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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2012年7月15日日曜日

『いじめ』の根源


『いじめ』『いじめる』の意味
特定の人に精神的、肉体的な苦痛を与える行為。
またしばしば、その行為を見てみぬ振りをすることを含めていう。

『いじめる』という行為は、昔からありました。
兄弟の中で、家族の中で、友達の中で、学校の中で、そして社会の中でです。

『いじめる』という行為は、生物の本質ではないかと思うのです。
食うか食われるかという、荒々しい自然環境の中で生きる動物たちは、
敵か味方か、それとも餌か、という緊張状態に常に身を置いて、
そして味方であっても、弱いものは見捨てる、
立場や状況が、まさに生死を左右していたのです。

しかし、私たち人間は、文明を興し、衣食住を作り出し、自分たちを守る術を得ました。
そして人間が持つ身勝手さを押さえつける法を整備し、社会秩序を作りました。
また私たち人間は、文化を興し、感性を磨き、感じる心を高めました。
それは人間に新しい感情、愛を芽生えさせました。
『いじめる者』『いじめられる者』の上に法があり、法を司る者がいて、行き過ぎを留めていました。
また『いじめる者』『いじめられる者』の中の愛が、最後の一線を越えさせない歯止めとなったのです。

『法』は人間が作ります。そして『法を守る』という社会的合意が必要です。
『法』の上に立とうとする人間、もしくは外に出ようとする人間、
そして守らない人間には、『法』は無力です。
また『愛』は育て続けなければなりません。止めれば『愛』は消滅します。

現代の、『法』を無視し『愛』を失った者は、
それでも、『法』や『愛』で守られるのです。
そして『法』や『愛』の庇護のもとで身勝手な行為にふけるのです。
それはまさに暴君です。

行き過ぎた暴君は何をするか?
自分が『法』となり、また自分が『愛』の権化となって、あらゆる生をむさぼります。
刃向かう者の生を奪い、従う者の生を奪い、最後は自らの生を奪います。

私たち人間は、人間社会の中でより有利に生きるために、ある時は他人と協調し、協力し合います。またある時は他人と競争し、奪い奪われる行為を繰り返します。
私たちはまさに人間社会という荒々しい自然環境の中に身を置いているのです。
『いじめ』の根源は、人の根源です。
だからこそ、私たちは、もう一度『法』そして『愛』に立ち戻って
それを社会的合意として何よりも重んじなければいけないと思います。

私たち一人一人が、
『法』そして『愛』を守り育てる者にならなければならない、そう思います。

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