで施設で新たに付けられた名前で隔離施設の中で死ぬまで生きなければならなくなりました。

患者同士の婚姻は認められても医療処置によって子供を授かることは叶いませんでした。隔離施設の中で声を上げれば、体制に反抗すれば、施設内の暗く冷たい独房に収監されて、狂い死に、否、狂い殺されることもありました。絶望から自死を選ぶ人もいました。

1996年に「らい予防法」が廃止されて、隔離という非道な人権侵害から解放されたものの、元患者は社会との繫がりをすべて失っていて、収容所(療養所)以外に安息の場所はないという現実に直面します。それ以上に日本人社会は未だハンセン病の正しい理解が何一つ啓蒙されておらず、迷信による差別意識が根深いことに直面します。

ハンセン病患者、元患者への非道な人権侵害は、第二次世界大戦当時のドイツ第三帝国によるユダヤ人などナチスが劣等人種と烙印を押した人種や、同じアーリア人の中で劣等と烙印を押された人々を強制隔離し絶滅政策を国家の行政政策として実行した、ホロコーストを彷彿させます。

鶏が先か卵が先か、ではないですが、国民の中に宿る差別や憎悪を指導者が利用して、差別や憎悪を煽動する政策を打ち出し実行することで支持を集めて権力基盤を盤石にしているのか、

指導者が権力基盤を盤石にするために国民の敵を作り出し、過剰な排斥政策を打ち出すことで、国民の中に排斥政策を否定できない空気を作り出し、国民を排斥の尖兵に、更に言えば指導者に妄信的に従うロボットに仕立て上げているのか

この様な事例は現在も枚挙に暇がないほどです。


ドリアン助川さんの「あん」は、新刊で発売された当時は注目されベストセラーにも選ばれたと思いますが、先日に大手書店で探したとき、幸運なのか不幸なのか1冊だけありました。

でも図書館や学校の図書館にも1冊は見つけることはできるのでは思います。

若い人たちには、自分に関わりのないこととして避けるのではなく、過去の語り部の言葉に触れて、本当に今の自分にも関わる事として、是非読んで、考えて、問題に思考を巡らせて欲しい、と強く願います。

過去の悪しき出来事を学んでも、自分の問題として考えない限り、悪しき出来事は新しい出来事として目の前に迫っています。

ハンナ・アレントが語ったように凡庸な悪人となってしまうのか良心に従って悪と対峙するか、抗うか、どういう者になりたいか、今こそ考えて欲しいと思います。私も生きている限り考え続けます。

0 件のコメント:

コメントを投稿