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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年9月16日水曜日

世界が一つの国ならば

創世記の時代、バベルの塔事件が起こります。
神が作られた人間は、地上にどんどんと増え広がって、やがて人間の王を立て、神と競う暴挙に出ます。人間の王は万人を使って天に届く塔を築こうとしたのです。
神は怒り、鉄槌を下します。
大地を揺るがして塔を砕き、人間の言葉を乱して会話を通じなくしました。
そして人間は、もはや群れることができず、大地に散り散りになりました。

バベルの塔事件は、聖書の記事の中でも特に人間にとって大きな事件であったと思います。
この事件の後、人間同士袂を分かち、言語が同じ者が国を作り、宗教を持ち、人種が分かれました。

でも、もしバベルの塔事件が起こらず、人間が神の鉄槌を受けずに現代まで続いていたとしたらどうでしょうか?
世界中の人間が、同じ言葉を話し、一つの国を営み続けていたかもしれません。
その国にも人間のための憲法があるでしょう。
宗教の自由、
誰もが信ずるものを見出す事ができ、他者はそれを認めること
人権の尊重、
誰もが安全を保証され、学ぶこと、仕事につくこと、恋愛すること、の自由と権利が与えられること
戦争放棄、
武力によって争いを起こさないこと
そして、その国を束ねるのは、一握りの王からしれないし、国民の代議員であるかもしれないけれど、国民の庇護者でなければなりません。

もしも世界が一つの国であったなら
通貨は一つである筈です。通貨は物の売り買いに使われますが、通貨の価値が変動することはないでしょう。ですから通貨の価値を操作して大儲けしようとか、経済を混乱させようという悪巧みはありません。

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