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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年3月18日金曜日

絵本『大きな木』読後感想

『1Q84』で一昨年、昨年と再び文壇の寵児となった村上春樹さん。
村上春樹さんは、オリジナル小説やエッセイを執筆される以外にも、往年の名作、レイモンド・チャンドラー作『The Long Goodbye』やF・スコット・フィッツジェラルド作『The Great Gatsby』、J・D・サリンジャー作『The Catcher in the Rye』等、多数を新意訳されています。
絵本も同様、クリス・ヴァン・オールズバーグ作『The Polar Express』も、そして今回取り上げた、シェル・シルヴァスタイン作『The Giving Tree(邦題:大きな木)』も昨年秋、新意訳され話題となりました。

家にあった『大きな木』は、妻がまだ保育士駆け出しの頃に購入したと思われる、本田錦一郎さんが1976年に翻訳出版されたものの第30刷(1987/4~)です。因みに原書初版は1964年に出版されています。

ブラックインクのペンによる均一な線画と、現在のTwitterよりも短い文で物語が綴られています。

「むかし、りんごのきがあって・・・」からはじまり

りんごの木は、ある少年の絶好の遊び相手となります。
しかし少年は成長して青年となり、ガールフレンドができ、
遊ぶ金が入り用となると、りんごの木に無心し、
りんごの実をすべてもぎ取り、持ち去ってしまいます。

年月が流れて、ひょっこり現れたかつての少年は、
大人となり、家族を持つために家を無心します。
そして家を建てるために、枝をすべて切り払って、
持ち去ってしまいます。

そしてまた、長い長い年月が流れて、
ひょっこり現れたかつての少年は、
すっかり人生に疲れた老人となり、
この世界から逃げ出す舟を無心し、
舟を作るために、りんご木の幹を切り倒して、
持ち去ってしまいます。

りんごの木は何もかも失ってしまいますが、
それでも少年に施しができたことを喜びます。

そしてさらに年月は過ぎ去って、
かつての少年であった老人が帰ってきます。
老人はすっかり疲れ果て、ただ休みたいと、
かつてのりんごの木の切り株に語りかけ、
そして切り株の指示に従い、こしかけます。

木はそれでうれしかった・・・

という物語です。

原題を直訳するならば、「優しい木」あるいは「親切な木」ということになります。では邦題の「おおきな木」はどうでしょう。私は「おおきな」からは「大らかさ」「父のような逞しさ」或いは「母のような広い愛」を想像しますが、この物語は、そのどの連想にも合致しません。

では、視点を変えて、木は『神』でしょうか。『神』は、良きものもお与え下さいますが、試練も与えられます。
では、木は『悪魔』でしょうか。『悪魔』は、陥れ、すべてを奪います。
この様に見ていくと、木から与えられた、もしくは木から奪った人は、本編では触れられてはいませんが、必ずしも幸せではなさそうです。
そして、人生の最後に、その最初の出会いと同様に、木のもとに安らぎを見いだします。
とすると、木は『神』ということになるのでしょうか。

『西遊記』の釈迦如来と孫悟空の逸話と同様に、結局人は、どんなにわがまま放題に振る舞ったとしても、所詮は、大いなる存在の手のひらの内で戯れるだけの存在なのだ、作者はそう仰っているのかもしれません。

今回、書店で村上春樹さん新訳の絵本も手に取り、読みましたが、装丁は全く一緒、異なるのは文だけです。村上春樹さんの訳は、凄く丁寧でした。
私は、本田錦一郎さん訳の、人の子の『ぶっきらぼう』や木の『マゾヒズム』が、異様で、また哲学的でもあり好きです。

作者であるシェル・シルヴァスタインさんの略歴を見ると、詩人、児童文学作家、漫画家、歌手、演奏家、作曲家とマルチに活躍されていたようです。その風貌は、丸坊主に顎鬚、ブルージーンズをはき、カウボーイハットをかぶる、アメリカ中西部の男そのものです。十代の頃、月刊プレーボーイを開いたことがある同輩はお分かりになると思いますが、妖艶なプレイメイトの挿絵、エロティックもしくは風刺の効いた漫画の作者だ、と言えばお分かりになると思います。

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