写経を続けてきて、気づいたことがあります。
初めは集中力が続かず、まともに文字を写し書きすることもできませんでした。ふとやってみようと始めたものの、ただただ己のダメダメ加減が、乱れた文字として記録されていくだけに思えました。
でも、とにかく集中力が途切れても、誤字脱字、書き損じが甚だしくても、誰に咎められるようなものではないし、とりあえず怯まず、間違いはそのまま残して、間違った所から再度書き進めて、最後まで書き終える様にしました。
それを毎日、欠かさず続けているうちに、一切の誤字脱字、書き損じをせずに書き終えることが出来た日が来ました。それからまた、毎日、欠かさず続けているうちに、教本を開かず、記憶を辿りながら書き終える日が来ました。『摩訶般若波羅蜜多心経』の経文266文字の中で、一つ二つ、美しく思える文字を描けた日もありました。
始めてから半年が経過しますが、書き終えた5冊のノートの頁を捲ると、頁の日の心の有り様が書き文字を通じて甦ってきます。
写経って、自分の心や記憶との対話なんですね。黙想なんです。『摩訶般若波羅蜜多心経』、『本尊回向文』『四弘誓願文』、月命日の日は、これに修証義の『第一章 総序』を加えて写経する、一時間から二時間、対話をする、瞑想するんです。人間の集中力はもって15分程度と云われますが、それよりもさらに長く写経に集中した日もあって、そんな日は、まるで写経をする早朝5時から7時までの清浄された大気の様に、心が清浄された気分になります。
現代の私たちは、なにごとを行うにも、仕事をするにも、スポーツをするのにも対人とのコミュニケーションが必須となり、常に対人に集中力を注いでいます。それだけに留まらず、スマートフォンとSNSが日常生活をすっかり侵食してからは、常にメッセージの応答に心が奪われ、心が安まる時がありません。
『承認欲求』という言葉がありますが、精神的重圧を掛けられる対人に、さらに救いを求めるという螺旋の様な重圧、現代の私たちは追い求めているように思えます。
恐ろしいのは、承認が得られない、或いは承認されない、無視される、といった精神状態に陥った時です。いつでも向き合える筈の自分の心の所在に気付かなければ、対人に求める『承認欲求』を追い求めて、更に辛い重圧に自らを追い込むか、もしくは心の行き場を失って、辛い喪失感に苛まれることになります。最悪は死の危険もあるということです。
それを防ぐ為にも、心を奪われず、己で心を清浄に保てるように、写経の様な、己の心と対話する、瞑想する術を、現代の私たちは見つけ、実践しなければいけないと、非常に強く思います。
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