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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2023年12月31日日曜日

苦痛の淵

 この年の終わりに、ウクライナ人のNHKディレクター、ノヴィッカ・カテリーナさんが制作したセルフドキュメンタリー「私の故郷 ウクライナ」を観ました。

昨年二月にロシアが祖国ウクライナに軍事侵攻を始めてから二回目の秋、今年10月にウクライナに一時帰国し、5年振りに再会した両親や友人、そしてキーウの街角で出会った人々との会話、抱擁を通して、市井の人々の戦争への思い(それは苦痛以外の何ものでも無い)、そして今抱く夢を取材した内容でした。

私は、カテリーナさんが取材した二人の女性の、暗く沈んだ瞳に釘付けになりました。

ひとりは、キーウの街角、これまでの戦闘で戦士した兵士一人一人の写真が飾られた追悼の壁に花を手向けていた若い女性です。彼女の夫はこの壁に写真が飾られていました。

もうひとりの女性は、カテリーナさんの男子同級生のお母さんです。あまり目立つタイプではなった同級生は、自ら祖国を守る戦いに志願し、そしてカテリーナさんが帰国中に戦死し27歳の生涯を閉じました。

二人の女性の暗く沈んだ瞳が見ているものは、夢も、希望も、そして愛しい記憶も、すべて奪われた女性の魂が、沈み堕ちた苦痛の淵の景色、真っ暗な闇なのだと思いました。


ひとりが殺されたら、その人を愛したすべての人、家族、兄弟、連れ合い、子供、友人、恋人が、この女性と同じように、魂が苦痛の淵に沈み堕ち、囚われてしまうのだと思います。ひとりが殺されたら、その数倍の魂が、数十倍の魂が、囚われてしまうのだと思います。

そして、止む事のない苦痛に苛まれ続けた魂は、やがて憎しみの業火に包まれて、憎むべき者を道連れにして焼き滅んでしまうのだと思います。

その不条理な滅びを食い止める為にも、私たちは、この戦争を終わらせる事に積極的に関わり、全身全霊で取り組まなければいけないのだと思います。


私たち人類は、長らく欲望や憎しみの解決手段として戦争をし続けてきました。殺す事、差別する事、奪い取る事が、人間の本性の進歩であると考えていたのです。それは全くの間違いでした。本当の進歩は、人権を守る事、寛容である事、分け合う事、そして連帯する事であると近代になってようやく気付きを得ました。そしてそれからの数世紀で、私たち人類は飛躍的に文明を進歩させて来ました。

しかし、独占する事、奪う事、差別する事でしか欲望を満たせない者が廃れる事はありませんでした。そういう者が、再び力を得て、暴力で主張を誇示する様になってきました。

彼ら力の信奉者は、他人の命の尊さなど露ほどにも思わないでしょう。

私たちは、そういう暗黒面に引きずり込む暴力には屈してはいけないのです。屈してしまえば、私たちは遅かれ早かれ滅んでしまうでしょう。

私たちは生きなければならないのです。そうしなければ私たちの子供や孫に希望のある未来を残す事が出来なくなってしまいます。


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