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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2024年4月28日日曜日

生成AIが日本にやって来る。

世界初のチャットボットを作った人物 ジョセフ・ワイゼンバウムは、かつてこう云ったそうです。

『AIの危険性は、機械の思考が人間じみてくる事よりも、人間の思考が機械じみてくる事にある。』


先日、NHKのBS世界のドキュメンタリーで、2023年にオランダで制作された原題”The Cost of A.I.”を、『生成AIの正体 シリコンバレーが触れたがらない代償』のタイトルで放送されました。多分、見られていない人の方が多いのではないでしょうか。

アメリカのビッグ・テックであるGoogleは1500億ドルを、Microsoftは1000億ドルを、生成AIとデータセンターに投資すると表明しました。そしてアメリカ、イギリスに続く第三の拠点として日本を選び、数千億円を掛けて日本語対応とデータセンターの建設を行うと表明しました。新聞やテレビのニュース記事は、AIも後塵を拝している日本にとって、巻き返しの千載一遇のチャンスと好意的に捉えていました。一人の読者、或いは視聴者である私も、同様に良いニュースと感じていました。

しかし、このドキュメンタリーを観て、私は冷や水を浴びせられました。

私がどんな冷や水を浴びせられたか、ドキュメンタリーの内容をメモしたテキストで感じて頂きたく思います。


the ininvisible 表にでないもの


第一の語り部

メディア研究者で批判的な視点で『地図のないものごとの地図を作る』アーティスト

ヴラダン・ヨーラー

「シリコンバレーの企業は、アルゴリズムやデータセンターなど、表に出さないものは全てクラウドと呼ぶ傾向にあります。これ以上ない軽い言葉です。このクラウドの中でAIにプロンプト(指示、或いは質問、依頼)を与えると、何もないところから生まれ出たかのように結果が現れます。」

「世間でAIと呼ばれる仕組みは、基本的にアルゴリズムとデータに基づいて機能します。大量のデータを処理し、パターンを識別する能力を持っています。但し、AIは何も知りません。物事を知る能力は備えてはいないのです。データの集合体、データセットの中のデータを統計的に反映しているだけに過ぎません。」

Q シリコンバレーの企業が隠したがるもの、彼ら自身のAIを使って可視化したらどうなるでしょうか

「(演算チップの基板となる)シリコンの主要な原料となるのが珪砂と呼ばれる砂です。世界で使われる珪砂のおよそ7割が中国の新疆ウイグル地区にある珪砂鉱山で生産されている。新疆ウイグル地区では珪砂採掘のため強制労働が行われているという報告がある。労働者たちは人里離れた収容所にいるという。それでもAIは彼らの姿を難なく描き出します。」

Q どうしてAIは望み通りの画像を生成できるのでしょうか

「第一段階は、大量のデータを集めるところから始まります。AIに学習させるためのデータセットにするのです。

第二段階は、データの分類です。例えば樹木の画像を生成するAIを作るとします。そのためには何千種類の木の画像を読み込まなければなりません。

そこで必要となるのが、画像を一枚一枚分類する生身の人間です。これは木だ、これは違う、これは何々の種類の木だ、という風にね。裏方の仕事ですが、集中力を要求されます。

こうして整理・分類された何千種類の画像データを基にして樹木の画像を生成するための統計的な仕組みを作り出します。

生成されるのは画像と云うより多次元の統計的な空間です。言い換えるならハルシネーション(Hallucination 幻覚 AIが誤った情報や架空のデータを生成する現象)です。統計が作り出す幻と云えます。」


humanity 人間


第二の語り部

ドイツ ワインゼンバウム研究所

AIの陰で働く人々の労働環境に関する研究を行う社会学者、コンピュータ研究者

ミラグロス・ミセリ

「AIの訓練を行うには、大量のデータが必要です。しかし、分類されていないバラバラのデータを読み込むことはできません。そのためデータの分類を人が手作業で行っていると聞いたのです。驚いた私は知り合いに訊ねました。誰がそんなことをしているのって、すると相手はこんな反応を見せたんです。

確かに、実際に作業している人がいるんだよね。誰がやっているなんて考えたことなかったよって。」

「(「チャットGPT」のようなAIを機能させるには人間が必要?)間違いなく必要です。AIがデータから自動的に学ぶ機械学習も、人間が準備しなければ機能しません。」


コンテンツ・モデレーター 仮名オマル・モーとの音声会話

『コンテンツ・モデレーターの仕事をしています。勤務先は、外部委託の会社です。オマル・モーとは仮の名前です。仕事について公の場で話せば、職を失う事になります。』

Q コンテンツ・モデレーターとは何をする仕事でしょうか?

『たとえばSNSに、ユーザーからの投稿がありますよね。その投稿が「不快なコンテンツ」かどうか私たちがチェックして管理しています。警察みたいなものです。』

Q 不快なコンテンツとはどんなものですか?

『例えば法律に違反するもの、いじめやヘイトスピーチなど。もっとキツいものだと自殺とか児童ポルノとか、テロリストが人の頭を切り落としているような映像もあります。』

Q コンテンツ・モデレーターの仕事はAIとどう関係があるのですか?

『私たちが分類したデータをAIに学習させるのです。データが細かく分類されていると、その分、AIの判断能力も向上します。』

AIにデータを読み込ませるには幾つかの方法があります。

一つは、社内でやってしまうこと。様々なアルゴリズムを設計し、AIを開発するのと同じ場所で行う方法です。でも、こういうケースはさほど多くはありません。

よくあるやり方はアウトソーシング、つまり社外にいる専門の請負業者にそっくり業務委託してしまう方法です。

『私が働く(アウトソーシング)会社には、千名ほどの従業員がいます。学生やドイツ語を話せない人も多く、彼らにとっては慣れ親しんだ言語や英語を使って働ける良い仕事です。

この職を失うと、みんな困ると思います。ドイツでの滞在許可を取り消されるかもしれませんから。』

Q ドイツのパスポートを持っていなくてビザを発給されて滞在している人の割合はどれくらいですか?

