♪深夜ラジオに耳を傾け
流行の歌を聴いたものさ
歌の文句をそのままかりて
初めて書いたラブレター。。。
南こうせつさんの『僕のグラフィティー』です。私の青春の一曲です。
二日前、仕事を終えてから暫し若いチームメイト達と談笑しました。
そしたらひとりが、14歳くらいまでだったかなぁ、大阪の枚方、楠葉に住んでいたと話してくれました。
チームメイトが生まれた?ばかりの頃、私は枚方、牧野に住んでいました。
NECの男子社員独身寮があったのです。そこで1983年から4年間お世話になりました。
寮には気が置けない同期の仲間が沢山いました。
亀ちゃん(亀田さん)、加藤さん、森岡、佐々木、星ちゃん(星野)、八百ちゃん(八百谷)、稲ちゃん(稲場)、平木そして竹ちゃん(竹谷)です。まだ数名いるのですが名前忘れてしまいました、ごめんなさい。
そしてよく部屋に遊びに来ていて、いとこいのこいしさんによく似た寮長に寮生と間違えられていたのがポチ(竹内)と竹嶋そして野口です。
週末ともなると、金曜日の夜から徹マンで、早朝から一階にある洗濯機を回し、そして寮の庭(テニスコートほどの広さがありました)で日が開けぬうちからキャッチボール、ホント休憩なし、昼は一リットル入りのコーラで済ませ、陽が落ちるまでずっとキャッチボールに興じていました。
同期の女の子が寮を訪ねることがあって、そしたら私らが皆ランニングシャツ姿ではしゃいでいて、そして各部屋には紐に吊された洗濯物が窓の外からもよく見えた、と会社で会ったとき話してくれました。
夜は夜で、仕事が終わると皆集まって、『今日は雨が降ったから』『風が強いから』『暑いから』と理由をつけては飲み歩いていました。寮生だけでなく、男子も女子もなく、100名を超える同期生ですが、ホント仲がよかった、そしていつも集まって騒いでいました。
その中心が『枚方寮』だったのです。
私たちの同期が集まると、私は歌を歌いました。
二十歳の頃に北脇の一本松連中、イチャさん、ボテ、タクロウさんと私で作った歌『麻呂がゆく』です。よくもまぁ二十歳そらいらであんなへんてこな歌作ったものだと感心します。
往年の『歌う映画スター』高田浩吉さんの『大江戸出世小唄』の出たしをもじった『麻呂がゆく』の歌詞は次のようなものでした。
利根の柳は風任せ
カワイあの娘は口任せ
今日もきました六本木、明日は新宿か・ぶ・き・ちょうおお(歌舞伎町)
今日もデスコでフィーイバ
カワイあの娘にウィンクすれば
腰をフリフリ寄ってきて
返す返事は、あっあかんんベ~(あっかんべ)
所詮、姫路の田舎者
みゆき通りがにああってる
だけど、だけど、だけど~
麻呂はゆく、麻呂はゆく。。。
ちゅうな歌です。へんてこな歌詞でしょ、節をつけるともっとヘンです。でも楽しい歌で、皆も覚えてくれて一緒に歌いました。
ボテが東京の大学にいって、まぁあった事なかった事を話してくれて、そして皆で歌詞を紡ぎました。出だしの部分はタクロウです。タクロウのおっちゃんはクラシックギターの名手で、タクロウも出会ったころからギターめちゃめちゃ上手かった。そして声が子供離れしたほどに渋く、まるで流しのおっさんでした。
私には『青春のグラフィティー』が三編あります。
一つ目は一本松連中(幼なじみ)とのグラフィティー
二つ目は、石川県金沢で過ごした大学時代のグラフィティー
そして三つ目が、今回辿った枚方寮時代のグラフィティーです。
当時の寮の仲間とは、もう数名しか交流を持っていません。とくに二代目ちびっ子ギャングこと竹ちゃんとは、二十代の終わり、竹ちゃんが退職して以降、全く消息が分かりません。竹ちゃんはこんまかったけれど気骨のある男でした。そして可愛い顔とは裏腹なとてもひどいだみ声で、また枝雀師匠の『スミバセン』が口癖でした。淡路の男で、よく家からビワが送られてきて、よく美味いビワを頂きました。夏、寝苦しい夜など、ふたりで外に出て、牧野から楠葉界隈を明け方までクネクネ歩いたものです。
『竹ちゃん、会いたいよ~』
枚方寮編では、まだまだ寮生それぞれとの友情厚い思い出が沢山あります。それこそ本が一冊書けてしまうほどにです。笑い話あり、切ない話あり、書ける話、書けない話ありです。
また、他の編も辿ってみたいと思います。
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