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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2012年8月3日金曜日

本当の『未来への責任』


町歩きをしていますとさまざま情報が目に留まります。
そして最近特に気に障るのが国会議員のポスターに添えられた文句です。
民主党議員も自民党議員も、顔写真に添えられている文句が
『未来への責任』
なのです。

『未来への責任』
とてもシンボリックな物言いです。
国会議員には自惚れのなにものでもない、心地よいアドバルーンなのかもしれません。
『未来への責任』というならば、
これまでご自分がやって来た(もしくは何もやって来なかった)事柄の責任にまず清く向き合ってほしいと思います。

国会議員それぞれは、公約を唱え選挙を経て、公約を実現する責務を与えられました。
血税を報酬とした大いなる仕事が与えられたのです。
仕事には、明示的なPDCAサイクルが必要です。そして雇い主への報告・連絡・相談の義務も発生します。
そして、何より期日には成果を示さなければなりません。
それができなければ、その責任を清くとらなければなりません。
その清い行動こそが、『未来への責任』の第一歩だと思います。

そして彼らに仕事を与えた私達国民も『未来への責任』を果たさなければなりません。
自分ができないから、不誠実さに寛容になるのは、無責任のなにものでもありません。
たとえ自分ができなくとも、不誠実さは厳しく咎め、誠実さにこそ寛容になるという責務を果たさなければなりません。

ある国会議員のホームページに『未来への責任』というタイトルの記事がありました。
そのシンボリックな記事を読むと
現在の政治の混乱は与党の体たらくと、ある大物国会議員の不誠実さが原因であるとして、国政運営の障害とならないようにしかるべき行動をなすべきだろうと締めくくられ、それが『未来への責任』だと述べられていました。
あまりに評論的で、自らの意思や行動はまったく書かれていませんでした。
現在の政治屋が言う
『未来への責任』はこの程度のものかという、げんなり感を覚えました。

『未来への責任』というキャッチコピーはいつ頃から使われ出したのでしょうか?
日本おいては、3.11の大地震が招いた未曾有の破壊と、そして原子力の安全神話が崩れたことが発端であるとは思います。
世界に目を向ければ、2009年イタリア・ラクイラで開催されたG8サミットの宣言文のタイトルが
『持続可能な未来に向けた責任あるリーダーシップ』でした。
 その宣言文では特に、
『持続可能な成長』という文言が目に付きました。
『もしも地球が100人の村だったら』というある事柄を示唆した文書があります。
人種、経済状態、政治体制、宗教などの差異に関する比率を描いた文書ですが、もう一つ、『世界は有限である』ことを示唆する文書であるとも思います。
この地球にあるものはすべて有限、という事柄に私達はもっと正直にならなければなりません。資源や食料だけでなく、経済活動に必要な消費も雇用もそうです、有限です。いや実際は縮小しているかもしれません。

『持続可能な成長』という文句も、とても心地よいアドバルーンです。
 しかし、『持続可能な成長』というキャッチフレーズは支配者の押しつけであり、搾取者の大義名分でしかないことに気がつかなければなりません。

有限なる地球に正直に向き合って、すべての人々がともに尊重し合って、協力し合って生きていく、その道筋を示すことが、本当の『未来への責任』であると思います。

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