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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年9月16日水曜日

家族の喪失

23年前、父が亡くなりました。
亡くなる2週間前、父が胸の痛みを訴えたので近くの病院で検査を受けると、肺が真っ白になっていました。しかも腫瘍の影があると言われました。それで緊急入院しました。
入院してすぐ、昏睡状態に陥りました。それから亡くなるまで、処置と言えば喉に溜まる痰の除去と点滴による水分と栄養補給、そして酸素吸入だけでした。
検査の後すぐに、医師から厳しい状態と告げられて、しばし呆然としたことを覚えています。とにかく兄姉に連絡をして、妻に連絡して、母に連絡をして、親戚に連絡をして・・・そして、父の最後の瞬間を見届けたい、最後まで看取りたいという誘惑に駆られて、会社にしばらく休むと連絡を入れました。

その日から簡易ベッドを持ち込んで、姉達と代わる代わる昼夜の付き添いが始まりました。付き添いのそれぞれが、それぞれの経験をしました。
私は、父が入院して1週間目に父の死別した前妻の兄弟で父の義兄にあたる父とは一番気が合った叔父さんが見舞いに来てくれた時、父が突然に意識を取り戻したのを目撃しました。父はその2年前に脳梗塞を患って右半身が麻痺の状態になっていました。言葉も発っせなくなっていましたが、言葉も無く二人は抱き合いしばしの別れをしました。そして叔父さんが帰った後すぐ、また昏睡状態に陥りました。
その後、一度がばっと上半身が起き上がったことがありましたが、それは反射動作であると後で医師に言われました。人間、意識がなくとも酷い痛みに襲われると反射で体が反応するというのです。

兄は銀行マンで、当時長崎にいました。長崎から毎週病院に駆け付けるのは大変だったと思います。そして、父が亡くなる二日前だったか、兄がまた帰ってきました。五人の兄弟姉妹が病室階の談話室に集まり、夜遅くまで話をしたことを思い出します。
そして、父が亡くなる前夜の事です。尿を取る袋や点滴の管が血液で真っ赤に染まっていました。父は体が強い人でした、心臓が強い人でした、ですから意識を無くした後も、2週間近く生き存えてきました。でも、いよいよ体も限界に近づいたこと、みんなが悟りました。

そして、父が亡くなる日を迎えました。
昼時でした。家族はみんな病院に集っていましたが、母と姉達が昼ご飯をとるために病院を離れていたときです。もう何十回目となるのか、痰の除去のために医師と看護師が部屋に入り、兄と二人で病室の外に出ました。病室は看護師詰め所の隣でした。看護師詰め所には、何台かのモニターが動いていました。その内の1台のモニターに表示された数値が段々と小さな数字に変化していることに気が付きました。兄もそのモニターを見ていました。そしてその数値は一桁になり、やがて0になりました。
病室内が急に忙しくなって、そして医師が部屋の外に出、私たちに臨終を伝えました。
私は、その2週間前、ある誘惑に駆られました。そして、家族のことも仕事のこともほっぽらかして、その事だけに腐心しました。そして、それは成されました。しかし、残ったのはぽっかりとした大きな穴だけでした。

今、兄の子供たち(子供といっても、もういい年の大人ですが)が、同じ経験をしています。表の顔は皆、現代っ子(といっても、もういい年の大人ですが)らしく笑顔とおふざけが堪えないですが、行動には誠心誠意が溢れています。私とは大違いです。
ですから、彼らには、別れの日を迎えた後、ぽっかりとした大きな穴では無く、全く違うもの、彼らが示した愛情の豊かさで、それぞれが、それぞれの心を満たしてくれたらと思います。それが兄の願いでもあると思います。

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