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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2017年6月19日月曜日

ある週刊誌で、ヴォルテールの言論の自由の宣言を見つけました。

病院の待合室で読んでいた週刊誌に、先頃、一橋大学での講演会を中止に追い込まれた百田尚樹氏自らが執筆した、事の顛末記事が載っていました。
なんでも、レイシストの百田尚樹に学内で講演をさせてはならないと主張する人権活動グループが、執拗に開催中止を要求してきたため、講演会の実行委員会が安全を担保できないと判断し、中止になったとする経緯が綴られていました。
百田氏は、私はレイシストではないと断りを入れた後、ヴォルテールの『私は君の言うことを徹頭徹尾嫌悪するが、しかしそれを言う君の権利を死ぬまで擁護する』という言論の自由の宣言を引用し、執拗に開催中止を求めたグループを、「人権と表現の自由」を活動に掲げる人権活動家を名乗る資格はないと批判し、さらに彼らの正体についても言及していました。(以上は、誌面を読んだうろ覚えの記憶を頼りに書いています。念のため)

人は、目の前に並べられた幾つかの真実から、自分が気に入ったものを本当の真実として選び取る傾向があります。そして、たとえその真実に後でフェイクと疑いを持っても、なかなか宗旨替えする事が出来ない生き物でもあります。

今回の問題について、私は反対があって講演会が中止になったという事実以外、目の前に並べられた真実から本当の真実を選び取る事は来ませんでした。
百田氏はレイシストではないという真実も、これまでの彼の言動を見聞きしていて、そう言い切れるのかという疑念を持つし、中止に追い込んだ人権活動グループも、自分たちの正義を自己満足で強引に押し通している様で、彼ら側にも本当の真実がないように思えたからです。

私は百田氏が引用したヴォルテールの宣言を、「表現の自由、入門」(原題 FREE SPEECH 2009年ナイジェル・ウォーバーン、2015年森村進、たまき翻訳)を読んで知っていました。
フランスの哲学者ヴォルテールの『私は君の言うことを徹頭徹尾嫌悪するが、しかしそれを言う君の権利を死ぬまで擁護する』という宣言には、
ある人や組織の、言論や行為が、不愉快だから不都合だからと、自ら規制しようとするのは、それは、民衆が権力者との長い戦いの中で獲得してきた人権や表現の自由、言論の自由という権利を自ら傷つけることに他ならない。さらには、権利を再び権力者に奪い取られかねない。だから私たちは、どんなに嫌悪を抱く言論や行為であっても、それを容認しなければならない。絶対に規制を掛けてはならない。
という悲痛な覚悟を覚えます。
しかし、その覚悟が呪縛となって、現在に至り、自分勝手で、無責任で、不愉快で、さらには他者を傷つける言論や行為が、大手を振って行える社会を生み出してしまったことも事実だと思います。ですから、誰であれヴォルテールの言葉を、自分の主張の担保として使うべきではないと思います。

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