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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年4月24日水曜日

躾と道徳


今年の大河ドラマ『八重の桜』は、会津に今も生きる《什の掟》を日本全国に知らしめました。

《会津藩校日新館 什の掟-ならぬことはならぬものです-》
http://www.nisshinkan.jp/about/juu

「このように、しなければならない。これは、してはならない。」
これこそ真に躾です。
躾、辞書には
『子供などに礼儀作法を教えて身につけさせること。また、身についた礼儀作法』
とあります。平たく言えば、美しく振る舞う、もしくは相手を心地よくさせる所作を身に着けさせることです。しかしそれは、真白な大理石に古来からの美しき文様を狂いなく刻み込む様に、一分の隙があってはならない。ですから、躾には、師弟共に真摯さ、そして厳しさがなければなりません。

道徳、辞書には
『ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの』
とあります。
道徳は、躾の様に直線的ではなく、歴史や伝記、故事成語、あるいは聖句などから喩えを引用して真の良き道、徳のある道を学ぶ事です。ですから、『道徳』(あるいは徳学)は、師弟共に学び、問答し続けなければなりません。

最近、『道徳の死』を予見するニュースを見ました。それは
私が小学生の頃、どこの小学校にも一番目立つところにあった二宮尊徳像が消えつつあるというニュースです。
少年金治郎が、薪を背負い、本を読みながら歩く姿の銅像です。この二宮尊徳の勤勉を讃える銅像が、「歩き読みは危ないではないか」という意見から、教育上宜しくないと言うことになって撤去されているのです。現代の乾いた発想が、歴史や伝記が揺り起こそうとする道徳心をあっさりと切り落としていく様を見た思いがしました。
少年金治郎が生きた時代に、風景に、野の道に、そして澄み切った空気に、心を馳せる事ができなくなった現代人の、想像力の貧弱さを悲しく思うと同時に、あらためて、躾と道徳を、私たちは取り戻さなければならないと、強く思いました。

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