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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2025年6月26日木曜日

個人的なことは政治的なこと

さんざ散らかりまくっていた机の上を片付けていると、一枚のメモ書きが出て来ました。
再来年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主人公小栗忠順を演じる松坂桃李さんが主演したドラマ日曜劇場『御上先生』の台詞を聞き取り走り書きしたものでした。

Google検索で 〈御上先生 心に残る台詞〉で検索すると、『ドラマ【御上先生】名台詞集』というタイトルのページがヒットしました。

ドラマ【御上先生】名台詞集

その台詞の中で、特に響いた台詞の箇所を あらためてここに書き記します。

個人的なことは政治的なこと The personal is political.
「言ったよね、エリートは神に選ばれた人だと。
なぜ選ばれるのか。
それは普通の人間なら負けてしまう様な欲やエゴに打ち勝てる人だから。
自分の利益のためではなく他者や物事のために尽くせる人だから。
僕はそこに付け加えたい。
真のエリートが寄り添うべき他者とは、つまり弱者のことだ。」

※キャロル・ハニッシュの言葉から
「個人的な問題は政治的な問題ということである。そこでは個人的な解決というものは存在しない。集団的な解決に向けた集団的な行動があるのみである。」

答えの出ない質問
「答えの出ない質問がこの世には沢山ある。禿鷲と少女。貧困とテロ。安楽死。それを考え続けることは、ものすごくキツいことだよね。考えるっていうのは、答えを出すためのものじゃない。考えても考えても答えが出ないことを、投げ出さずに考え続ける力のことだ。考えて」

近代デモクラシーは、デモクラシー国家の国民一人ひとりが
①政治的自由(Political freedom):自由で公正な普通選挙、公職への立候補、政党への参加などを含む政治過程への参加の自由など
②市民的自由(Civil liberties):表現・信仰・結社の自由、法の支配、個人の自律など
を持つことを保証する制度です。差別や独裁にデモクラシーが冒されぬように、監視し、制度を強化し、持続しなければなりません。しかし、これらすべての行動も、私たち国民一人ひとりが本来背負わなければならないものです。
ですから、私たち市井の国民はともすれば政治的なことはエリート任せにしてしまいがちですが、そうではなくて自分の問題として、もっと責任をもって、答えの出ない質問に向き合わなければならないのだと、この御上先生の台詞を聞いて、見て、考えさせられました。

2025年6月24日火曜日

誰か故郷を想わざる

誰か故郷を想わざる


花摘む野辺に 陽は落ちて

みんなで肩を 組みながら

歌を歌った 帰り道

幼なじみの あの友この友

ああ誰か故郷を 想わざる


ひとりの姉が 嫁ぐ夜に

小川の岸で 淋しさに

泣いた涙の 懐かしさ

幼なじみの あの山この川

ああ誰か故郷を 想わざる


都に雨の 降る夜は

涙に胸も 湿りがち

遠く呼ぶのは 誰の声

幼なじみの あの夢この夢

ああ誰か故郷を 想わざる


母が寝たきり状態になってからは、毎朝 母の枕元で般若心経と曹洞宗の経典修証義、そして新約聖書マタイの福音書第4章から第6章を諷誦しました。その後に歌を歌いました。母は歌が好きでしたので、私に取っては懐メロ、母にとっては青春時代の流行歌であったであろう歌を歌いました。特に母に思いを込めて歌った歌があります。それが「誰か故郷を想わざる」でした。

この歌は昭和15年の流行歌です。日本から遠く離れた戦地の兵士の間で、望郷の念に刺さる歌として大ヒットしたそうです。母は15歳でした。飾磨という海ベに近い町で、三男五女の兄弟姉妹の五女として大家族に囲まれ、生涯の友となる女友だちとともに青春時代を過ごしていたのだと思います。その大好きな家族も大好きな友だちも、みんな既に彼岸の向こうに旅立って、母はひとり残されていました。そんな母に、この歌が少しでも慰めになればと思ったのです。

2025年6月23日月曜日

呆けても呆けてもいんだから

 梅雨入りで雨模様が続く予報があった中での会葬となりましたが 晴れ女の面目躍如たるものなのでしょうか 空は見事に晴れ渡り 夏空の下で会葬を行う事が出来ました

昨年秋口から発熱などで体調を崩すことが多くなりまして それからは訪問診療や訪問看護のサービスも利用しながら 少しでも長く健康でいてくれるように 介助や見守りを続けてきました しかし老衰により心不全の症状が悪化していき 今年の三月三日を境に完全な寝たきり状態となりました 点滴が出来ない為に 吸い飲み器で誤嚥せぬ様ゆっくりと水分を口から与えることしかできなくなりました そんな家族の無念さや不安は 母が時間を掛けて癒やしてくれたように思います 以後三ヶ月の間 苦しむ素振りは一度もなく 清拭などの介助も効いたのか床擦れなどが悪化することもなく穏やかに生き続けてくれました

