仏教学者ひろさちやさん(本名:増原良彦さん 1936/7/27-2022/4/7)が著された随筆集「世捨て人のすすめ」の中に、「お互いさまの意識」というお話しがあります。
ひろさちやさんは昔、奥さんとヨルダンの首都アンマンでタクシーに乗った時、妻は後部座席に座れたのに、私は運転手から「お前はここだ」と助手席に座るよう促され助手席に座らされた。何故? と訊ねても、言葉が通じず理由を理解することが出来なかったけれど、後で現地に滞在する日本人の商社マンから、その理由を教わりました。
「要するに、友だち感覚なんですよ……」
われわれ日本人は、乗客はお客さんだと思っています。そうすると、タクシーの運転手は使用人か、下手をすると召使いになってしまいます。「それはおかしい」というのがヨルダン人の考え方なんです。人間はみんな友だち・仲間なんだ。だからタクシーに乗れば、友だちに車を乗せてもらい、友だちが運転してくれるのだ。そういう意識からできた風習のようです。もちろん、運転手は料金を請求しますよ。それはそれ、これはこれ、なんですね。
私たち日本人は、乗客が運転手を雇っている気でいますが、それよりはヨルダン人の考え方の方がよほど美しいと思います。
そして、ひろさちやさんは、昔は日本人も美しい心、『お互いさま意識(売り手も買い手もみんなが、お互いが同じ立場にあるという意識)』を持っていた。けれども現在の日本人は、『消費者は王様』という意識に囚われて、美しい心を失ってしまった。何故に失ったか? わたしたちみんなが『拝金主義者』になったからだと思います、と理由を述べられた上で、でも、これは馬鹿げた考え、間違った考えであると気付くことが出来れば、もう少しはマシな日本になりそうです、と締めくくられていました。
先日、東京都教育委員会から学校向け保護者対応ガイドラインの骨子案を公表した、とニュースが伝えた内容には、呆れ返るほどの驚きがありました。
東京都が4月、顧客の暴言や不当な要求から就業者を守るカスタマーハラスメント(顧客という立場で行う嫌がらせ)防止条例を施行。都の教育委員会は、保護者による教員への不当要求もカスタマーハラスメント防止条例が防止を目的とする行為に該当すると定め、保護者の暴言や中傷、理不尽な欲求から教員を守るガイドラインの骨子案を公表したという内容です。
日本では、何か問題が生じれば「とりあえず頭を下げて謝罪する」が礼儀で、そこから問題解決の話し合いが始まります。だから、訴えられた方に非がなくても、謝罪から始まるために、非があっても先に訴えた方が勝ちと云う本末転倒のことが起こってしまいます。そして、謝罪する方は、上司が店が会社が、「まず謝罪しなさい」と指示するから、とりあえず謝る、ひたすら謝るのです。問題を解決するのは自分ではないのです。理不尽ですね、うっぷんばかりが溜まります。そしてそのうっぷんは、どこかで顧客の立場に変わった自分が、見ず知らずの誰かに同じ行為を行って晴らすのです。まるで不幸の手紙というか、悪意のたすき渡しというか、非常に無意味で虚しい愚かしい行為だと思います。
そもそも、学校、義務教育を受けるための学校や、将来に何ものかになるために知識や技術を学ぶために自ら入った学校の、生徒や学生、そしてその保護者は、顧客でしょうか? 顧客と見なすのは正しいことなのでしょうか? こんな初歩的な当たり前過ぎて考えもしなかった事を、賢い頭でひねり出し、顧客と認定してしまう。
私たち日本の世の価値観というものが、私たちの子供の頃から、大きく乖離してしまった事の、一現象なのでしょうね。国民を導く、指導する役割を担う人たちまでも、ひろさちやさんが指摘された「消費者は王様」意識に毒されてしまっているんか、と天を仰いでしまいます。
昔のヨルダンの人が持っていた「友だち感覚」は、ちょっとニッポン的な礼節の感覚では行き過ぎの感はありますね。教師や師匠、或いは公共の福祉・教育に携わる人たちへは日頃から感謝の気持ちを忘れずに、相応の礼儀で接するのが、心美しい日本人の取るべき行動だと思います。そして保護者は、互いに社会で役割を分担している同士、互いに助け合っている同士、という「お互いさまの意識」を持てば、思い出せば、そして我が身に照らせば、教師に暴言を吐いたり中傷したり理不尽な欲求をすることが、どんなに情けないことか惨めなことかを心から感じ取ることができるのではないかと思います。
そうでなければ、どこからか破れ傘刀舟がやって来て『許せねぇ! てめえら人間じゃねえや! 叩っ斬ってやる!』とお仕置きされる、かもしれませんよ。
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