『80%か、それ以上でしょうね。私も正確にはわかりません。』

AI関連の企業は、人間の労働者が居ること事態、公にしたがりません。データを処理する労働者の存在を開示せず、彼らがどこでどんな条件の下、どれくらいの報酬で雇われているのかも語ろうとはしないのです。

Q 先ほど、非常に暴力的コンテンツを見ることもあると仰っていましたが、精神的な負担を感じた場合、どの様な心理的サポートを受けることは出来ますか?

『私たちはコンテンツの種類を選べません。ランダムに表示されます。運が悪いと、一日中、首吊り自殺の映像を見続けるハメになる。』

Q 気分が悪くなった時にはどうするのですか? 仕事を中断したり、持ち場を離れたりするのでしょうか?

『休憩を取ることはできます。必要なだけ取れと言われますが、仕事の効率は下げられない。目標を達成し、生産性を維持しなければなりません。会社は従業員のメンタルヘルスなど気に掛けてもいないのです。』

彼ら(コンテンツ・モデレーター)は、どんな場合でも発注した顧客の望み通りに行動するよう訓練を受けます。仕事に就いたその日から叩き込まれるのです。ここでは目にしたコンテンツについて、実際のところ何を感じても、どう思っても、どう考えても、どの様に整理分類しても、攻撃的だと思っても、社会に対して有害なものだと思っても、倫理的に間違っていると思っても、顧客を満足させる事以外にすべき事はないとね。そうしなければ委託を打ち切られて仕事が出来なくなりますから。

Q 先ほど仰ったような不快なコンテンツに直面する事で感じたストレスに対処し、乗り越えるためにあなた方コンテンツ・モデレーターはどんな手段を取っていますか?

『多くの人は休憩を取って、気持ちを切り替えています。私は誰かがリストカットしている映像を見ても何とも思いません。映画の残酷な場面よりも、そういう映像の方に慣れてしまった。大きな事件としては、同じ会社の従業員で先日、自殺した人がいました。』

Q ちょっと待って、あなたの同僚が自殺したんですか?

『はい、「自殺とコンテンツは無関係」と、会社からのメールには書かれていました。でもその人は、福利厚生の部署に何度も接触を試みていました。しかし、まともな助けを得られず、不快なコンテンツを見て、結局、自殺しました。』

最先端のAIを開発している企業にとっては、聞こえの良い話ではありませんよね。我が社の提供する素晴らしいAIは、(たとえば)時給数ドルにも満たない報酬で働くケニアの労働者たちによって訓練されています、なんて。

最近、チャットポットを訓練したのはシリアの労働者たちです。戦禍にまみれた町で暮らしながら、出来高払いで働いています。月末までに幾ら稼げるのか分からないし、苦しみの声を世間に届ける手段もありません。

誰もこう云うことを表沙汰にしたがらないんです。

発注元の企業は、彼らが搾取されていることを否定できませんし、認識もしています。知らなかったと言っても信じることは出来ません。一定の期日までに技術的な課題にクリアすることばかりに夢中になって、データを処理する労働者たちの不安定な立場など気にもしないのです。彼らのことは置き去りです。


the dataset データセット


ヴラダン・ヨーラー

「最新世代のAIを支えていくのは、コンテンツを分類する労働者の血と汗と涙だけではなく、さらに大量のデータです。」

Q それらをどこから調達するのでしょうか?

「すべての本の目録を作ることが図書館の重要な仕事、私はこういう場を一種のデータセンターだと考えています。」

Q AIとはどんな関係が?

「ここに並んでいるのは、目録カードの引き出しです。見て下さい。これがメタデータです。メタデータとは、画像であれば「猫の写真」「樹木の絵」など。」

Q ファイルを開かなくても中身が分かる説明書きのこと?

「そうです。図書目録と同じ様にデータの中身を説明するデータのことを、メタデータと呼びます。メタデータの規格を統一しておれば、統計を取ることができます。メタデータの分析が可能になると、様々な処理を自動化できるのです。そのように考えると、図書館の大きさとは私たちが検索し参照できるデータの大きさだと見なすことができます。

 例えばGooglebooksのような書籍の検索サービスを想像してみて下さい。ユーザーは、求めている情報をこうした図書館の建物に所蔵されている本の中から探し出すことになるのです。」

「そこで浮かぶのは、これまでどんな人物が図書館のような情報の保管庫を作ることが出来たのか、という問題です。

できるだけ沢山の記録を残してきた国ほど、情報の世界でも良いポジションを占めています。AIに学習できるデータが豊富ですからね。」

Q どんなAIも、データが多いほどより正確な答えを出せる?

「持っているデータが多ければ多いほど、精密な判断が出きるようになります。重要なのはデータの中身です。集めたデータの映像や画像や音声の内容によって、世界の見え方が変わります。AIの行う自動処理のプロセスが、自ずと決まってしまうのです。」

「シリコンバレーの大企業は、できうる限り集められれば集められるだけのデータを集めています。狩りをする、と表現しても良いかもしれません。」

「しかし、こうしたデータの中身はどうなっているのでしょう。

もしも自分自身のクローン或いはデジタルコピーが完成して、私の代わりに活動できるようになったら、ある疑問が湧いてきます。

テクノロジーで再現できてしまう「私」とは何なのでしょうか?

