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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年7月3日水曜日

昨日、カムイのお葬式をしました。

昨日、カムイのお葬式をしました。
亡骸を入れた箱に、庭に咲いた紫陽花の花で作った花束とノルンとカムイの写真を収めました。
斎場には、遼太郎と耕太郎と三人で行きました。斎場で火葬の申請書を提出し、そしてお別れをしました。
小さな家族の死は、とても深い悲しみとともに、命は決して簡単に尽きるものではないということを、この数日間で教えてくれました。

エリザベス・キューブラー・ロス医師が1969年に著した『死ぬ瞬間』(On Death and Dying)という本があります。その本は、死を宣告された人々をインタビューし、人々が死を受容するプロセスが報告されています。
第一段階は『否認』です。死を宣告され、衝撃を受けるものの、まだ助かる道はあるはずだと、その宣告を否認するのです。
第二段階は『怒り』です。何故に自分が死ななければならないのかという、言いようのない怒りを周囲に向ける。
第三段階は『取引』です。延命への取引とありますが、私にはとても深淵で簡単に言葉で理解をほのめかす事ができません。
そして第四段階は『抑うつ』、取引が無駄と認識し、運命の無力さ、失望、絶望に襲われます。
最後に迎えるのが第五段階『受容』です。悲嘆と平行しながらも、自分の死を受け入れ、安らかな死を願う。
そして私たちは、《デカセクシス(Decathexis)》、現世との完全な断絶を自覚し、無への進入に身を委ねるというのです。

小さな子猫カムイが死を迎えるまでの数日間を見守っていて、このプロセスはすべての生き物に当てはまるのだと実感します。
誰かに死を宣言されたわけではないのですが、温厚であったカムイは、重症を負ったその日、私たちに酷く敵意を見せました。そして食べる事も呑む事も眠る事もできず、部屋の隅でただじっとしています。
死を迎える前日には、ノルンや私たちに近づいて、触れ合うとことを許してくれました。
そして《デカセクシス》の時を迎え、静かに横たわり、荘厳に死出の旅に旅立ちました。

そして、小さな子猫カムイは、たとえ絶望に貧しても精気が尽きるまで生き続けなければいけないという、《生命》の本質と、《命》の厳粛さを教えてくれました。

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