亡くなる一週間前から咽下することが難しくなって スポンジで口元を濡らすことしかできなくなりました そんな風にして命が尽きていく姿をゆっくりとしっかりと私たち家族に見せてくれました

そして令和七年六月十四日早朝二時十五分ごろ 水滴が落ちるようにスッと自ら目を閉じ逝きました 享年百一歳の生涯を閉じました

寝たきりになるまでは 如何にかこうにか 椅子に座って食事を食べさせたり テレビを一緒に見る事も出来ました 訪問看護師は母が背もたれに寄りかからず背筋を伸ばして座る姿勢のあまりの良さにいつも感心していました 昨年の秋口のことですが 診療所でレントゲン写真を取った際 母はひとりで感光版を背にして丸椅子に座ったのですが その姿を見ていた看護師たちが 「お地蔵さま」みたいと愛おしく話していたことを思い出します

母の口癖は「呆けても呆けてもいんだから」でした

認知症状が進み 自分がどこにいるのか 回りの者は誰なのか 分からなくなり始めた時は 不安を口にすることもありました でもこの言葉が口癖となってからは 不安な心も安らいだように思います

じゃんけんをすれば後出しで「勝った」とうそぶき 指を折っての足し算には一生懸命考えて答えてくれました 最後の最後まで家族を楽しませてくれた母でした


2025年6月14日土曜日

母郁子が、今朝2時15分頃に永眠しました。

夜半から母が横たわる介護ベッドの側で見守っていた姉は、その瞬間の様子を、水がすっと落ちるが如く、また鹿威しが水が満ちてコツンと切りの良い音を立てるが如く、瞬間にスッと目を閉じ、それに呼応するように、胸のかすかに続いていた揺れも止まったとその情景を描写しました。すぐに家族は銘々の部屋から母が眠る部屋に集まり、姉の描写を聞いて、良い最後の時を、母の旅立ちを感謝し、喜び、安堵しました。

1925年、大正14年7月28日生まれの母郁子は、享年百一歳、満年齢では百歳に一ヶ月ちょっと足らない99歳の大往生を遂げました。

 

2025年6月13日金曜日

人はパンのみにあらず

3月3日、誤嚥からの発熱と重篤さを増した心不全症状により、完全寝たきりで水分補給しか出来なくなった母ですが、奇跡的にとでも云うか、誤嚥が引き起こした諸症状は治まって、そして比較的安定した状態で3ヶ月間を過ごして来ました。
しかし、日曜日の夜に衰弱が一段進み、頼みの綱であった水分補給が難しくなりました。そして五日が経過しました。
火曜日に母の様子を見に来て下さった訪問診療の医師から、次回の定期訪問日の予定日である16日を迎えることは厳しいと話を伺っていましたので、いよいよかと云う気持ちで、母を今見守っています。
「人はパンのみにあらず」という言葉は、キリスト・イエスが山頂の垂訓として弟子たちに語られた御言葉の一節ですが、この御言葉の意味を、この数日で私は母から気付かされました。
この五日間、スポンジで口元を湿らせる程度しか出来ていませんが、その分というか、私が大切に思う聖書の箇所や曹洞宗の教文などを繰り返し母に声を出して届けています。妻も同じように母に御言葉を届けてくれています。
この言葉が、母の命の火を灯し続ける糧となっているのだと、母を見て本当に実感します。

2025年6月3日火曜日

齊藤元彦知事の大罪

一人の県職員による齊藤元彦知事に関わる問題・疑惑の外部通報、あわせて県の窓口への公益通報から始まる、兵庫県行政のごたごたは、それを調査して評価した百条委員会、及び兵庫県の第三者委員会が、概ね一部の疑惑をあったと認定したことで、それを受けた齊藤元彦知事がどう身を処するのかを注目していたが、予想通りというか、知事側の弁護士の法解釈を述べて、法律に照らし合わせても判断が分かれるところと他人事の様な感想を述べるに留まり、自分は県民の負託を受けた身分であることを強調し、県政を前に進めるという毎度のフレーズを繰り返すだけでした。

冷静にこの問題・疑惑を眺めてみると、特に通報者を特定するために行った通信の秘匿や個人情報を暴くという行為や、その通報者や知事側と対峙する議員たちの個人情報や真偽不明な疑惑を知事側と通じる県議が秘かに外部の扇動政治家に流して、公共に晒すという行為は、個人の人権を守らず危険に晒す行為であって、これだけでも十分に憲法に違反する大罪だと私は考えます。

