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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年9月3日火曜日

今週の八重の桜、「襄のプロポーズ」でドラマは大きな転換期を迎えました。

今週の八重の桜、「襄のプロポーズ」でドラマは大きな転換期を迎えました。

八重に、尚之助の悲報が届きます。
悲運に暮れる八重を、新島襄は八重の弟三郎が戦死した野辺に誘い出します。そして、
「悲運に暮れていては大切な人たちは浮かばれない、
あなたが耳を傾ければ、心をひらけば、あなたのそばで、あなたを見守っている大切な人たちの言葉が、あなたに語りかけるだろう。」
と話します。
八重は、新島襄とともに野辺に手を置きます。手に温もりが伝わります。そして
-あなたは、新しい時代を生きる人だ-
という尚之助の言葉が届きます。
八重の心に光が灯ります。そして、この京都で、あたらしい伴侶を得て、新しい時代を歩む決心をします。

今週のドラマで、とくに印象的なセリフが二つありました。
ともに山本覚馬が新島襄に、川崎尚之助の悲劇を語る場面からです。

ひとつは、覚馬が尚之助の悲劇を語るセリフです。
「尚之助は病に斃れたんではねぇ
このいくさで死んだんだ
ゆっくりと時をかけた戦死だ。」
あらためて、戦争というものが、重く深い不幸をいつまでも残すことを、思い知らされる言葉となりました。日本で行われた戦争、世界中で行われた戦争、そして今日まさに始まらんとする戦争の全てが、不幸の種を残します。

そしてもう一つは、尚之助が書き残した『会津戦記』を読み終えた新島襄が、覚馬に感慨を伝えるセリフです。
「なんて力強い字だ
死を目前にした人のどこにこんな力が・・・
最後の一文字まで気迫がこもっています。」
尚之助が会津戦記に記した文字のひとつ一つには、一筆が真剣であるかのような気迫が込められていました。やり直しの利かぬ真剣勝負の後でした。
『字は体を現す』という言葉があります。ですが私は、これまで毛筆はおろかペンで字を書くことさえ疎かにしてきました。ですから自ら筆記用具を手にして文字を書くことがとても苦手で、書いてもくしゃくしゃの字でしか文字を書くことができません。ですから字に体を現すことができないのです。(いや、これこそが私の体なのかもしれません)。
丁寧に字を書く人、美しい字を書く人、そして気迫がこもる字を書く人は、私の憧れです。
現在の私は、長年使ってきたワープロを駆使して、頭で練った言葉をキーボードでとんどんと文章に置き換えます。そして画面に表示された文章を何度も推敲しながら、形を整えていくのです。メールの文章も、このブログの文章も、Facebook の書き込みであっても、推敲を重ねなければ、恐ろしくて世に出すことなどできません。
ですが、出来上がった文章は、デジタルのテキスト文字の羅列であって、ひとめ見ただけでは無味乾燥でしかありません。そして私は、いまだ字で、体を現すことができないのです。

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