NHK大河ドラマ『八重の桜』、第二部会津戦争の段が烈しいですね。
今『八重の桜』を見始めた当初は、大好きな綾瀬はるかさん扮する会津のジャンヌ・ダルク山本八重の活躍を純粋に楽しみにしていましたが、いざ会津戦争の段に入ると、これほどまでに会津戦争が凄惨であったのかを見、毎回重い気持ちになります。
司馬遼太郎『竜馬がゆく』では、京都守護職に任ぜられた会津藩の本陣を魔窟と表現し、会津候松平容保は尊皇攘夷派の志士達を血祭りにする暴君と表現されていました。しかし幕末にあって、会津藩がそこまで幕府に忠義立てしたのは、藩祖が家康の直系で幕府を支える事が藩命であった事、また『ならぬことはならん』という藩是です。
そして大政奉還以後も、他藩が徳川幕府を見限り、徳川幕府が崩れゆく中でも、幕府への忠義立てを貫いた。それが新政府の怒りの矛先となった。
“盲信”、会津藩の忠義は盲信であったと思います。会津藩は何に忠義を示そうとしたのか?それは虚構となった徳川幕府であり、形骸化した藩是です。
一国の藩主が、藩士達が一番に守らなければならないのは、領民であり、家族であり、そして領土です。しかし会津藩は、盲信のために、それらすべてを道連れにしようとした。そして武士の世界でも決してやってはならぬこと、女や子供を戦地に駆り立てた。
盲信に駆り立てられて武器を持ち戦場を駆け回る女や子供の風景や、会津藩家老西郷頼母の母や妻子の一家21名が集団自決する風景は、凄惨の極みです。
そんな狂気が渦巻く会津にあって、西田敏行演じる西郷頼母が、生きて会津を守ろうとした心意気には、とても心が救われる思いがしました。盲信や狂気が支配する中でも、たとえその時は叶わなくても、ひとりでも人としての本道を見失わない者がいた。人が人間であり続ける心の松明は決して消える事はない、そして神は人を救済する道を決して閉ざされる事はない、そう思えた事が救いでした。
ドラマ『八重の桜』は、会津戦争終結を迎え、第三部が始まります。『八重の桜』関連本や新島八重(山本八重)関連本は多数出ていますが、いまだ一冊も読んでいません。この先、八重さんがどの様にして新島襄と出会い、明治を生きていくのか、八重さんとともに近代日本の黎明期を見つめていきたいと思います。
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