誰もがクローンを作りたがったらどうなるのでしょう?」

「AIの開発が始まって以来、コンピューターの処理能力は向上し続けてきました。18ヶ月ごとに倍増するケース、さらにこの数年は、半年ごとというこれまでにない速度で倍増しているのです。企業は、AIやコンピューターに投資する金額をどんどん増やしています。」

Q チップ一つの価格は?

「一つでおよそ一万ドルです。厳密な取引価格は分かりませんが、一万ドル前後です。25000個使用するので、すべて購入するとするとおよそ二億五千万ドル掛かります。」

Q 一つのAIを動かすためだけに?

「そうです。」

Q たとえばチャットGPT5など次世代のAIには何が必要なのでしょうか。

「チャットGPTはバージョンアップする度に計算の能力が100倍に増えていることが分かります。計算能力が100倍に増えれば、開発コストも大体100倍ほどになります。それを金額にして考えてみればざっと見積もっても何億ドルもの出費となるでしょう。

そこまで出せるプレーヤーはそう多くはありません。その上、開発用の設備が揃っていて大規模なデータセンターにもアクセスできる、そんな企業はMicrosoft、Google、Amazon、Appleなど、ごく一部の限られたところだけです。

より多くの力と、より多くの資金と、より多くの処理能力が必要になるのであれば、とてつもなく重要な疑問が湧きます。これを作れるのは誰なのか、という問いです。

誰が作るかという問いは、このツールの所有者は誰になるのか、と問うことでもあります。基本的には、必要とされるツールの所有者が、その後のゲームを支配することになるのです。」

「実際に、学習中のAIが実際に何を学んでいるのか明確に知ることは出来ません。内部の動きは見えないのです。AIを学習させるコードを書いている人間にも分かりません。

少なくとも私の知る限り、こういう動作をさせるためには、こういうデータが必要だという厳密な理論はありません。闇雲に大量のデータを与えては、どうなっているのかよくわからないけれど、上手く行ったからまあ良いか、と見なしているんです。」

Q まだ因果関係が分かっていない?

「そうです。(まるで魔法の機械みたい)種も仕掛けも謎のままです。」

「今のところ、こうした大規模AIシステムの中で何が起きているのか、まともな説明はありません。いわゆる、ブラックボックスです。指示を入力してから結果が出てくるまでの処理過程を、誰も詳らかに説明することが出来ないのです。

ブラックボックス、その内部で何が起きているのかを正確に知るプログラマーがいない状況で、AIの性能を上げるには、より多くのデータを集めるしかありません。

例えば、対話型のAI、チャットGPTの最新版では、学習期間におよそ一兆の単語が使われています。書籍やウィキペディア、品質の高いニュースの発信元や科学的文献などから調達しています。文学のような長文の素材も重要視されます。機械学習に携わる人々は、質の良いデータセットを構築するために、こういうものを優先してきました。」

Q 質の良くないデータセットの場合は?

「ネット上に転がっている文字データを中心に使います。ソーシャルメディアへの書き込みやつぶやき、メッセージアプリで交わされる短い会話。」

「AIを開発している企業は後五年もたたないうちに、人類が生み出したデータの大部分を収集し尽くしてしまう筈です。」

Q つまり質の高いデータが枯渇してしまう?

「それは間違いないと思います。私たちは従来手に入れてきたものよりもずっと質の高いデータを訓練で使いたがると思いますから。」

Q ではAIが生成する大量のデータはどうなるのですか? 画像もあれば、テキストもあります。これらもAIが学習するデータセットの一部となっていくのでしょうか?

「その可能性はあります。人間が書いた文章の代用品として、AIが機械学習したものをAIの教材として使うことになったとしても、私は驚きません

何かの対策を施さなくては、この一二年で私たちの世界はコンピューターが生成したコンテンツに完全に汚染されてしまうでしょう。

理論上は、あと数年で機械が作ったコンテンツの量が、人間が生み出したコンテンツの量を超えます。統計学を駆使した高度なシステムがガラクタを作るために生み出されている。オートメーションて偽情報を量産しているのです。

その上、私たち人間はこの状況を招いた企業に、情報の真偽を自動で見極める手段の開発まで求めている。全く逆の仕事をする二つのシステムを作れって言っているのです。一方で情報を作り出し、もう一方で情報を修正させようとしているのです。これは大きな間違いの基になると思うのです。」

「AIが作り出す世界に生きることとは、平均値を追い求める凡庸な世界に生きること。私たちはそれを望んでいるのでしょうか?何がそして誰が私たちの未来を選ぶのでしょう。」

「私たちが向かっているのは、平均値を理想とする世界です。統計的に見れば進歩なのかもしれませんが、微粒子は皆失われていきます。文化や社会における微粒子とは、私たちのことです。それぞれに立場や考えの異なる人々、ひとりひとりが個性的な微粒子です。しかし、AIのような統計に基づくシステムは、凡庸であることへと傾いていくのです。」

「一つだけ、確かなことがあります。

AIは雲の滴でも魔法の箱でもありません。血と汗と貴重な金属を費やして作られるものなのです。

AIが作り出すコンテンツは統計によって導き出された幻覚のようなものです。その事に気付けばむしろ興味深く感じられます。真実ではないと言うことを理解することが大切ではないでしょうか。」


コモン・クロール ネット上のデータを蓄積し、無料で提供する非営利団体


第三の語り部

認知科学者

アベバ・ビリャネ

「いかなるAIにとってもデータセットは必要不可欠なものです。大規模なデータセットが無ければ、AIは作れません。それほど重要な存在であるにもかかわらず、データの中身や出所について注意を払う人が決して多くないのが現状です。

