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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年11月26日火曜日

君は「桂枝雀」を知っているか?

日曜日夜、BS朝日で放送された、『君は「桂枝雀」を知っているか?』を観ました。
とても興味深かったのは、枝雀さんの新作落語を共に作られてこられた落語作家小佐田定雄さん、そして本名前田通さんの二人の御子息が語る、枝雀さんの実像です。
そこで語られる実像は、私が抱いていた人物「桂枝雀」と寸分と違わなかった、本当に表裏のない、純粋に笑いというものを求道する万年少年そのものでした。

昭和40年代、桂小米から桂枝雀に襲名したての頃の落語を聴くと、爆笑王の異名を取った後の枝雀落語とはまったく非なる落語であることに驚きます。
「陰」が代名詞に付くほどに、若さの微塵も無い静かで落ち着いた語り口、観客などいないが如くのマイペースさで物語を語っているのです。でもこれはこれでぐいぐいと物語世界に引き込まれてゆくのですから、やはり若い頃からただ者ではなかった事を実感します。

枝雀さんの落語本の中に、いつか師匠米朝さんの艶話「たちきり線香」を演じてみたいと書かれていました。後年の爆笑王となった頃の語り口では想像できない、また若き日の陰な語り口でも想像できない、まったく新しい境地の語り口で、この「たちきれ線香」に向き合おうとされていたのではないか、そう想像します。未知の体験は、未知のまま手の届かぬモノとなりました。

枝雀さんを死に導いた「鬱」という病気について
次男さんが、端的に次の様に話されました。父は、何かの理由が引き金で心の病に陥ったのはなく、突然に「鬱」という病にかかってしまった。それは風邪と同じ、癌と同じ、自分が求めぬままに、病に冒された、と話されました。
ですから、枝雀さんの様な求道者でない、平々凡々と暮らしている者にも「鬱」は訪れます。私がまさにそうでした。突然に、目は見え、耳も聞こえるのに、答が全く探せなくなるのです。話ができなくなるのです。頭が、心が、深いとばりに覆われた様になって、それはとてもひどい閉塞状態です。思考することもできず、人とコミュニケーションをとることもできない、これが鬱の症状です。ですから、改善の兆しが見え始めた時、鬱からのなりふり構わぬ脱出を企てて、極端な行動をとる危険があるのです。枝雀さんは「死ぬ」ことを選択されました。

私は今、「鬱」は脳がかかる風邪ではないかと感じています。ある特殊なウィルスによる風邪です。それ自体、死を招くほどの恐ろしさはないものの、脳内の情報伝達を阻害します。ですから、見聞きしてもそれが次の思考に繋がらないのです。
ですが「鬱」は、必ず治る病気であるとも感じています。そのための第一歩は、脳内の情報伝達を活性化することです。人間には五感があります。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚です。これらを総動員して脳に刺激を与え、情報伝達を活性化するのです。脳が活性化すれば思考が戻ります。それが自律を取り戻し、危険のない快方へと導く、と想像します。
もう一つは、体を疲れさせることです。できれば心地よい疲れを与えるのです。体が心底疲れれば、深い睡眠に陥ります。その一時期は余計な不安は一切脳から切り離されて、脳は体の快方に全力を注ぎます。この心身が一致した状態こそが、私たちの理想な健康状態だと想像します。
私は現在、長歩きに親しんでいますが、この歩くという行為こそ、「脳内の情報伝達を活性化する」、そして「心地よい疲れ」を得る「鬱」の特効薬だと実感します。

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