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差別の天秤

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2012年6月6日水曜日

一日の王


手元に
『日本の名随筆10 山 北杜夫編』
があります。二十代の中頃に求めた書です。
実はもう一冊求めた書があり、それは『11 酒 田村隆一編』でした。
山と酒、当時の私の(そして今もですが)憧れの対象でした。

『酒』は、旅の途中に紛失してしまい、今は『山』だけが手元にあります。
そして時たま書棚から取り出してはペラペラと頁をめくり、目に留まった題の散文を読み返すのです。
そして今日、目に留まったのが
尾崎喜八の『一日の王』でした。

『一日の王』
葡萄酒とお気に入りの詩集『シェーヌヴィエール著”一日の王の物語”』を携えて山を巡る男が主人公の散文詩です。
私にはとても難解な詩文ですが、その終わりの一行

かくて貧しい彼といえども、
価無き思い出の無数の宝に富まされながら、
また今日も、
一日の王たることができたであろう。

に心を打たれました。

山を巡るということは、”価無き思い出の無数の宝”、そう、触れ、見聞きし、味わった無数の感動を得るということ。
それは、権力と富の上に鎮座する世の王よりも、儚く脆く、でもとても崇高な境地に一時立てるということ。
そういう思いに心を打たれました。

世には『感動体験!』と銘打たれた旅企画が目白押しです。
そして私たちは、用意された感動に飛びつきます。
でも何気ない山歩き、海歩き、町歩きでも、目を開けば、耳を澄ませば、心を解き放てば、感動はそこいら中に溢れています。

名文は、こんな増大な思いを、たった一行で端的に表現していました。
これも、素晴らしい感動でした。

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