実際、AIに読み込ませるデータセットの質は、悪くて当たり前と考えるのが普通になっています。基準がとても低いのです。」

「データセットの質をチェックするために、どんなキーワードがどんなデータと結びつけられているか、検索して記録に残しています。

私がこれまでに検索したのは、こんなキーワードです。

アフリカ系、アジア系、Aで始まる英単語、黒人の中年女性、痩せている、小さい、テロリスト、スカートの中の盗撮、白人至上主義・・・」

「人的によるデータの収集は、とても効率が悪いのです。手当たり次第に集めたデータを一生懸命分類したり、有害な内容を取り除いたり、AIが読み込めるデータにするまで、時間と手間が掛かります。

しかし、ここ二年ほどで状況は変わりました。

人を使ってデータセットを作るのではなく、コモン・クロールの自動化システムで自動的に収集されたデータを使うのが主流になったのです。」

「AIが生成する回答は、データセットが大きいほど賢くて興味深いものとなる。その事に気づいた開発者たちは皆、コモン・クロールが提供する自動的に収集した強大なデータセットを使うようになりました。」

「コモン・クロールはアメリカの非営利団体です。ウェブサイトを毎日自動的に巡回し、データを集めて大量に蓄積するので、日を追うごとにデータが増えていきます。」

「データセットには深く根付いたステレオタイプが現れていることがあります。例えば、美しいという言葉の多くは、裸の女性の画像データと紐付けられています。検索するとポルノサイトの画像が大量に出てくるのです。

一方、ハンサムと言う言葉で検索するとスーツを着た白人男性の画像が出てきます。

こういうステレオタイプの認識がデータセットにどれだけ染み付いているのか調べているのです。」

「インターネットの大部分は、暗い路地裏のような場所なんです。私にとってインターネットは、みんなの考えが反映された場所と云うよりも、人々が有害廃棄物を垂れ流す場所に見えます。

だからこそ、ネットには適切なセーフガードや有害なものをフィルタリングする仕組みが必要なのです。インターネットは全人類の考えを反映したもので、データはそこから引っ張ってくればいい。そんな安易な考えは危険だと思います。インターネットは問題だらけなんです、でも残念なことに何十億もの人々が関わるデータを手に入れられる場所は、インターネットの他にはありません。そこが問題なんです。」

「AIに学習させる際、こうしたステレオタイプのデータを使用すると、こんな風にステレオタイプの回答をするAIが出来てしまいます。」



如何でしょうか。

冒頭のジョセフ・ワイゼンバウムの言葉

『AIの危険性は、機械の思考が人間じみてくる事よりも、人間の思考が機械じみてくる事にある。』が、現実に起こっている、進んでいる、という言い知れぬ恐怖を覚えます。

もっというなら、ホロコーストの時代を生き抜いたユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントが、アドルフ・アイヒマン、ユダヤ人を最終処分場であるアウシュビッツなどの絶滅収容所に輸送する陣頭指揮を執ったナチスの役人の裁判を傍証し、こんなにも凡庸な男が、組織の指示に機械の一歯車となって、600万人ものユダヤ人の大量虐殺の指揮をしたことに、人間の深い闇を感じ、『悪の凡庸』という言葉を残しましたが、その『悪の凡庸』が、ここにも現れている、と感じます。

この数年でAIの進歩は凄まじいものがあります。

初期のものとしてはGoogle検索です。知りたい事をプロンプトにテキストで入力すれば、知りたい情報の所在が、優先順位の高い順からリストで示されました。これでも途方もなく有り難かったですが、今では、音声や画像で問い掛ければ、回答を返してくれます。

さらに生成AIともなれば、問いや指示に対して、まるで人間の様に、記憶した情報から問いや指示に沿う回答を生成し、回答としてテキストや音声、画像、動画を、リアルタイムで返すまでになりました。まさにリアルタイムなコミュニケーションが可能になったということです。

この世の中には、あらゆる場所で、私たちをサポートしてくれるヘルプデスクが存在します。それらに置き換わって、リアルな人間の姿をモニターに映した生成AIが、24時間、どんなヘルプにも、温容に、丁寧に、正確に、対応してくれる様になるのです。

しかし、映し出される人間が、自分の家族であったり、友人であったり、信頼している人、超有名人であったりしたら、見慣れている表情、聞き馴染んでいる声で話しかけられたら、私たちは本人と疑う手段は、ほぼ皆無となり、本人と信頼しきって会話をすることになるでしょう。もうけ話を持ちかけられたり、助けを求められたり、内緒事を話してしまったり・・・、そう、現在、私たちを苦しめる詐欺行為の深刻度が更に増す事になるのは間違いないことです。

そしてもう一つ、いまやOECDの中でも貧困率が高い国となった、そしてOECDの中でも依然として識字率の高い日本人が、コンテンツ・モデレーターの仕事に従事させられる未来を想像すると、さらにぞっとする絵が浮かんできます。

AIが作り出す空間にバーチャル・リアリティーの空間があります。バーチャル・リアリティーが作り出す空間を多様性のある、自由で民主的、平等な世界と捉える向きがありますが、AIになにがしらの指向性が隠れていたら、私たちは知らず知らずの内にAIに感化されることになります。現実とバーチャル・リアリティーとのギャップに苦しんだり、現実への怒りや憎しみが募ることも容易に想像できます。コンテンツ・モデレーターもそれと同じ苦しみを味わうことになると思います。

