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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2014年8月20日水曜日

本当の戦争の話をしよう

「本当の戦争の話をしよう」(ティム・オブライエン著、村上春樹訳)を読んでいます。
淡々とベトナム戦争に出兵した若き兵士達の物語が綴られています。
まだ読み始めたばかりですが、若き兵士が二人死にました。唐突に、そしてあっけなく。
死んだ兵士の亡骸は、ヘリコプターに運ばれて戦地を離れます。けれど生き抜いた兵士は、さらに奧への行軍が続きます。

奧とはどこか?本の言葉を借りるなら、そこはおぞましい行為が行われるところです。
兵士達は、日中、奧に続く道なき道を行軍し、夕方生き残ったものはたこつぼ(一人用壕)に入り、順番に見張りをしながら休みます。

7話「本当の戦争の話をしよう」では、小休止中に一人の兵士が死にました。
カート・レモンは友だちのラット・カイリーと手榴弾でキャッチボールをしていた最中、ブービートラップ(仕掛け爆弾)を踏んづけて閃光に引き裂かれたように粉々になりました。沈む部隊、落ち込むラット・カイリーの前に一頭の子牛が現れます。
カイリーは、子牛に缶詰の食料を与えようとしますが、子牛は見向きもしません。
カイリーは、缶詰を置き、銃に手をかけ、膝に向かって弾丸を放ちます。さらに耳を吹き飛ばし、脇腹を撃ち、下あごを吹き飛ばし、最後は銃をオートマテックにして子牛に向かって弾丸を乱射しました。他の兵士達は、遠巻きに、カイリーの身の毛もよだつ行為を眺め、それが終わると、虫の息の子牛を古井戸の中に放り込みました。
この行を読んでいて、映画「地獄の黙示録」のクライマックスシーンが甦りました。
縄で縛られた水牛が、息絶えるまで、何度も長刀で刻まれるのです。それはカーツ大佐の最後を物語っていました。
そしてもう一度、文面に戻ります。そして子牛を一人のベトナム兵、もしくは迷い込んだベトナムの少年、と読み替えてみます。

ティム・オブライエンは、兵士の一人、ミッチェル・サンダースの口を借り戦争について語ります。

以下本文抜粋---
戦争は決して晴れることのない深く不気味な灰色の如きものである。
彼らはそれを精神的な感触として知る。
そこには明確なものは何ひとつとしてないのだ。
何もかもがぐるぐると渦を巻いて見える。
旧来の規則はもうその効力を失っている。
旧来の真理はもはや真理ではない。
誤ったものの中に正しきものがどくどくと注ぎ込まれている。
カオスの中に秩序が混ざり込んでいる。
憎しみの中に愛が、美の中に醜さが、アナーキーの中に法が、野蛮の中に文明が。
霧は君をすっぽりと呑み込んでしまう。
自分だ何処にいるのか、何故そこにいるのか、君にはわからない。
ただひとつはっきりとわかるのは、どこまで行っても解かれることのないその二重性だけだ。
戦争において君は明確に物事を捉えるという感覚を、失っていく。
そしてそれにつれて何が真実かという感覚そのものが失われていく。
だからこう言ってしまっていいと思う。
本当の戦争の話の中には絶対的真実というものはまず存在しないのだと。
以上抜粋---

教育を受け、愛を知り、道徳を実践する文明人が、一番恐れることはなにか?について考えて見ました。そして思い浮かんだのは
「心の奥底に封印されていたおぞましき悪意が、表に出て自分を侵食していくこと」
という考えです。
そして、心の奥底でおぞましき悪意を封印したパンドラの箱をこじ開ける鍵こそ、戦争だと思うのです。

69年前に終わった戦争で、生き残った兵士達の脳裏には、おぞましき風景が焼き付いていたことと察します。それは身を焼き尽くすほどの業火であったのではとも察します。
それでも生き残った兵士は、農夫となり、工員となり、商人となって、この国の復興のために心血を注いで働いて下さいました。平和な国を作るために働いて下さいました。
そして今、私たちの国はあるのだと思うのです。

生き残った元兵士達が、作られたのは平和な国「日本」です。世界中のどこにもない、世界にひとつだけの戦争を放棄した国「日本」です。いまさらどこにでもある国になる必要がどこにあるのか、と思います。

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