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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2012年11月17日土曜日

今日、衆議院が解散しました。


今日、衆議院が解散しました。2009年に民主党が政権を奪取してから三年余り、進歩的革新的と思われた民主党は、実は何も決められない政党であることを露呈し、そして民主党ばかりでなく、自民党もしかりで二大政党が丁々発止で議論を深め国政を前進させるという期待は有名無実と成り果てました。
そして衆議院の解散が決定的となった一昨日から民主党では離党者が相次ぎ、民主党は衆議院において議席の過半数割れになる事態となっています。

今朝の新聞に、ここ10年余りの政党の変遷図がありました。2003年時点で6つであった国政政党は、今朝時点で16、そして夜のニュースで、もっとも新しい政党太陽の党が解党し日本維新の会に合流すると報道されました。
国会議員にとって政党とはなんぞや?といぶかしく思います。
今日の衆議院解散で政界から引退されるベテラン議員の一人が『最近の議員は、義理人情がない』と苦言を述べられていましたが、これもおかしな言い分です。議員間に親分子分があってはならないと思います。
ただ、国会議員それぞれがばらばらに、あるいは好き勝手に活動しても、国政は成り立ちません。ですから政党は存在する、必要であると思うのです。
その政党を簡単に離党する、あるいは解党する、そして結党する、合流するという風潮は、政党政治を愚弄する行為でしかありません。そしてそれこそが、国の主権者である有権者を蔑ろにしている証拠であると思います。

私たち日本には、憲法があります。それは最高規範であり、その是非に異論はあっても、簡単に蔑ろにできない代物でです。そして私たちは憲法が嫌だから,簡単に日本人をやめることもできません。
政党政治で身を成す国会議員にとって、政党は有権者に次いで蔑ろにしてはいけない代物です。政党の公認、あるいは支援によって選挙に立ち、当選のあかつきには政党の一員となって、理念を同じくする同僚議員と活動を共にする。そして真に優秀な一握りの議員が、政党の中心となって政治活動を引っ張り、国政を国を牽引し、その他の議員は、そのリーダーを補佐し、あるいは監査し、政党政治の義務と責任を共に負わなければなりません。政党運営に問題があるから、あるいは選挙に勝てないから離党し、政党政治の義務と責任を放棄するというのは、あるまじき行為だと思います。

国会議員は、自信家、過信家がなるものでしょうか。そして自分ひとりでなれるものなのでしょうか。そんなことは決してあってはならないと思います。剛胆で且つ細心でなければならないし、常に自分を律することができなければいけません。
政に参加するためには清廉潔白でなければなりません。そして同時に有権者に示した約束や政治信条を堅持しなければなりません。
もし有権者に示した約束の一つでも叶わなくなれば、その時点ですぐに不履行の責任をとり議員辞職すべきだと強く思います。そして再度政に参加したければ、あらためて政治信条と有権者への約束を明示し直し、選挙に挑まなければいけないと思います。

いよいよ選挙が始まります。有権者である私たちは、私たち自身が政に参加するという義務と責任を持って、一票を投じなければいけないと強く思います。

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