私たちは、どう避けられるのか。また、古来からの日本人が紡いできたコンテンツが奪われ、AIが生成する偽コンテンツに汚染されない為に、どうすればよいのか。

途方もない難問が、すぐ目の前に迫っていることを実感させられました。


まず、私たちができる事とは、知る事、知ろうとする事、だと思います。

それを強く私は、主張したいと思います。 

2024年4月22日月曜日

映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)”

先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。
ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、まことに今、私たちが直面している危機にも通じる恐怖を描いて見せてくれました。
ただ映画館は、新作コナンが上映される大スクリーンには、家族連れや若者たち、子供たちが大勢集っていましたが、今作が上映される小スクリーンには、私と同年代のシニア世代がちらほら入っている程度の有り様で、できれば、家族連れや若者たち、子供たちの多くにも今作品を観てもらい、感想や内容、疑問について会話し、私たち、貴方たちの未來を左右する危機について、自分事として関心を持つ機会にしてほしいと老婆心ながら思わずにはいられませんでした。しかし、この映画はレイティングがR15+なんですね。実際に鑑賞していて、生々しい情事の様子や情事の後の女性の裸体が、都度、緊張感が漂う詰問会の場面に何度も差し入れられて、そのあまりの唐突さに戸惑うと同時に、気恥ずかしい気持ちにもなりました。ノーランの意図は理解しますが、全年齢、少なくとも12歳以上鑑賞可能な表現に出来なかったものかと、その点が唯一のマイナス評価となりました。

冒頭の”nearly zero”は、オッペンハイマーが開発部門で指揮をとったマンハッタン計画(濃縮放射性物質の核分裂反応を利用した原子爆弾の開発)の最終段階となる1945年7月16日に実施されたトリニティー実験(人類史上初となる原子爆弾の爆発実験)で、オッペンハイマーたち理論物理学者が理論方程式で導いた、濃縮された核物質の核分裂反応が自然界に存在する核物質の核分裂反応を誘発する確率の数値です。演算上zeroでないということは、トリニティー実験が導火線となり地球が太陽の様な巨大な火球になる可能性がzeroではなかったということを示しています。
翌日7月17日からポツダムで始まるアメリカ、イギリス、ソヴィエトの3カ国首脳による第二次世界大戦後の世界地図と戦後処理を決定する会談で、すでに始まっていた冷戦の敵国ソヴィエトの首脳にアメリカの圧倒的な力の保持を明示することで、戦後の世界地図をアメリカの思い通りに描くためには、是が非でもアメリカの為政者は原子爆弾が必要でした。
このアメリカの為政者の身勝手な理由だけで、計算上”nearly zero”の人類初の核爆発実験は、ロスアラモスという秘密の原子爆弾開発研究所に集う科学者と軍人、政府関係者の内々が見守る中で実施されたと、ノーランは粛々と行われたトリニティー実験当日の様子と、夜明け前の闇夜を裂く巨大な火球、その火球から数十㎞先まで放たれる、射すもの全てを焼き尽くす光と立ちはだかるもの全てを吹き飛ばす爆風で、その成功を描きました。

しかし、ノーランはエピローグで再びオッペンハイマーの悪夢として”nearly zero”に言及します。
アメリカの原子爆弾開発は、理論物理学の先進国であったドイツで、ナチスが原子爆弾の開発に着手したというニュースに脅威を覚えたドイツからの亡命者で希代の理論物理学者であるアインシュタインが、時の大統領ルーズベルトに開発に着手する進言書を送った事が発端という話があります。映画でもこの点が触れられていましが、しかしナチスは、原子爆弾開発を中断或いは中止して、弾道ミサイル開発を推し進め、第二次世界大戦中にV2ロケットを実用化し、ロンドンに向けて発射を成功させていたました。オッペンハイマーは知り合いの戦闘機パイロットから、戦闘機よりも速い速度で火花を吐きながら飛んで行く幾つもの物体の光跡を目にしたことを聞いて、その事実を知っていました。
オッペンハイマーの悪夢は、核兵器保有を隠さぬ超軍事大国を筆頭に、1945年から79年を経過した現在、十数カ国が核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルを保有するに至っており、その多くの国が、現在、実際に戦争を行っていたり、或いは何時発火してもおかしくない紛争の火種を抱えている状況です。万一にも、一つの核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルが発射されれば、自動的に反撃の核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルが発射される仕組みとなっていて、”nearly zero”と理論物理学者が計算した核兵器による地球の火球化は、今まさに現実の危機となったと、ノーランは描いていました。

オッペンハイマーは、裕福なユダヤ人家庭の出の、いわゆる天才的な頭脳を持つ非常に上昇志向の高い人物であると同時に、アンナ・ハーレントの『責任と判断』を読んで、100年前の貴族や富裕層が背徳に惹かれていた事を知り、オッペンハイマーも、アメリカ社会に反する共産主義に興味を持ったり、またキリスト教やユダヤ教の戒律に反する行為、姦淫の行為に耽るといった、精神的に不安定さのある人物であったと想像します。そういう人物であったから、共産主義に傾倒する精神科の女医との情事に耽った過去がありました。
オッペンハイマーは、アメリカ市民から『原爆の父』ともてはやされた絶頂期に、トルーマン大統領と面会し、原爆よりもさらに破壊力のある水爆開発に異を唱えた事で、アメリカ政府はオッペンハイマーを共産主義者のスパイという嫌疑を掛け(全くの冤罪)、彼の名声を奪い、社会的な抹殺を図ります。その重要な証拠としてくだんの過去が利用されました。
オッペンハイマーを陥れたのは、原子爆弾投下を政治利用した張本人であるトルーマン大統領であり、オッペンハイマーに変わって水爆開発を担う事になる同僚であった科学者であり、オッペンハイマーに恥を掻かされたたたき上げの政治家でした。彼らは、オッペンハイマーの口を封じる為、或い我欲の為、或いは妬み、怨みのために、オッペンハイマーを裁判ではなく、非公開の詰問会で責め続け、彼を精神的に追い込みました。くだんのふしだらな幻視はオッペンハイマーの苦しみの具象でありました。