そして、もう一つの大罪があると考えます。それは、兵庫県行政に相互不信を蔓延させた上に、県民を大きく分断した事です。

兵庫県の県職員はまるで戦時中の全体主義に統制されているかの様に、密告を恐れて、知事一派に不利な意見を公にすることが出来ないように見えるし、県議に至っては百条委員会の非公開の議論の場での発言が、秘密録音され、切り取られた音声がネットで拡散されて、不特定多数からの誹謗中傷に晒され、一人の議員が自死に至るという最悪の事態までが起きて、議員同士の不信感が蔓延し、議会が機能不全に陥ってしまっているのではと想像します。

県民といえば、明らかに精神医学でいうところの「考えを誘導する」という高等なテクニックによって、思考が「齊藤元彦知事を応援する」に誘導されたのだと考えます。その手法はYouTubeやSNSのメッセージを利用して、通報した職員や知事に対峙する県議の悪評を、不特定多数の人々に際限なく送り続けるというものです。そして、その中に、デマを拡散する者を紛れ込ませて、扇動政治家が大々的に糾弾するキャンペーンを行うのです。それによって人々の潜在意識を刺激し続け、「彼らにとっての都合の良い思考」を人々に植え付けたのだと思います。テレビのニュースや新聞が丹念に調べて記事にしたものを時系列で読み理解すれば、知事側に明らかに不都合があると分かるのですが、そのテレビや新聞までもがネット上でオールドメディアと断罪され、同じように糾弾キャンペーンされるに至り、また長文よりもショートメッセージを好むデジタルネイティブの若者ばかりかデジタルに遅れて参加してきた高齢者までもが、「知事は被害者、可哀想な知事、知事を応援する」という思考に誘導され、一度潜在意識に染み込んだ思考は、対立する思考を受け付けず、それが齊藤元彦知事の再選という結果を招いたのだと考えます。

一言でいえば、非常に悪辣な行為が行われていたと、私は考えます。

但し、既存のマスメディアには十分に反省する点があると考えます。よく音声を変えた県職員のインタビュー音声がニュースなどで流されますが、音声を流すだけで、その音声が語る情報の裏取りがない事です。これでは扇動政治家と同じだと思います。よく「県の中堅や若手の離職の多さ」が語られますが、それが本当ならば、県政にとって大きな損失となるばかりでなく、県民サービスが損なわれる事態が起こるということで、これだけでも知事は辞めなければいけない理由となると考えます。もっと正しく伝えるというジャーナリズムの精神に立ち戻り、しっかりと調査して報道に繋げて欲しいと強く思います。 

2025年5月25日日曜日

キリスト教の素朴な疑問

キリスト教の素朴な疑問の一つが、何故に世界宗教へと歩み出したのか、という事です。そこで、あらためて『ヨハネの福音書』から聖書を読み進め、疑問の答えを探すことにしました。

ナザレのイエスは、安息日であっても救いを求めて訪ねてくるユダヤ社会で救われぬ人々を神の業で癒やし、また彼らに福音を宣べ伝えていきました。ユダヤ人社会の権威主義者や厳格な戒律主義者は、このイエスの行為が到底承服できず、恐れ憎しみ、遂には罪を着せローマの総督に訴えて死罪に処すか、或いは暗殺を企てるようになりました。

イエスは前者の策謀により十字架の磔刑に処せられますが、三日目に復活され、イエスが選ばれた使徒の前に現れ、そして使徒たちに精霊のバプテスマを授け、福音を宣べ伝える使命を与えます。また使徒の他に、イエスや使徒を迫害する者の尖兵であったギリシャ語の堪能なサウロ(ギリシャ語ではパウロ)を聖別し、ローマが支配する全域に福音を宣べ伝える使命を与えます。『使徒の働き』は、イエスから福音を宣べ伝える使命を与えられた使徒、そしてパウロの働きの行動記録が記されていました。彼らの艱難は、異邦人からではなく、常に彼らを憎み殺害も辞さないユダヤ人からもたらされたものでした。


使徒の働き10章34

そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりとわかりました。神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を畏れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」


使徒の働き13章46-47

そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神の言葉は、まずあなた方に語られなければならなかったのです。しかし、あなた方はそれを拒んで、自分自身を永遠の命にふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これから異邦人の方へ向かいます。

なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」


使徒の働き28章26-28

『この民のところに行って、告げよ。あなた方は確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見て入るが、決して分からない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、私に癒やされることの無いからである。』

ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。


ローマ人への手紙1章29-32

彼らは、あらゆる不義と悪と貪りと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事を企む者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけで無く、それを行う者に心から同意しているのです。


使徒たちやパウロなどイエスから使命を受けた人たちは、常に彼らを迫害するユダヤ人から命を狙われる危険を背にしながら、精霊の見守りによって命が尽きるまで使命を果たしました。それが、イエスの福音が世界に宣べ伝えられ、現在の世界宗教キリスト教の礎となったのだと理解しました。

また、使徒の艱難の記録から、人種でもなく宗教でもなく、権威や自らの主義に固執する者、また欲に支配される者が、この人間世界を危機に陥れる元凶であること、現在にも通じる元凶であることを理解しました。