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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年12月1日日曜日

桜を見る会の不都合な真実

次々に桜を見る会の不都合な真実が明るみになっても、悪びれることなく堂々と隠蔽が行われ、あったことが無かった事になる今の日本の状況は、まさに軍閥が国の実権を握り、国民だけでなく天皇までも欺いて、戦争に邁進させた戦前の日本の状況を彷彿させます。

為政者というものは、ひとたび高みの景色を眺めれば、つまり権力の上に立てば、たとえ根が善人であったとしても、一度手にした権力やそれに付随する利権の味に溺れて心が苛まれます。私たちはか弱き人間なのだから、ある意味仕方がない事です。
だからこそ、日本の国家権力は三権に分離されているのです。
でも、いや、分離されていた(過去形)が正しいか。いつの間にか、首相を長とする内閣府が、行政を司る官僚の人事を握り、司法の要である最高裁人事も掌握していました。
まして立法府は、衆議院、参議院とも安倍首相率いる自民党が最大勢力で、我が物顔の振る舞いです。

森友学園問題、加計学園問題の時もそうですが、不正の隠蔽工作、破棄工作で尻拭いをさせられる官僚の姿には、アドルフ・アイヒマンの姿が重なります。
アドルフ・アイヒマンはヒトラーの命令に従い、約600万人を超えるユダヤ人、ロマ人、同じアーリア人でも優性ではないと判別された人(障害者や現在でいうLGBTの人々)、ヒトラーに逆らう人、の大殺戮(ホロコースト)を指揮した官僚です。
アイヒマンは、戦後アルゼンチンに逃亡しますが、モサドに捕まりイスラエルに連行されて、1961年に裁判に掛けられます。
その裁判を傍聴した人々は、「私はただ上官の命令に従っただけだ」と無罪を主張するアイヒマンの姿に、冷酷無比の殺人鬼が、実は全く平凡な小役人だったことに驚いたといいます。この裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」(悪魔的行為の実行者が、個人的にはなんと平凡な人間であったか)という、アイヒマンが悪に染まったのは何もアイヒマンが特別であったからではない、という思惟させる言葉を残しています。
またアメリカの作家ギュンター・アンデルスは、
「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」という言葉を残しています。

ヒトラーの配下で高い地位に登り詰めた政治家ヘルマン・ゲーリングは次の言葉を残しています。
「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。…でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民に向かって、我々は今、攻撃されているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です。」
またヒトラーが語った言葉として
「青少年に、判断力や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい。青少年から思考力を奪い、指導者の命令に対する服従心のみを植え付けるべきだ。国家や社会、指導者を批判するものに対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数派や異端者は悪だと思いこませよ。みんな同じことを考えるようにせよ。みんなと同じように考えないものは、国家の敵だと思いこませるのだ。」
も残しています。
私は、ゲーリングの残した言葉と、日本の今の状況が重なります。

どうぞ、不都合な真実を知る人たちへ、不正の証拠を握る人たちへ、悪に麻痺しないで下さい。どうぞ、あなたの愛する子や孫の顔を見て、純粋な心、正義の心を取り戻して下さい。そして、憲法が標榜するデモクラシーを守る者に立ち返って行動して下さい。
と、ただただ良心に訴えるしかありません。

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