最後に、映画の中での日本への言及について、
東京大空襲で、一夜にして14万人が殺されことが、原爆の開発を中断しようと立ち上がるロスアラモスの科学者の中で話されていました。要は、原爆開発競争の対抗馬であったドイツはすでに降伏し、残る日本も戦争を続ける戦力も体力もなく、国内は全国津々浦々まで空爆され廃墟と化しつつあることを、アメリカ人はニュース等で知っていたのだと思います。誰の目にも、思考にも、日本に原爆は必要でないことは明白でした。しかしトルーマン大統領だけは、新たに始まった冷戦の敵国ソヴィエトを黙らすために、原爆投下というパフォーマンスが必要だった。その為に原子爆弾は投下され、そしてヒロシマでは十万人を越える市民が、ナガサキでは7万人を越える市民が、原爆の一撃で瞬時に殺され、そして翌日から現在に至るまでに重度の火傷や怪我で、そして原爆病を発症して、20万人以上の人々が長い苦しみの末に死んでいったのです。
その惨劇を伝聞でしったオッペンハイマーは、自分の手が血で染まっていると表現し、後悔に打ち震えます。ただ、誰も惨劇の実際の様子を見た人など生存していません。B29から投下された原子爆弾が上空500mで炸裂し、爆心地点から1㎞圏内を一瞬で焼き付くし、4~5㎞圏内を光線と爆風で破壊し尽くしたのです。
ノーランは賢明でした。死者への冒涜でしかないヒロシマとナガサキの惨劇を映像化しませんでした。私はノーラン監督の真実に迫る映像作家としての矜恃に、最高の評価を与えたいと思います。

2024年4月15日月曜日

不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤官九郎作のドラマ『不適切にもほどがある!』は、多くの日本人の共感と支持を得たと思います。私もその一人です。

ですが、最終回で不寛容な日本社会の倫理観に囚われる人々を解放するように、フィナーレで『寛容になろう!』と登場人物皆で歌い上げるシーンには、ちょっとだけ違和感を覚えました。


この違和感が何なのか、以下に考えたいと思います。


18世紀中頃に活躍したフランスの著述家ヴォルテールの著書『寛容論(原題:”Traité sur la Tolérance” 英語訳”Treaty on Tolerance”)』には、日本に言及した箇所がありました。ヴォルテールは文明の地ヨーロッパから遠く離れた当時の日本を評して、世界で一番寛容な国であると記していました。当時の徳川幕府が支配する日本はキリスト教を禁教とし、島原で起こったキリスト教徒の反乱を武力で根絶やしにするほど苛烈に弾圧をしていましたから、当然ヨーロッパのキリスト教徒は日本を野蛮な国と断じていただろうと思っていましたので、ちょっと驚きを覚えました。

しかし、ヴォルテールの補足説明で、合点がいきました。

当時のヨーロッパではキリスト教はカトリック派、プロテスタント派、教皇派等に分かれ、それぞれもまた枝葉が分かれる様に分派し、それぞれの宗派のキリスト教徒は他の宗派のキリスト教徒を殺しても足りないほどに憎しみあっていました。これでは文明国家として進歩てきないと憂えた進歩的な知識人が立ち上がり、王を説き、法律を作って、宗派対立の憎しみを耐えて抑制し、文明国家へと進歩できるように国民を啓蒙しました。ヴォルテールもその一人として活躍しました。

この『他宗派への憎しみを耐える』が”Tolerance”の原意であり、”Tolerance”は明治期に『寛容』という日本語に翻訳されて、日本にもたらされました。

徳川幕府以前の日本の支配者も、徳川幕府以後の支配者も統治に悪い影響を与えない限りにおいで信仰の自由を国民に保証しました。ヴォルテールはこの日本の統治の有り様を知っていたのです。

ヨーロッパには明治期以後に『寛容』と日本語翻訳されたもう一つの語があります。『カエサルの寛容』の意として用いられる”Clementia”です。原意は『寛大、或いは慈悲』です。古代ローマ帝国の皇帝は、支配地の統治に悪い影響が無い限りにおいてローマとは異なる土着の文化や信仰を許すという寛大さや慈悲を示したのです。

このような歴史的背景から、ヴォルテールは18世紀において日本が最も寛容な国であると評したのだと思います。

また日本のキリスト教の禁教と弾圧は、16世紀から日本への布教活動を進めた教皇派の分派であるイエズス会の政治的思惑(布教を足掛かりに日本でのスペイン帝国の影響力を強める)を日本の統治者が察し危険視したことから起こった出来事であるとの理解が示されていました。


『寛容』という語を、現在の私たち日本人は『心が広く、他人の過ちや欠点を厳しく咎め立てしないこと、他人の言動・意見を受け容れること』の意として使います。

反対語としての『不寛容』は『心が狭く、他人の過ちや欠点を厳しく咎めること、他人の言動・意見を受け入れないこと。』の意です。


『不寛容』は簡単に行えます。自由の名の下に、身勝手に心の赴くままに振る舞えばいいのです。抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担は一切ありません。責任の重みを感じなければ『不寛容』は、歌を口ずさむような、軽口を吐くような程度の事で、きっと罪悪感というものも一切記憶に残る事はないでしょう。しかし、やられた方は、きっと殺したいほど憎しみを募らせる事になるでしょう。


