播磨の国ブログ検索

差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2014年1月24日金曜日

「宇宙の果てはどうなっているのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」

「宇宙の果てはどうなっているのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」
はじめて”生”、そして”死”について考える年頃(少年時代)になった時、私も御多分にもれず、この疑問、あるいは恐れに取り憑かれました。

そして、はじめてその疑問に答えてくれたのが手塚治虫さんの「火の鳥」でした。
「火の鳥」の未来編で、火の鳥に導かれた主人公は、伸縮自在となって宇宙の真理を垣間見ます。主人公が見たものは
私たちの宇宙、この世界で最大のものですら、別世界では芥子粒でしか無く、また素粒子、この世界で最小のものでも、その中に別世界を宿します。
そしてあらゆる存在は、大いなる宇宙エネルギーから生まれ、そこに帰すという真理です。
また、鳳凰編では、不死に取り憑かれた男が、死の間際、火の鳥に導かれて、己の輪廻転生した姿を辿ります。男は現世の大罪によって、二度と人に生まれ変わることの無いことを悟ります。
そして「火の鳥」は、私の「宇宙観」、そして「死生観」の礎となりました。

この様な「宇宙観」そして「死生観」で時を見つめると、私たちの宇宙で最長とされる宇宙誕生からの時間140億年でさえ、ある者にとっては一瞬の出来事であるかもしれない。また、一秒はある者にとって永遠に等しい長さなのかもしれない。
そしてさらに飛躍して、私の一生は、ある者の一夜の夢であるかもしれないと想像します。

死の淵に際して、私は一生を走馬灯のように振り返る。そして深い眠りに陥った時、
私は目覚める。そして振り返る、いい夢で会ったと・・・

五十も半ばが近づいて、死を真面目に考えなければいけない年齢となりました。
私は自分の死には楽観的です。魂は永続すると考えているからです。死は、新たなる生の始まり、夢からの目覚めであると想像します。ですが恐れもあります。それは、私の魂は大いなる者の手中にあるということです。ですから、決してこの世を悪夢にしてはならない。大罪を犯してはならない、そして与えられた一生を全うしなければならないという覚悟を覚えます。
また同時に、大切な人、愛する人にもこの世が良い夢となって、新たな生の始まり、夢からの目覚めとなって欲しいと切に願います。そのために、私に何ができるのかを想像し、これから行動できればと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