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差別の天秤
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2013年5月4日土曜日
H.D.ソロー著『森の生活』 -孤独を解く-
H.D.ソロー著『森の生活』を読んでいます。この本の【孤独】の章に次の文がありました。
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「自然」のまっただ中で暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症に取り憑かれることなどあり得ない。かつては、健康で汚れのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。単純な、勇気のある人間は、何があろうとむやみに低俗な悲哀に打ちのめされたりはしない。四季を友にしているかぎり、私は何があろうと人生を重荷に感じる事はないだろう。
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19世紀のアメリカ東部に生きた思想家H.D.ソローは、地元コンコード市のウォールデン池畔に丸太小屋を建て、二年間自給自足の生活を送ります。その地は数キロ四方に民家がないというだけで、対岸には鉄道の路線が見え、時には近くの村から友人が訪ねてくるという、まったくの文明や人を拒絶した生活ではなかった様子です。
それでも彼は、自然の中で糧を得、思想を深めていきます。森の生活を始めたころ「孤独」に不愉快さを覚えますが、ある時「自然が」-雨だれや、家の回りのすべての音や光景が-とても優しい、情け深い交際仲間であることに気づきに、たちまち筆舌に尽くしがたい無限の懐かしさがこみあげてきた、そして二度と「孤独」に煩わされることはなかったと語っています。その心境が、先の文章に込められているのだと思います。
私は思想家でも旅人でもないですが、ただ長歩き、散歩を楽しむものとして、とても共感を覚えます。私はひとりで歩きます。目的地を決めて歩き始めますが、ルートはその時の気分次第、鳥のさえずりや深緑を浴びるのか、または波音と陽光をいっぱいに浴びるのか、という欲求によってもルートは変わります。ルートは平坦な道ばかりではなく、車が右往左往する幹線道もあれば、岩場、獣道であることもあります。ですから全身がひとつの感覚器官のようになって歩くのです。一歩、歩を進めれば、新しいことに出会う、全身を包む大気が、音が光りが常に心地よい刺激を与え続けてくれるのです。ですから憂鬱に取り憑かれる暇などないのです。
私たちは《人間らしく生きるために》、多くのものを身に纏い、身に背負い、身を繋ぎます。しかし、時にそれが為に、心が重くなり、憂鬱を招いて苦しみます。ソローの様に、すべてを一度に捨て去ることなど出来ないにしても、身軽な装備で、数時間、大気の中を彷徨うことで、心は軽くなります。「自然は私を拘束しない、ただ無償で与え続けてくれる」、ということが実感できるからです。そうして私たちは、心の荷を解き、心を軽くして、また人間世界に戻ればいいのだと思います。
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