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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年11月4日月曜日

プロフェッショナルの矜持

先日の読売新聞朝刊のコラム「編集手帳」に、西洋ジョークが書いてありました。
「ボーイ君、これは仔牛の肉かね?それとも、普通の牛肉かね?」
「区別がおつきになりませんか?」
「うん、つかないなあ」
「それなら、どっちだっていいじゃありませんか」。
一見、仔牛か普通の牛肉かも自分では判断できない食事客への辛辣な皮肉にきこえますが、見方を変えれば、仔牛か普通の牛肉かなどどうでもいいほどいつでも最高に美味しい料理を提供できる料理人の矜持を感じます。

大好きな上方落語の演目「宿屋敵」の導入部に次の語りがあります。
兵庫辺りの若い衆三人連れが伊勢参りの帰り、大阪は日本橋の宿屋紀州屋源助に宿泊し、さっそくさけさかなを注文する行です。
「酒肴用意してんか。言ぅとくで、兵庫には灘ちゅうて日本一の酒どころがあんねんで、おかしな酒もって来やがったら承知せんねんで。」
「滅相な、何をおっしゃいますやら。手前ども上酒を吟味いたしておりますので」
「上酒けっこぉ。それから肴、これも言ぅとくで、明石の浦のいっちゃ活け、年中活きた鯛食ぅてんよってね、おかしな肴もって来やがったら承知せんで、と言ぃたいところやけど、兵庫に比べると大阪はどぉしても魚は落ちる。そこは庖丁、腕の方で食わしてもらお。」
短い会話の中に、腕で食わしてみい、喜ばせてみいといういう客の心意気を感じます。言い換えれば、必ずうまいもん食わしてくれるという料理人への期待を感じます。

昨今そこらじゅうで表沙汰になるメニュー偽装騒ぎを見る度、プロフェッショナルとされる者の矜持の失墜と、プロフェッショナルに対する私たちの尊敬、期待、憧れが失われていく寂しさを覚えます。驕り、慢心、虚栄だけでは言い尽くせない、人のもっとも大切な物が失われていく寂しさです。

コングロマリット、多業種間にまたがる巨大企業の成立によって、これまで叶わなかったことが、どんどんと実現されています。料理の世界もそうです。物流と冷凍技術の進化によって地産地消の概念は失われ、消費のあるところに食材が集約する様になりました。しかし同時に、巨大企業を維持する為、指針はどんどんと狭められ、いまや利益至上主義、そしてブランド至上主義が尖鋭化し、本来企業が守らなければならない従業員、顧客、地域社会に対する信条は、形ばかり、マニュアル化された人間味の無いものと化しました。

ですが、プロフェッショナルの矜持、そして私たちの尊敬、期待、憧れを取り戻すことは簡単です。たった一行の呪文を唱えるだけです。それは

「目の前のお客様に心を尽くす。そして、私たちは心尽くしを感謝して頂く。」
です。

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