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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2014年1月31日金曜日

人はどこから来て、どこへ行くのでしょうか? その2

私はこれまで、人の性善説を信じてきました。
しかし、最近のあまりにも不愉快で不可解な事件を見る度、この性善説を信じる心が揺らぎます。

人類の人口は、西暦1世紀頃の1億人から、千年後に2億人となりました。そして近代産業が花開いた産業革命以降人口爆発が起こり、19世紀末には16億人、そして20世紀末には60億人、そして現在70億人を突破したと言われています。

太古の時代、その時代には、よろずの神々が地上を闊歩し、光の中に存在するあらゆる物事に精霊が宿っていました。そしてまた暗闇の中には魑魅魍魎が蠢いていました。
人類の祖先もいました。彼らの数は神から定められていました。彼らは共同生活をし、神や精霊を敬い畏れ、また魑魅魍魎を忌み恐れて生きていました。

しかし、やがて人類は人類同士で争う様になり、世界中に拡散し、神の定めを裏切って個体数を増やしていきます。そしてそれぞれが都合の良い神を見立てて崇拝し、目に見えない存在を恐れなくなりました。そして人類の信心でこの世に留まる事ができた者達は、本来の姿を失い霊魂となってこの世を彷徨う様になりました。

人類の個体数はどんどんと増えていきました。でも人類の霊魂は、神が定めた数しかありません。そのために人の姿をした器に、人ではない別の霊魂が宿ることもありました。
そして今の世界となりました。

以上は勝手な空想です。とても不穏で恐ろしい空想ですが、何者の霊魂も神聖な場所で洗われる、清められる筈だとも思います。また、たとえ性悪説を信じなければならないとしても、善の心は習慣や愛で育むことができるとも思います。
そして私たち人は、神を敬い畏れ、人を愛することで始まるのだと思います。

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