『寛容』は違います。寛容には、抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担が強いられます。重い義務と責任が伴います。その為に、誰でも彼でも『寛容』を実践することは簡単ではないのが実際だと思います。

『寛容』ある態度で振る舞う事は、しっかりと『寛容』についての義務と責任を学び、実践を積む事でしか表現できないと思います。『寛容』は、仏教で表現されるところの徳を積む行為です。誰も彼もが生半可に行える行為ではありません。


そう、そこが私の違和感の所以です。

ドラマでは生半可では出来ない『寛容』を、さも誰でもよっといで『寛容になろう!』と呼びかけている様で、そこに違和感を覚えたのです。


現在の日本社会を支配する不寛容な倫理観は、やはり正さなければならないと思います。

しかし、それは安易なる『寛容になろう!』を説くのではなく、まさにこの数百年で、人類が人権に授かれる範囲を少しずつ獲得し広げていった様に、不寛容な事柄に一つ一つ向き合って、正す様に社会の合意を取りながら、不寛容な事柄を無くする様に一歩一歩着実に進めていかなければならないのだと思います。

そして、『社会の合意を取る』とは、社会を構成する一つ一つのセクションで役割を担う人々に、責任と義務を行使する為の実権を委ねることです。今の社会は、実権もなく責任と義務を負わされてしまうから、役割を担わされる人々は疲労困憊するのだと思います。


実権が与えられてこそ、遣り甲斐が沸き立ち、責任ある行動を自らを律して行えるのだと思います。そのためには、子どもの頃から自治の精神を育まねばなりません。そうでなければ、『耐える』『抑制する』ことも、『寛大』『慈悲』という徳を積む行為を行うことも、不可能だと思います。 

2024年3月31日日曜日

戦後の闇に思いを馳せる「下山事件」

昨年夏にアメリカをはじめ日本以外の国で次々に公開され、映画作品として高く評価された上に抜群の興行成績を上げたクリストファー・ノーラン監督作品『オッペンハイマー』が、先週金曜日にようやく日本で公開されました。

『原爆の父』と称され、理論物理学者でアメリカの原爆開発(マンハッタン計画)を指揮した事で知られるロバート・オッペンハイマーが主人公であることと、海外で先行公開された映画の日本国内からの批判として、広島や長崎の惨状を描いていないという指摘から、配給会社が配給を躊躇したことから日本公開が危ぶまれていましたが、アカデミー賞をはじめ数々の映画賞に作品が輝いたことから潮目が変わり、海外から約八ヶ月遅れでの公開となりました。

私は、ノーラン監督がこの作品に込めたであろうメッセージを観て感じて汲み取りたいと思っていましたし、また広島や長崎の惨状を映像表現として描いていないことに好意的に捉えていました。

後者について、もう少し考えを述べると、

広島や長崎の惨劇は、原爆が空中で炸裂してキノコ雲が立ちのぼる刹那の惨劇は、誰のイマジネーションも到底及ばないだろうと思うとともに、またそれを万一描くことは、それこそ被爆者の記憶への冒涜になるのではと思うからです。

もう一つは、過去に一度、正面切って、この刹那を再現した映画がありました。1953年に広島でロケーションされ、被曝を経験した広島市民が多数エキストラで参加して作られた、長田新が編纂した作文集『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』をベースにして作られた関川秀男監督作品『ひろしま』です。前年1952年に日本は独立を回復しましたが、アメリカの強い支配下に置かれ、『親米政策』が取られていた当時の日本では日の目を見ることが出来なかった作品です。

この映画で描かれた刹那は、朝の日常生活を送る広島市民を突然に強い光が覆い、命のあった人々が起き上がると、そこはもう火焔地獄でありました。

今を生きる私たち日本人が、この刹那を観たければ、『ひろしま』を観てほしいと思います。今では配信で観ることが可能です。


そして、いつ『オッペンハイマー』を観に行こうかと考えながら、昨日夜にNHKで放送のあった『NHKスペシャル 未解決事件 File.10 下山事件 第1部ドラマ編』を観ました。

なんというかとてつもない実録を観た、日本人にとっては『オッペンハイマー』より凄味があるのではと実感したと同時に、よくNHK作ったなと感嘆し、アメリカがよく許したなという隔世の感を感じた次第です。


『下山事件』、終戦直後の日本で起こった当時の国鉄総裁下山定則氏の轢死体事件です。漫画でいえば手塚治虫や浦沢直樹も、この事件を自身の作品の中で取り上げていました。

私の記憶はその作品に触れた時の記憶です。実際、どれほどの事件であったか、以後の日本にどれほど暗い影を残したかはまったく知りませんでした。


ドラマで、特に心に響いた台詞を、書き記します。


大きな圧力によって、そうそうに事件捜査が打ち切れれるなか、少数精鋭でこの事件の真相を追う検事 布施 健(森山 未來)が、闇世界にも通じる政界のフィクサー児玉誉士夫と関係のある読売新聞大阪本社社会部記者 鎗水 徹(溝端 淳平)から情報を聞き出そうと説得する場面の布施検事の台詞です。


「どんなときも、手を汚し傷つくのは弱い者たちだ

戦場からやっとのことで戻ってきても、生活は苦しい

飢えた者に正義を説いたところできれいごとだ、彼らには右左もない

何も知らされず、分断され孤立させられ、僅かの金で権力者たちの目的遂行のために利用され、使い捨てられ・・・

こんな事が、いつまでも許されて良いはずはない」

「(鎗水さん、貴方は本当は)名もなき者たちの声を、社会に届けたいんじゃないですか?」


下山事件を追う布施検事の同士のような存在である朝日新聞編集局社会部記者 矢田喜美雄(佐藤 隆太)が、告白を翻意した鎗水記者を説得にいった際に、何者かに襲われ怪我をしたことを受けて、捜査を止めることを決断した布施検事が、矢田記者に話す台詞です。

「ひとりの人間の命の重さなど、国益と比すれば塵の如きものか

ひとりの人間の命は、国益より優先されなければならない、と私は思っているんす」


事件の真相を何もかも知るであろう人物、右翼活動家 児玉誉士夫(岩崎 う大)に面会した際の、布施検事と児玉誉士夫の会話の台詞です。

布施「そもそも、下山総裁は何故殺されたんですか?」

「一つ美談をお聞かせしようか、美談は真実とは限らないが・・・

当時アメリカは、ソ連や中国との戦争を本格的に考えていた

そうなった場合、軍事力の輸送に使用できるよう、日本全土を縦横に走る鉄道を米軍に差し出せと命じていた。

下山はそれを断固拒否した。下山は長く鉄道畑で働いてきた。彼は鉄道マンだ。日本が誇る輸送網を軍事利用から守った。」

布施「美しすぎる話ですね」


布施検事がひとり、事件の真相を辿る場面の内なる声の台詞です。

「アメリカと日本の旧軍閥は、反共と再軍備で結びついていた。

かつての戦犯がアメリカと手を組み、着々と軍の復権に向けて暗躍していると知ったら、日本国民はアメリカへの不信を募らせるだろう

アメリカにとって親米の空気を維持することは絶対である。」

「下山事件は、自殺とも他殺とも断定されずに終わった

李中煥(玉置 玲央)が総裁暗殺はソ連の仕業だと云ってきたのは、そのすぐ後だ

自殺説はアメリカにとって誤算だった

当時世界情勢は、共産勢力の勢いが凄まじかった

アメリカは焦った筈だ

強引にでもソ連は謀略の国と、日本国民に印象付ける必要があった

あの時私は、李と会いにいき、ソ連による謀殺説を一時的にも信じた

俺も反共に利用されたのか・・・」


すべてを知るであろう吉田茂に面会を望んだ布施検事が、自席検事 馬場義続(渡部 篤郎)から左遷を言い渡された後に、馬場自席検事と面会した会話の台詞です。

布施「ご説明、頂けますか?」

馬場「吉田は今も衆議院議員だ 七期目だ、大したもんだ

検察が議員に話を聞くとなると、穏やかにいかんよ

向こうは選挙で選ばれた国民の代表で、こっちは国家権力だからな」

布施「義続さん、『独立』とはなんでしょうかね」

馬場「アメリカとの関係は、国の存亡に関わる」

布施「その言葉ですべてが片付けられている

検察が国家権力なら、検事であるわれわらが果たす責任とはなんでしょうね

われわれに与えられた権力が無いに等しくて、それでも日本は主権国家と呼べますか?」

馬場「傀儡だとでも云いたいか」

布施「国の謀略によって一人の人間の命が無惨にも奪われ、その死が都合良く政治に利用される

しかし、手を穢すのは何時だって立場の弱い者であり

力を持つ者が救うべきはその名も無き者たちです

国家主義を捨て、国民一人一人の幸福を希求するのが戦後の理想だった筈

それができないなら、それができないなら、アメリカが日本にもたらしたものは真の民主主義では無い!」

馬場「絶望したか?ならば検事を辞めるか…、

ものごとは複雑なんだよ、黒か白か、右か左か、敵か味方か、国か個人か、そんな簡単に線を引けたら苦労はしない、お前だって分かっているだろう

その混沌の中にあって、かろうじて一番まともだと思える線を探っていくんだよ

そして今、最もまともな判断がアメリカとの関係の継続なんだよ、違うか」


1964年7月4日 下山事件が時効を迎える直前、朝日新聞編集局社会部記者 矢田喜美雄(佐藤 隆太)が訪ねてきた時の会話です。

矢田「下山の件でね、やっと怪しい人物を見つけたんです」

布施「君も変わらないな」

矢田「時効が成立したら、俺はどうすればいいでしょうね…」

布施「権力を監視してください

そして、少しでも強い力を感じた時は、

迷わず書け。」


下山事件から、今年で78年が経ちます。当時の為政者は、国民に決していえない、明かせない闇を抱えていたとしても、そこには日本の未來を考えていたこと、そこだけは蒙昧ですが信じたい、そう思います。

ですが、現在の為政者の不遜さ、無責任さ、そして国家を私物化している様子をみると、過去の為政者の本心さえ疑いを覚えてしまいます。非常に悲しいことです。


あたりまえですが、アメリカは民主主義の国です。ですが、それはアメリカ国民の民主主義です。アメリカ国民の政治に参加する権利、自己を表現する権利を守る民主主義です。

しかし外国に対しては、アメリカの利益が第一です。トランプが言い始めた事では無く、はじめからアメリカ第一主義です。

では日本はどうでしょうか。国体は民主主義国家となりましたが、占領期から変わらず日本は自立よりもアメリカ第一主義を政治も経済も、含めるなら司法も優先したまま今日に至っています。失われた30年は、戦後復興の情熱が失われた世代が、アメリカ第一主義で無責任に過ごしてきた結果ではないかと思います。

ほんとにゴミのような私でさえ、その無責任の一旦の責任があります。

きっとアメリカの良識は、こんな日本を望んではいないでしょう。自立、責任、そして親和を私たち自らが育むことが、アメリカの良識と対等に付き合える国、アメリカの良識が信頼する国になる術なのではないかと、思います。